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生と死 Part.I
苦難を乗り越えて生きる!

病気と貧困の現場で「生きる」ために闘っている人々から学ぶ

人は、ある日尊い命を授かり、物心がついた時から日々を楽しむことを知り、時には苦しみ、悲しみながらも、肉体は老いていき、いつしか息が絶える日を迎えます。死は生きている者の定めです。多くの人は病気や事故で命を落とし、時には自ら命を絶ってしまう人もいます。老衰による安らかな死など、もはや夢の時代かもしれません。せっかく与えられた一度しかない人生なのですから、この命を大切にして有意義な日々を過ごしたいものです。

ところがこの尊い「命」をないがしろにした殺人や暴行事件、いじめ等の問題が後を絶ちません。また自殺者の増加にも目を疑うばかりです。命が軽んじられる時代の到来とでも言うべきでしょうか。本来ならば、生きているだけでも感謝であり、ましてや今日の平和な日本社会にて生まれ育った人なら、世界中の人から羨ましがられる位、その生活環境は恵まれているのです。今の社会、何かが狂っています。今一度、生命の尊厳、生きることの大切さを考え直そうではありませんか。そこでまず、生きるために一生懸命闘っている人たちに目を向けてみました…。

悲劇に遭遇し生きる為に闘う6歳の少年

11月にアメリカで行われる感謝祭は、日本の新年と同じ位、1年の内で最も重要な祭日です。親族が集まり、七面鳥ディナーを一緒に食べながら、楽しいひと時を過ごす大切な連休なのです。感謝祭の発端は、ヨーロッパから迫害を逃れて米国へ移住してきた移民が、この新天地で食物に与る恵みを神様に感謝したことにあります。その七面鳥の恵みから10余年遠ざかっていた筆者も、2006年の感謝祭は久々に、親友のマイケルとロスアンジェルスで過ごすことにしました。11月25日、マイケルと一緒に彼の家に向かい、やっとサンクス・ギヴィングディナーにありつけると期待を膨らませて、駐車場に車を止めたその時、マイケルの携帯電話が鳴り響いたのです。

電話を取るやいなや「Oh, no!」、「Oh,God!」と声を詰まらせたマイケルの悲痛な叫びに、ただならぬ事件が起きたことを知りました。実際、信じられないことが起きたのです。彼には6歳になるイーサンという息子がおり、別居中の母親が彼の面倒を見ています。父親でありながら、一週間に一度しか会うことが許されない米国の厳しい裁判所による調停のルールに従って、長年マイケルは自分の子供と週末だけは一緒に過ごしながら、父親としての役割を果たしてきました。

そのイーサンはこの感謝祭の休日を機に、母親と一緒に親族を訪ねてテネシー州へ出かけました。そこで思わぬ悲劇が起きたのです。その日、道路沿いの隣家では76歳になるおじいちゃんが焚き火をしていました。そしてちょっと火が小さくなったので、もっと大きな火を熾そうと、いつも通りガソリンをぶっかけたその時…たまたま子犬を追いかけながら元気良く走ってきて、焚火の後ろ側を通り抜けようとしたイーサンの体中に、大量のガソリンがかかってしまったのです。一瞬にして炎が大きく燃え上がり、イーサンも犬も火達磨となってしまいました。しかも、その場で倒れて転がれば、おじいちゃんでも火を消し止めることができたのに、最悪にもイーサンは熱さの余り、悲鳴をあげながら火達磨のまま駆け出してしまったのです。その為、隣家から出てきた人がイーサンに追いつくまでに時間がかかりすぎ、その間に首から胸、腹、背中、足の付け根まで焼け爛れてしまったのです。

イーサンはすぐに救急車で病院へ運ばれましたが、意識不明の重体。骨にまで達する重度の火傷を全身に負い、近場の病院からヘリコプターで総合病院に運ばれ、皮膚の移植をする手術が行われました。この原稿書いている時点で、2度目の手術が準備されており、イーサンはレスピレーターをつけながら、生死をさまよっているのです。病院での皮膚移植治療が効を奏し、細菌に侵されることなく、新しい皮膚を体が受け入れてくれることを祈るしかありません。大きな火傷には大変な痛みと苦しみを伴うだけでなく、その後遺症に一生、悩まされることになります。でもイーサンは必死に生きようとしていることは間違いありません。イーサン、生きるんだ!頑張れ!!

