日本シティジャーナルロゴ

竹島問題の争点を見極める!
今こそ日本国民が領土問題に取り組まなければ国家の将来は危うい!!

竹島地図

人間の歴史は領土争いの繰り返しと言っても過言ではないでしょう。現代社会においてでさえ、隣地との境界を巡って地主同士の争いは耐えることがなく、不動産絡みの紛争や裁判事例は無数に存在します。同国人ですらそうなのですから、ましてや文化や言語の異なる異国間で争わない訳がありません。本来土地は自然界のもので、地境も元々は存在しないのですが、その自然界からの賜物に対して安住の地を求め、自己の権利を主張するようになった結果、領土権なるものが生まれ、それが国境線のベースとなりました。この国境には常に紛争が纏わりつき、時には問題が長期化します。中でも解決の糸口が見えないのが、昨今話題になっている「竹島」問題です。

竹島問題に関心の薄い日本人

新聞やテレビで竹島問題が取り沙汰される時、その反応はおよそ3つに分かれます。まず、無関心層です。議論には一切関わろうとせず、自分に関係のない無人島など放っておけばいいし、韓国が欲しがるなら「あげちゃえば」というのが、この無関心層を支配する意見です。しかし自国の主体性を揺るがしかねない領土問題について、果たしてどこまで無関心でいられるか疑問です。

次に、日本の戦争責任を問うあまり、周辺諸国に対しては争いを避け譲歩することを優先する考え方があります。すなわち戦時中、日本が韓国民に与えた多大なる損害と癒し難い傷の代償として、相手国が竹島を切望するならば要求に応じるという譲歩案です。しかし既に終結している戦争に対していつまでも負い目を感じる必要はあるのでしょうか?

また当然のことながら過去の歴史や両国の主張を検証しながら、解決策を見出そうと努力する人もいます。ところが歴史というものは一つの史実についても、捉える側の立場や背景が違うだけで、全く違う解釈が対立してしまうことが多々あります。竹島問題も日本と韓国双方の歴史観とその解釈において大きな隔たりがあり、妥協点を見出すことは難しいのが現実です。

竹島の海底は明らかに日本寄り

竹島は隠岐島の北西およそ157kmに位置し、150m程離れた2つの島と複数の岩礁から構成される大変小さな島です。この孤島は火山島の頂上が海面上から突出している形態であるため、傾斜が急で総面積も0.2平方km程しかなく、人間が居住することは不可能です。その代り、竹島周辺はアワビやサザエ、イカなどの魚介類や海藻が豊富に取れる漁場であり、特にアシカが多く生息していることで有名です。

竹島は朝鮮半島と日本の本州の海岸線からほぼ同等の距離に位置しており、韓国の鬱陵島からは約90km離れています。大陸棚と隣接していないため、日本海のど真ん中に浮かぶ孤島に考えられがちですが、海底の地形を検証すると明らかに隠岐島の延長に位置する日本列島側の島であることがわかります。例えば火山爆発により日本海の海底全体が隆起すると仮定すると、竹島はちょうど本州に隣接する島として浮かびあがってくるのです。もし竹島が外国領だとするならば、今日のシンガポールのように半島の先だけが別の国、という珍事になりかねません。

竹島の歴史的背景とは

17世紀初頭、鬱陵島に渡航する途中で竹島が発見されたと日本では言われています。竹島の北西にある鬱陵島は古代より朝鮮の支配下にあったのですが、日本での発見当時、税金逃れを封じるためにとられた「空島政策」によって島が無人化していました。そして、鬱陵島へ行く途中に発見された竹島は、絶好の寄港地となり、その豊富な水産資源で徐々に知名度を上げていき、江戸幕府は竹島への渡航許可さえ出すようになったのです。その後、鬱陵島についてはその領有権をめぐって最終的に江戸幕府と朝鮮が争うことになり、結局幕府は朝鮮国の領有権を認めることになりますが、その当時、竹島が争点に上がらなかったことは注目に値します。

明治時代では竹島周辺でアシカ漁が盛んになり、日本各地から結集してきた猟師によって乱獲が行われた為、島周辺の漁猟権について有力者同士の争いが起きていました。そして1905年、明治政府によって朝鮮が日本に併合され、同年2月22日竹島は島根県に編入されることになったのですが、編入の理由は明確です。それは竹島界隈の漁場における水産資源の利権を独占するために「竹島漁猟合資会社」を島根県にて早急に設立する必要があったからです。すなわち島根県への編入とは朝鮮国からの編入ではなく、日本国内において未だ不透明であった竹島の管轄を島根県と定めたことにあります。

