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靖国神社は平和のシンボルと成りうるか?
世界平和を愛する日本国民が描くイメージから程遠い靖国の実態とは?

日の丸の旗を振りかざす人靖国神社に立つ特攻勇士の像遊就館に展示されたゼロ戦

小学校生活の6年間を自民党本部の真向かいにあった旧永田町小学校で過ごした筆者にとって、そこからおよそ2km程しか離れていない靖国神社は身近な存在でした。それから40年程たった今日、マラソンの練習で皇居の周りを時折走るようになり、靖国神社を目にする機会が再び訪れたのです。先日、思い切ってランニングウェアーのまま不謹慎と思われるのを覚悟で靖国神社の鳥居をくぐり、久々に神社を訪ねてみました。目にした靖国神社の姿は、今まで抱いていたイメージとは全く異なっており、その再発見を機に、自らの見解を大きく起動修正することに至りました。

日本を真二つに分ける靖国問題

靖国問題は複雑であり、日本国民の意見も賛否両論、真二つに分かれてしまうようです。例えば次期首相は靖国神社を参拝しても良いか、という問いに対して日本経済新聞社が8月に電話アンケートを全国1500世帯からとったところ、賛成43%、反対39%と、意見がほぼ均等に分かれました。靖国問題の議論の焦点は、個人の思想・宗教の自由、戦没者の追悼方法、中国・韓国との外交関連を始めとし、靖国が憲法の政教分離原則に反するか、そして戦争責任とその戦後処理をどう理解するか等、多岐に渡ります。特に戦争責任については国家の正式な見解として未だに十分な議論がされていないことが取り沙汰されており、それ故、靖国問題も解決の糸口を見出せないまま今日に至っています。

政治家にも信教の自由がある

日本は民主主義国家であり、人が人間らしく生きるための「人権」というものが先進諸国と同様に大切に扱われています。その一貫として当然のことながら信教の自由も日本国憲法第20条によって保障され、宗教心を持つ、持たないという選択だけでなく、誰でも自由に宗教を信仰することができることを約束されています。この基本的人権を保護するために、日本を始めとする西欧諸国では政教分離のルールが広く認められています。それは例えば国家からの特定の宗教へのx弾圧または推奨を禁じることを意味します。

しかし現実的に政治を司るのは人間であり、宗教の自由が保障されている限り、少なからず政治家の言動に宗教が何らかの影響を与えても不思議ではありません。ましてや主権国家にはその国特有の先祖代々から引き継がれた「カルチャー」ともいえる風習があり、日本には神社仏閣を中心とした「参拝」に代表される民族的宗教心があります。それ故、小泉首相が靖国を私的に参拝することに関しては、何ら問題がないはずであり、例えば米国における政治と宗教の関わりあいから比較しても、とるに足らないレベルの話です。

政教分離の曖昧な米国の事例

米国こそ民主主義国家の代表であり、信教の自由についても日本と同様に保障されています。ところが米国紙幣を見てみると、その裏面には例外なく「IN GOD WE TRUST」と記載されているではありませんか。この著名な標語は「我ら、神を信ず!」という信仰告白であり、1956年に米国で正式な標語として制定されたものです。それがどの宗教の何の神を指すかは明記されていませんが、少なくとも神を信じるという宗教心に関して明らかに肯定した国家アクションのひとつです。その上、1ドル紙幣の裏側にはピラミッドに三角の目がついたフリーメーソンのマークが堂々と表記されています。

フリーメーソンと言えばユダヤ教の流れをもった宗教色の強い秘密結社であり、米国ではメーソンの集会場であるマソニック・テンプルが全国主要都市に存在します。その彼らのシンボルが米国紙幣に大きく印刷されること自体、米国の政界が何らかの形でメーソンの影響を大きく受けていたことの証と考えられます。

また米国大統領が就任する際は、必ず宣誓式が行われ、35の言葉からなる文章を読み上げて誓いをたてます。その際、聖書の上に手を置いて宣言することは有名です。またジョージ・ワシントン大統領がこの宣誓の言葉の最後に「So help me God!」と付け加えた時から今日まで、大統領の就任式では同じ言葉が宣誓の締めくくりとして使われてきました。すなわち、米国大統領の就任式こそ、宗教色が大変濃い儀式であり、それが当たり前のこととして認知されています。

米国の歴史的背景、カルチャーの中で育まれたこれら一連の宗教的言動は、政治を司るものとして当然のこととして、国民より好意的に受け止められているのです。つまるところ、宗教の自由が約束されている米国でさえ、歴史の重みとこれまでの培われてきた宗教的風習が大切にされているということです。このような幅広い解釈から日本も学ぶべきでしょう。

靖国神社が抱える3つの課題とは?