生きる為に闘うバングラデッシュ

事故や病気もさることながら、貧困の現場でも必死に生きようとしている人々が世界中に存在します。1990年、老朽化したバングラデシュのダッカ国際空港に到着したとたん、空港が停電に見舞われました。世界の最貧国ですから当然、電力の供給も追いついてないのは理解できますが、まさか空港までが停電とは…。月の光をたよりに建物から一歩出ると、突然、数えきれない程大勢の子供達の物乞いで差し伸べる手に囲まれてしまいました。それまでフィリピンやインドネシアの貧しい地域に何度も出向いたことはありますが、この空港で物乞いする子供の数は半端ではありませんでした。どうすることもできず、付き添いの人に手を引っ張られ、見て見ぬふりをするのが精一杯…。

翌朝、街中を人力車に乗せられて見分すると、どこもかしこも歩く人と人力3輪車とで溢れ返っており、想像以上の大混雑。また道端には豚の死骸がころがり、無数のハエが周囲を飛び交うだけでなく、その悪臭もひどいものでした。そして町外れの線路沿いでは難民キャンプの様なテントが無数に張られ、大勢の人々が極度の貧困に直面していたのです。子供を抱いて座っている痩せこけた母親、裸のまま泣きながら歩いている赤ん坊、ただボーっと座っている老人、そのあまりの人の多さに、自分の無力を痛感したひと時でした。

そんな貧困を極めたバングラデシュの街でも、人々の魂は輝いているように思えました。誰も死にたくない、と思うからでしょうか、どんなに貧しくても皆、生きるために必死に闘っていたのです。「生きることに一生懸命なのだ!」。バングラデシュ人の姿を見つめながら、彼らから、生きることの大切さを教えてもらったような気がします。

生きるために必死に学ぶマニラの庶民

発展途上国を訪ねる度に、奉仕する側の方が学ぶことが多い、ということを肌で感じます。フィリピンのマニラ市近郊にレベリザという地域があります。マニラでも最も貧しいこの地域では、80年代からカトリックのシスター達が集まり、街造りと教育に取り組んでいました。リーダーはシスター・タン。父親はフィリピン政府の大臣を勤める政界の大物ですが、自らはひたすら信仰を貫き、庶民と一緒に住むことを誇りとし、大衆を教えるカリスマ的存在となっていました。

貧困による失望感、犯罪の是正化、そして物乞いを当たり前とするような歪んだメンタリティーの壁を乗り越えて、民衆の心にプライドと生きる喜びを与える為、シスター達の方針は徹底していました。まず、お金は手を出して他人から貰うもの、という乞食の考えを捨てさせ、お金は自分で働いて得るもの、ということを教えました。その為、物を作る技術を習得させ、例えば町中に石鹸や装飾品を作る工場を作り、そこで働くことを教えたのです。こうして自尊心が養われて、自分達の力で新しいことを始めることができる、という意識を植えていったのです。その上で、生活環境を改善する為に、町のいたる所にトイレを作るプロジェクトが始まりました。生活インフラが整わない限り、いつになっても病気に伏す人が後を絶たなかったからです。こうしていつしか街中が活気を取り戻し、人々に笑顔が見られるようになりました。

物乞いをして、働かずにお金を貰う旨みを覚えてしまえば、子供も大人も一生物乞いで終始してしまいます。お金をあげる方も、知らず知らずの内に、彼らが乞食をし続けることに加担することになるのです。しかし、お金をあげて彼らを乞食として扱うよりも、仕事をすることを教え、働いて収入を得ることの喜びを教える方がよっぽど大切なことだ、ということをフィリピンの友は教えてくれました。

ある時、シスター達と一緒にセブ島まで出向き、道路に子供達を大勢集めて、日本から一緒にきたヘルパーと一緒に焼きそば数百名分を作らせてもらいました。お肉がふんだんに入っているヌードルを皆に食べてもらいたい、という単純な筆者の願望を、シスター達が受け入れて下さったのです。皆と一緒に思う存分汗を流しながら、路上で食事を作らせて頂いた時の充実感は言葉では言い尽くせません。そして住民の暖かいサポートと協力の中、笑顔で活き活きとはしゃいで遊んでいる子供達を見つめながら、ふと、日本の子供達と彼らと比べて、一体どちらが幸せなのだろうか、と考えさせられてしまったことも事実です。

人は飲み食いを楽しむ為に一生懸命生きる!

一体人間は何を喜びとし、何を楽しみ、何の為に生きているのでしょうか?人の一生は、病気や苦しみ、悩み等、色々な問題で一杯です。大事故もあれば、貧困もあり、痛みもあれば、空腹もあります。

ある時、ふと聖書を開いてみると、こんな言葉が目に留まりました。「人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。」単純であるだけに、目から鱗でした。つまるところ、人が本当に志すこととは、日々、健康であることを願い、汗を流して働き、食事を「美味い!」と心から感謝の言葉を口にすることだったのです。そして命が与えられている限り、どんな苦境に立たされようとも、ひたすら生きるために闘い、あらゆる困難に打ち勝って前進していく気持ちを持ち続けることが大切ではないでしょうか。必死に生きる発展途上国の人々の姿を思い浮かべながら、生きるために闘っているイーサンの為に祈りながら、生きていることの素晴らしさを実感しています。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部