太平洋戦争終結後、GHQは竹島を鬱領島、済州島と共に日本の行政権から離しましたが、竹島については小笠原諸島や沖縄と同様に日本の領土であるという意見が多く、1951年サンフランシスコ講和条約にて、竹島は日本の領土であると言われています。ところが翌年、韓国の李承晩大統領は「李承晩ライン」を宣言し、公海上に独自の国境線を引いて竹島を自国領土と位置づけました。そのため両国は互いに竹島にて領土標識を立てたり壊しあったりする珍事が発生し、最終的に韓国軍が竹島を占領したのです。それ以来、韓国軍の駐屯が今日まで続いています。

竹島を日本の領土とする所以

江戸時代に日本の漁民が竹島にわたり、漁猟を繰り返していただけでなく、江戸幕府が1656年に実際、竹島への渡航許可を出していることから、当時竹島は日本の実行支配下にあったと考えられます。また隠州視聴合記(1667年)には2島の無人島、竹島をもって日本の北西の地としての国境とすると書かれており、1693年より3年間、鬱陵島の領土問題で朝鮮と争ったときも、竹島はすでに日本領として日朝両国に認知されているふしがあります。竹島が日本国の支配下にあったことを裏付ける貴重な資料として1724年に製作された「竹島松島之図」があります。そこには明らかに竹島2島が描かれ、周辺の岩礁まで書かれています。また1779年の「改正日本興地路程全図」も竹島が記載され、同等の地図が20世紀に入るまで朝鮮には存在しないこと自体、実行支配を持っていた日本とそうでなかった韓国との違いを証明するものであると考えられます。そして戦後のアメリカとの平和条約においても、日本が竹島を古くから自国の領土としていたことを認めていたことが伺えます。それ故、当時の駐日大使は、竹島の再考を勧告していました。

韓国の気持ちも良くわかる・・・

朝鮮国も512年以降、鬱陵島が新羅に編入して以来、いつしか竹島を自国の領土として考えていたようです。しかし、歴史的背景や海外諸国の文献、地図を検証する限り、決定的な証拠はないようです。ところが、1905年朝鮮が日本に併合されるという屈辱的事件が起き、同時に竹島が島根県に編入されたことが公になったため、民族感情がゆすぶられたのでしょう。それまで話題にもならなかった竹島をまたたく間に日本の植民地支配による最初の犠牲地として捉えたばかりでなく、終戦後に日本領土より切り離された竹島を自国領土とし、韓国独立の象徴として位置づけ、軍隊まで派遣して占拠したのです。すなわち竹島は韓国にとって、日本の植民地からの解放と自由を象徴する、民族結集のためのメッカと化したのです。

竹島問題は日本が担うべき責任

歴史のデータを検証する限り、竹島の領土に対する権利主張は日本の方が韓国よりも古く、より明文化されています。特に江戸時代における鬱領島の領土争いにおいては両国が竹島を日本領として理解していたことが伺えます。それ故日本としては自国の領土である竹島をあえて編入する必要などありませんでした。

問題の根源は漁業の利権争いです。日本国内で激化する漁業権獲得争いの最中、1905年に北朝鮮半島が事実上日本の植民地となったことを機に、事業を拡大しようとした企業家が政治家と組んで、それまで宙に浮いていた竹島を島根県に編入し、自ら設立した竹島漁猟合資会社によって独占的に漁業権を支配しようとしたのです。ところが朝鮮併合という屈辱を強いられた韓国側にとっては、そんな日本の事情など知る由もなく、竹島があたかも日本国によって略奪されたようなイメージに映ってしまったのです。

竹島は日本領土であるべきにも関わらず、現在は韓国の実行支配下にあります。本来ならば領土紛争に関して国際司法裁判所へ両国が付託提案し、白黒をはっきりつけるべきなのですが、韓国側がこれを拒否しています。恐らく国際司法裁判が行われれば、日本が勝訴するからなのでしょう。

しかし「竹島は韓国領土である」という間違った意識を韓国に植え付けた責任はまぎれもなく日本にあるのです。日本の植民地政策と企業家の野望によって傷つけられた韓国民の心の傷を癒すことは難しく、既にオーバーヒートしている民衆は聞く耳を持ちません。もし日本がどうしても竹島を取り返すならば、国際裁判か、戦争をするより他ないでしょう。しかし、今の日本にそこまでして無人島を奪い返す、と意気込む人が果たしているでしょうか。これが領土問題の難しさです。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部