ブックタイトル日本シティジャーナル vol.198

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日本シティジャーナル vol.198

vol. 198益田岩船いことは、建国に携わった神代の神々とは大陸から船を用いて海を渡ってきた渡来人、かつ海洋豪族であるということです。大陸から日本列島を目指して訪れた民は、優れた航海技術を携えてきただけでなく、天文学の知識に長けていることから、地勢観の見極めに特に敏感であったと考えられます。それ故、天体と地の指標を見ながら、ピンポイントで方角や距離を特定し、目的の地を探しだすことができたと想定されます。「石の宝殿」が造られる場所を特定された経緯を理解する手掛かりは、レイラインの検証からヒントを得ることができます。大己貴神ら二神の時代は、国造りが始まった直後ですから、まだ列島内にはレイラインを構成するために必要な指標の地がほとんど存在しません。記紀に記されているストーリーの中でも、伊耶那岐神による国生みの時代から孫の代々、大己貴神に至るまでの間、出雲以外に特筆されている地名は以下のとおり。・熊野有馬村の花の窟・阿波の鳴門海峡や明石海峡・淡路国・筑紫の宗像(沖津宮、中津宮、辺津宮)・宇佐島・天香山・熊野の岬・日前神(紀伊国)大己貴神ら神代の人々は当初、船に乗って九州北部から日本海へと渡り、出雲から上陸しました。よって、古代では出雲までの船旅の途中にある宗像周辺や対馬、壱岐などの離島は、ごく自然に渡来者の拠点となりました。その後、国造りをはじめるにあたり、まず淡路を中心とする阿波の国周辺と紀伊国にスポットがあてられたようです。そして本州の中心となるべく紀伊国の北方、奈良の盆地にある三輪山が聖地と定められ、そこに大和国の朝廷が設立されたのです。大己貴神ら二神にとって、国造りをはじめた直後は、上記程度の地名しか知る由もなかったはずです。それでも国家を鎮めるための「石の宝殿」の場所を見出すことができたのは、レイラインが交差する重要な拠点があることに気が付いていたからに他なりません。どのようにして列島内に「岩なる神」となる巨石を見出し、そこで神を祀ることができたのか、古代史の流れを振り返りながら、レイラインから見出せる拠点を検証してみましょう。益田岩船のレイライン大己貴神と少彦名命の二神が出雲から旅立ち、そこから列島内の各地を巡り渡るためには、列島の地勢を理解するための目印となる指標が不可欠でした。そこでまず、基点となる場所を天香山周辺に見出したと想定されます。素戔嗚尊の時代、紀伊国の日前神により、天香山の鉱物を用いて日矛が製造されました。天香山は奈良盆地の中にある標高152mの小高い丘であり、遠くから見てもわかりやすい場所にあり、内地で名前が知られていた唯一の拠点だったことから、その周辺に基点を置くことが最善策と考えられたことでしょう。そこで見出されたのが、天香山から南西方向におよそ4kmの場所にある、今日では益田岩船と呼ばれる巨石です。ではどのようにして、益田岩船の巨石を特定できたのでしょうか。二神はまず、紀伊半島の最南端にある紀伊大島の出雲を指標としたと考えられます。紀伊大島は半島の先に突出する島であることから、海、陸地、双方から見てすぐにわかる場所といえます。その紀伊大島の東方にも出雲という地名が存在することに注目です。出雲はヘブライ語で(itsumo、イツモ)を語源とする言葉と考えられ、「頂点」、「最大限」、「最果て」を意味します。よって、紀伊大島の最南端も出雲と命名されたのでしょう。そこから真北に向かい、淡路島の伊弉諾神宮と同緯度の線と交差する場所を拠点とするならば、いつの日でも一目瞭然にその場所を特定できます。そこが益田岩船の聖地となりました。益田岩船と同緯度の線上には伊弉諾神宮だけでなく、その後、西方の対馬には和多都美神社が、東方の伊勢には猿田彦神社が建立されることになります。よって益田岩船は、これら聖地の場所を奈良の中心から見定める上でも、極めて重要な位置付けとなったのです。生石神社のレイライン奈良盆地の中心に見出された益田岩船は、さっそく大己貴神ら二神により、列島の指標として用いられたと考えられます。二神は国家安泰のため、「石の宝殿」となる場所を探し求めていました。それが益田岩船を介したレイラインの検証から、生石であることが確認できたのです。その結果、生石において巨石にノミがあてられ、前代未聞の巨大な建造物が造りあげられたのです。生石神社の由緒に記されていることが作り話でないことは、レイラインの検証から推測できます。まず、奈良に見出された益田岩船の巨石がある地点と、日本海側の基点である出雲の八雲山を一直線に結びます。八雲山は出雲大社の北側に聳え立つ山であり、出雲大社の御神体であると古くから囁かれています。その直線上に「石の宝殿」を創建する場所を見出すものとします。次に兵庫県の六甲山に目を留めてみました。大阪近郊にあるにも関わらず、六甲の山々は急斜面に囲まれ大変険しいことで有名です。