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非道徳コンテンツの野放しを許すな!!
国際都市・成田にふさわしい高いモラル創りを

日本の昔は情緒があって良かった!

1960年代の東京渋谷・公園通りの周辺は野原があちらこちらに広がり、夏になると町じゅうお祭りで賑わったものでした。提灯が道路沿いにぶら下がり、金魚すくいやわた飴などの露天商が勢ぞろいした風景を懐かしく思い出します。その渋谷の街も今では日本最大の繁華街の一つとして、高層ビルと無数の店舗、交通渋滞、そして茶髪で闊歩する若い人中心の姿に変貌しました。連日夜半過ぎまでたむろする若人の姿を見ると、「昔の方が良かったのかな?!」と考え込んでしまいます。

確かに昔はビデオも海外ツアーもインターネットも無く、もちろん風俗といった遊びも何も無い、でもみんなの心はもっと豊かでもっとハッピーだったような気がしてなりません。いつの間にか現代の日本人は本当に大切なものを見失ってしまい、ひたすらストレスを発散し自己中心的な願望、欲望を満たすために、はかない夢を空しく追い求めているように思えるのは単なる錯覚でしょうか?

日本のモラルっておかしくない?

はっきり言ってしまいましょう。多くの日本人は表面的にはまじめそうで勤勉に見えても、実を言うと心の中は情欲と常識を越えたエッチ願望に、うつつを抜かしているのが実態ではないでしょうか。町中にアダルト・コンテンツが氾濫するようになっただけでなく、先進国の中でも一番売春が簡単に行える国と化してしまいした。成田もおかしな街となりつつあります。成田の中心街ともいえる市役所前の通りはここ数年間で変貌し、いつの間にか市役所のお膝元が赤線地帯のような風俗繁華街に変わり果てた感があります。国際都市の市役所の目抜き通りが風俗店だらけなんて何かおかしいですね。

その他幾つかの例をあげてみましょう。例えばコンビニでは、ヌードが掲載されている雑誌がどこにでも置いてあり、子供でも簡単に見ることができます。市役所の周辺を始めとして、町中にアダルト向けの立て看板が掲げられ、役所も誰もそれを撤去しようとしないのが日本特有の現象です。そしてビデオショップに行くとアダルト・セクションが大きく設けられており、青少年や幼児でさえもヌード写真や露骨なSM風景を通りがかりに目にしてしまうことがあります。本屋でも成人向の過激なエロ漫画や風俗オンリーのPC系雑誌、そしてSM誌や同性愛誌が小中学生の手の届くところに堂々と陳列されています。その内容も制限なく過激にエスカレートする一方で、レイプ、痴漢や過激なSMもの、女性の尊厳を屈辱的に汚す異常性欲もの、子供を犯すロリータもの、果ては性的虐待ものなど、他国では殆ど見られないようなコンテンツがごく一般的に氾濫しています。

青少年の頃から女性の裸を雑誌で眺めて性欲をそそられる事だけを覚え、PCのバーチュアル・ゲームで女の子をいじめ、レイプすることを楽しみ、更に過激なコンテンツを「ゲット」しないと満足できなくなってくるこの世界こそ、若者を狂わせてしまっている大きな落とし穴ではないでしょうか? この社会的現象をこのまま放置してよいのでしょうか?

アメリカはどう?

モラルに厳しい側面を持っているアメリカでは、例えばアダルト向けのコンテンツにはどんなメディアでもかなりシビアに規制がかけられています。一般のテレビで成人の裸体が放映されることはまずありません。無論ケーブルテレビ等はプライベートな契約を条件にプログラムが選択されますので、アダルト・コンテンツの放映が許されます。しかしその内容については合法性を検証した上、女性(男性も)に卑劣なロールプレイを行わないことを前提に製作されていますので、チャイルド・ポルノや性犯罪もの、それを超える異常生態(?)ものなどよほどのアングラ(違法)で無い限り見ることはできません。また普通の本屋さんで、女性の裸の写真を目にすることはまずありません。市の条例等によって完全に規制されているからです。あくまでアダルト向けの本は、アダルト向けの書店でなければアメリカでは買えません。

え!アメリカは言論の自由があるのだから、何でもありではなかったの?

そうではありません。実際は保守的な宗教観に基づくモラルが根強く、法規制によってアダルト・コンテンツの線引きが明確になされているのです。このアメリカの例からも「言論の自由」というのは社会の風紀を乱さず、他人、特に子供に悪影響を及ぼさない為の道徳観やモラル、それに基づく各種法令や自主規制が行われているという前提の上に成り立っていることがわかります。

国際都市のモラルとは

成田が目指す国際都市とは前号で述べましたように大人、老人、子供、誰もが「住みよい美しい都市」を言います。そして世界のあらゆる人種の人々が日本固有の文化に触れながら落ち着いて生活をエンジョイできる都市のあり方を指しています。そのためには当然、社会の秩序なるものが必要となってきます。まず国の憲法と法律、そして県や市町村レベルで取り決められる条例等をもって、良識のある高いレベルのモラルをベースとした社会のルール創りをするのが理想的です。ところが良識や常識、そしてモラルというのは、時代、国、地域特有の宗教や道徳観、民族文化、時には言語の使い方等によっても大きく理解が変ってしまうことがあります。それだけにモラルの基準を語り始めた時から様々な角度からこれらを検証して、万国共通の分母となるような教えを見出し、国際都市のモラルとして活用したいものですね。