靖国問題は大きく3つに分けられます。まず首相や政界に関わる人が参拝することは許されるべきか。次に靖国神社のような特定の宗教施設において全ての戦没者を慰霊することが正しいことか?この問題には無論、A級戦犯の合祀も含まれてきます。そして最後に靖国神社そのものの在り方に問題がないかということです。

首相自ら神社を参拝することは、前述したとおり信教の自由という権利が保障されている訳ですから、私人として行われる限り、何ら問題のない行動であると言えます。日本国の首相であろうが、米国大統領であろうが、どの教会に礼拝に行っても、どのお寺にお参りに行っても、その自由は保障されており、個人の信心、信念が尊重されるべきです。

特定の施設において戦没者をまとめて慰霊することに関しては、本人や遺族の意思を大切にすることは大事ですが、現実的にはそれを確認して公平に処理することは不可能でしょう。日本においては先祖の霊を弔うことを大切にするカルチャーがあり、その形体は宗教に応じて様々です。葬式ひとつをとっても仏式で行うか、教会式で行うかでは大きな隔たりがあります。それ故、靖国神社において戦没者全員をまとめてそこで慰霊してしまうと、その霊を弔うためには靖国神社を参拝することになり、その結果、靖国神社の信仰をある意味で強要されることになってしまうと考えられがちです。

しかし実際には靖国神社自体が公表している通り、霊を弔う場所というものは一箇所に限定される訳ではなく、日本の文化においては各自の家やお墓など、複数箇所で弔うことも可能であるため、それ自体は問題ではありません。本当の問題は合祀で議論されているように、単なるお墓参りのコンセプトから一歩抜きん出て、戦没者を祀り、それを英雄化、神格化、そして美化することにあるようです。

靖国神社の実態は軍事博物館?

信心深くあることは日本人の美徳であり、それは殆どの日本人が幼いころから神社仏閣に詣で、手を合わせてお参りをすることにも現れています。それ故、靖国神社であろうとも、平和のシンボルとして国民の心の中に根付いていれば、小泉首相が参拝しようが、誰が行こうが、何ら問題はないはずです。また戦没者の苦労と愛国心があってこそ、それが礎となって今日の日本国家があります。それ故、靖国神社にある特攻勇士の像に書かれているように「その至純崇高な殉国の精神は、国民ひとしく敬仰追悼し、永久に語り継ぐべきものである。」という言葉に感動を覚える人は少なくないはずです。

ところが靖国神社の実態は、広島の平和公園のような静かで穏やかな雰囲気ではなく、むしろ、戦争で亡くなった戦没者の偉業を称え、英雄化する軍事博覧会のようです。靖国神社の境内では旭日旗と日の丸を振りかざして歩く常連のおじさんがいらっしゃり、どう見ても時代錯誤を感じないではいられません。神社側としては、おそらく許容範囲内の愛国心の表れとして受け止め、放置しているのでしょう。また靖国神社周辺は右翼の街宣車が走り回ることが多く、ただならぬ雰囲気が漂っていることは周知の事実です。

更に驚愕したことには、靖国神社内は遊就館という戦争博物館があることです。神社は神が宿る平和のシンボルですから、もしそこに戦争博物館があるとするならば、それは戦争の悲惨さを世に訴え、尊い命を大切にすることを明言することに徹するべきです。ところがこの戦争博物館にはゼロ戦や本物の大砲、そして軍人の書いた手紙や遺書が展示され、その記述からして戦没者を英雄化していることが伺えます。こうして靖国神社が、本来の慰霊という宗教心の基本から乖離し、神社の境内にまで軍事博物館を設立した訳ですから、それらが軍国主義の復活に繋がる温床となりかねないという批判に結びついても致し方ないことのように思えます。戦没者の霊を弔うには、そのつらかった過去、戦争の悲劇を忘れさせてあげることが第一です。そして戦争に関する展示物は、神社とは全く関係のない博物館に任せるべきでしょう。

日本人の心は世界平和にあり!

今こそ、靖国のあるべき姿をもう一度問いただし、そこが世界平和を真剣に祈願する本来あるべき姿になることを願ってやみません。そうすることにより、天皇家も再び、参拝に訪れて下さるはずです。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部