その六甲山の最高峰から同緯度になる水平の線を引き、益田岩船と八雲山を結ぶ線が同緯度の線と交差する場所を特定します。そこが「石の宝殿」となる場所です。これらの因果関係もあってか、今日では六甲山最高峰そばにも六甲山神社と共に、六甲山の「石宝殿」があります。「石の宝殿」が造られた時を同じくして、大己貴神(大物主命)は四国香川の琴平山ともよ益田岩船のレイライン出雲大社八雲山ばれる象頭山を訪れ、そこに金刀比羅宮を建てられました。その奥宮は今日、厳魂神社と呼ばれています。金刀比羅宮は海上交通の守り神として古くから篤い信仰を集めているのは、海洋豪族である大己貴神ら創建者の働きによるものです。金刀比羅宮の周辺は古代、入江が近くまで入り込み、海辺に面していたと考えられます。ではどのようにして金刀比羅宮となる場所が特定できたのでしょうか。金刀比羅宮の奥宮となる厳魂神社は、四国の霊峰、石鎚山と「石の宝殿」を結んだ線上にピタリと位置しています。石鎚山は崇神天皇の御代、石鎚の峯に神が勧請されたと伝承されています。それは「石の宝殿」が造られたのと同じ時代です。しかもその地点は、出雲の八雲山と四国剣山を結ぶ線がちょうど交差する場所にあります。金刀比羅宮厳魂神社も大己貴神の働きにより、「石の宝殿」が造られた時代に創建され、四国、中国、九州地方を統治するための一大拠点となった形跡を窺えます。古代から言い伝えられてきた由緒の内容は確かであったことをレイラインの検証から確認することができます。「石の宝殿」は、その後も大切な指標として用いられることになります。大己貴神の時代、一連の国造りが進んだ後、三輪山に神が降臨され、そこに大神神社が建立されました。その大神神社と「石の宝殿」と結ぶ線上に、海上交通の神々を祀る住吉大社が建立されることになります。また、石上神宮と「石の宝殿」を結ぶ線上には後世において、和気清麻呂や空海が重要視した神戸の再度山が並びます。レイラインの検証を通して、「石の宝殿」の場所がいかに、古代より重要視されていたかを生石神社石の宝殿伊弉諾神宮益田岩船紀伊大島出雲知ることができます。猿田彦神社何が目的で「石の宝殿」が造られたか?「石の宝殿」が造られた理由には諸説があります。江戸時代には地元出身の学者が、「石の宝殿」は未完成の石棺であったという説を発表しました。周辺の地域には古代、石棺制作地として有名な竜山(たつやま)石切場が存在し、竜山石切場で造られた石棺は、東は滋賀県、西は山口県まで数多く運ばれた形跡があります。また、それらは畿内の大王家の首長墓で使われた長持型石棺と同形であることから、石切場そのものも畿内勢力によって開発されただけでなく、その工作物は「石の宝殿」にまで及んだと推察するのです。その他、天文観測用の占星台説や、火葬の骨臓器を置いた外容施設、供養堂のような新しい形式の石造物という説などがありますが、いずれも信憑性に欠けます。「石の宝殿」の目的はあくまで、国家の安泰です。そのため、元伊勢の御巡幸を引率した海洋豪族を中心に聖地が定められ、神々が祀られたのです。その岩の形状は何かを示唆しているようですが、いまだに特定はできません。しかしながら、「石の宝殿」が益田岩船と関連していることはレイラインの考察からも明らかです。また、「石の宝殿」の背景には元伊勢御巡幸と海洋豪族の働きがあることから、神宝秘蔵との関連性も否定できません。確かなことは、「石の宝殿」の祠は、ぴたりと益田岩船と向き合っていることです。そして「石の宝殿」を拝することは、出雲の八雲山を遥拝することになる、ということです。レイラインの検証から、古代のミステリーが少しずつ紐解かれていきます。(文・中島尚彦)WEBサイト案内日本シティジャーナルをご覧いただきありがとうございます。本紙のバックナンバーはWEBサイトにてすべてご覧頂けます。連載中の歴史に関するコラムは最新情報に随時更新してスペシャルサイト「日本とユダヤのハーモニー」にまとめてあります。ご意見・ご要望等をお待ちしております、FAXやホームページからお寄せ下さい。日本シティジャーナル:http://www.nihoncity.com/日本とユダヤのハーモニー:http://www.historyjp.com/@ricknakajima www.facebook.com/ricknakajima www.instagram.com/kodaishi/編集後記世界一平和な国と知られる日本が、ここ最近、大変物騒な国に様変わりしたように思います。交差点に立っているだけで高齢者の運転する車が飛び込んでくるし、警官も殺人鬼に襲われて重傷を負い、連日、殺人のニュースが放映されています。何か歯車が狂ったような昨今の日本社会です。そんな時、ふと古代の歴史を振り返り、私たちの先祖がいかにして国の安泰を願いつつ、列島を駆け巡りながら労苦したかを「石の宝殿」の歴史から学ぶことができました。日本が再び目覚める時が来ると信じますNCJ編集長中島尚彦-3-