12ヵ条その2:高いモラルを求めて

レベルの高いモラル基準を定めて庶民に悪影響をもたらす一切の非道徳的なメディアを排除する

一般社会のモラル、そしてわが街、成田のモラルについて考えるとき、まず国際都市には高い水準のモラルが必要であるという認識をもつ必要があります。そして日本古来の文化には、複数の世界的宗教を通して世界に恥じない素晴らしいモラル基準が既に提言されてきているという事実に着目することが大事です。

民主主義の落とし穴

ここで語られるモラル基準は、多数決で決めるようなものではなく、人類が平等に、公平に、平和に共栄共存するための先祖代々から継承されている不変の教えです。「モラルなんかいらない、快楽にふけよう!」という声が多数決で圧勝しても「駄目」と声を大にして言える、社会に不可欠な教理なのです。モラルの基準は民主主義的発想では決められません。何故なら、過半数以上の人間が集団で間違った見解を持つことはよくあることだからです。昨今の同時多発テロ事件がその一例です。どんな理由があるにせよ、何の関わりもない罪無き一般庶民を巻き添えにして無差別に殺人を繰り返すことなど絶対に許されない大罪です。ところが一部の宗教、民族の人々にとっては生活の困窮、歴史の汚点、将来に対する悲観、仲間に対する同情心などから、自爆テロを始めとする無差別テロを支持することが当たり前となり、民主主義的発想を前提とした多数決ではそれで良しという事になってしまいます。すなわち全員でテロが良い、と言えば、可決されてしまうのが民主主義の恐ろしさです。だからこそ民主主義を正しく実践するためにも人間の尊厳と誇り、命の尊さを訴える高いモラル水準が必要なのです。

世界に通じる日本のモラル

日本の宗教文化に最も多大な影響を与えたのは儒教、仏教及び神道であり、これらの宗教は日本人の心の故郷でもあります。また日本の教育機関の多くは、特に明治時代以降キリスト教の影響を多大に受けています。日本は宗教の博物館と言われるほど多くの宗教がありますが、その中でもこれらのメジャーな教えの中から私達が必要とするモラルの基準を見出すことができます。例えば、儒教における目上の方(お年寄)を敬う教えや、仏教でお釈迦様が説いた八正道、聖書の「殺してはならない」「盗んではならない」「隣人を自分と同じように愛せよ」という教えなど、私達のモラル基準となり得る教訓が幾つもあります。これらの素晴らしい教理をふんだんに取り入れることにより、国際的な高いモラル創りが可能になります。

宗教、と聞いただけで一種の先入観により毛嫌いする方も多いと思います。しかし、日本でも宗教をもっとオープンに語って良い時が来たのではないでしょうか。そうした意味で、成田山新勝寺の働きには大きな期待を寄せたいと思います。弘法大師の描いた日本の理想郷を実現するためにも、心のふるさととも言える原点への復帰、そしてモラルの改革は急務です。

モラルの原則と実践案

成田が真の国際都市として繁栄するために不可欠と言える高い水準のモラルの根底には少なくとも以下の原則があります。

  1. 人間としての尊厳を保つ
  2. 自然界の法則に準じる
  3. 他を我のように重んじる
  4. 弱者、子供の権利を守る
  5. 貪欲、情欲から身を守る

一見簡単に見えますが、これらは世界のどこへ行っても通じるガイドラインです。これを基準に日本社会、成田のモラルを考えますと、必然的に何をしなければならないかわかってきます。ここでは特に問題の多いアダルト系メディアに以下の具体的な提案を掲げてみました。

  • 一般店舗(コンビニ、本屋、デパート、各種ショップ)におけるアダルト・コンテンツを含むメディア(ビデオ、雑誌、CD等)の展示、販売、及びレンタルを禁止する。
  • アダルト・コンテンツを含むメディア(ビデオ、雑誌、CD等)の展示、販売及びレンタルは成人のみが入場できる施設に限定し、許認可制度を設ける。
  • アダルト・コンテンツも規制の対象とし、暴力的なもの、虐待性のあるもの、不衛生なもの、及びチャイルド・ポルノの取り扱いを厳禁する。
  • 看板条例を市において制定し、市内におけるネオンサイン、看板などの新規設置は全て認可制とし、デザイン、色彩、照度、及び内容を規制して町並みを美しくする。
  • 立て看板やチラシの設置及び配布を一切禁止し、設置業者、依頼者共に処罰の対象とする。

これらを実践するだけで少しずつ社会の体質が変ってきます。メディアをしっかりとコントロールすることが国際都市として生まれ変わる条件とも言えます。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部