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生と死 Part.II 自殺に待ったをかける!
病気と貧困の現場で「生きる」ために闘っている人々から学ぶ

命の火のある限り闘うイーサン

イーサンは未だに重体のまま、生死の境をさまよっています。火傷による皮膚の損傷は、顔の顎より下、胴回りはほぼ全体、手足も含めて皮膚の7割近くまで広がっていることがわかりました。ここまで重度の火傷になると治療も困難を極め、今後の様態が危ぶまれています。当初より想像していた病状ではありますが、何故に幼い子供がこれ程までの苦しみを受けなければならないのか、日々涙している両親の姿を思い浮かべるだけでも胸がつまります。

入院費用も概算で1日1万ドル、およそ120万円と試算され、両親の知人が各地でチャリティーコンサートを開いて募金を集めています。幸いにも保険が適応され、費用の8割近くがカバーされるということですが、それでも治療費は数千万円になると言われており、大変な負担です。またガソリンを誤ってかけてしまった方に対する訴訟も検討されており、事故の後処理は今もって難航しています。

皮膚の移植手術は既に数十回も繰り返されており、今後も継続して手術の予定が組まれています。火傷の治療は、とにかく皮下組織が再生するまでの間、その上に新しい皮膚を置いて細胞が治癒するのを待たなければなりません。しかし今回のケースでは、特に胴回りにおいて大量の皮膚を必要とし、自らの健康な皮膚からの移植ではまかないきれない為、解剖用の死体から切り取ったキャダバースキンを移植する方法が採用されました。その後、Integra皮膚という火傷治療においては最先端の技術とも言われている人工皮膚を使って、手術が繰り返されました。これらの皮膚移植手術が成功する為には、体がその人工皮膚を受け付けることが必須となります。

ところが恐れていたとおり、イーサンの体が人工皮膚を拒絶してしまい、Integra皮膚の移植手術は失敗に終わってしまったのです。この原稿を執筆している時点では、次の手術においてイーサン自らの頭皮を使うことが予定されているとのことでした。そうまでして生きるために必死に戦っているイーサンに、奇跡の手が差し伸べられることを祈ってやみません。

死を急ぐことは人間が持つ特権か?

生あるものは、本能的に皆、生きようとします。まだ幼いイーサンが闘っているように、どんな動物も生命を維持するために一生懸命です。聖書には悪霊に取り付かれた豚の群れが崖から飛び降りた話が書かれていますが、それ以外には動物が自害するという事例はまず聞くことがありません。ところが万物の霊長とも言われている人間は、精神的苦痛に耐えかねられなくなったり、生きる目標を見失ったりすると、つい死ぬことを考えてしまうようです。

東京オリンピックのマラソン競技で、見事に有終の美を飾り、日本人として初めて銅メダルの栄光に輝いた円谷選手は、当時、国民的英雄でした。ところがある日、走る事だけに命を懸けて、日々猛烈な練習に取り組んでいた円谷選手は交通事故に遭遇し、2度と走れない体になってしまったのです。一瞬にして人生の目的を見失った彼は、自らの命を絶つことによって、虚無感に苦しめられた日々に終止符を打ったのでした。また1978年には俳優の田宮二郎が衝撃の猟銃自殺を図りました。55年にミスターニッポンで優勝し、「白い巨塔」で一躍大スターとなった彼は、その後、テレビでも活躍して不動の人気を得ました。ところが自らの事業で失敗を重ねた上、躁鬱病も悪化してか、その精神的苦痛に自滅してしまったのです。

どうやら、人間は自分の人生が思い通りにならなくなり、精神的苦痛に耐えられなくなると、自殺という狂気の沙汰が選択肢として浮かびあがってくるようです。その傾向が顕著になり、死を急ぐことに歯止めがかからなくなっているのが現状ではないでしょうか。

自殺は人生の選択肢となりうるか?

今や、日本は自殺大国という汚名をすすぐことができない程、自殺の波が社会を覆っています。しかし自殺が当たり前のように人生の選択肢の一つとなりつつあることに、疑問を感じないではいられません。確かに「Last Samurai」や「硫黄島からの手紙」等の映画では、主人公が最後に自決する姿が感動的なシーンとして描写されています。しかし現代人の自殺と決定的に違う点は、これらの登場人物のキャラクターは皆一様に頑強な精神の持ち主であり、敵を前にして決してあきらめず、必死に戦いぬき、力尽き果てた最後に、自ら潔くとどめを刺したということです。今日の自殺者に多く見られるような、いじめや仕事上の問題、事業の失敗などを発端とする精神的苦痛を要因とした衝動的な自殺とは、明らかに一線を画しています。

忍耐と信義を貫き、常に毅然とした態度で生きて行くことの大切さが見失われ、武士道や大和魂が古風な考えとして一蹴される風潮にある現代社会では、自殺は現実から逃避する為の格好の逃げ道となってしまったようです。人生において直面する問題に、真っ向から果敢にチャレンジするようなたくましい精神は、もはや過去のことでしかない為、自殺という選択肢を温存し、命を絶てば楽になると考えるのでしょうが、それは単なる妄想にしかすぎません。

いじめによる自殺の原因は学校?

いじめを原因とする安易な自殺も急増しており、その連鎖反応でしょうか、今度は教育機関にて学校長等のポジションに就く大人までが、責任をとって自殺するという事件が相次いでいます。自殺に至るまでの個々の苦悩は察するに余りありますが、一様にして現実のプレッシャーからくる精神的な苦痛が欝状態をもたらし、それが引き金となって自殺に結びついているようです。

昨今の社会的風潮としては、青少年の自殺の原因とされているいじめや、学校側の対応の不備のみが問題視されていますが、実は先生方に対して責任追及の矛先を向けること自体が、皮肉にも大人に対する新たなる「いじめ」となり、更なる自殺を招くという2次災害に繋がっています。こんな悪循環は断ち切らなければなりません。そのためには、周囲に責任転嫁をするのではなく、まず自殺する側の心の中にスポットを当てて、そこに潜む問題を理解しなければなりません。

自殺を量産する現実に立ち向かう

自殺を人生の選択肢から一掃するための基本は、幼少時から健全で、強くたくましい精神を育くんでいくことに尽きます。ところが現代人の心は傷つきやすく、その精神構造は軟弱で、大人も子供もちょっとしたことで深く落ち込んでしまう人が急増しています。幼少時に誰からも命を尊ぶことをしっかりとは教わらず、宗教観が希薄になったせいか禅を組むような精神修行も行ったことがなく、忍耐を学ぶチャンスも皆無に等しく、昔の時代のように苦労することさえ無いところに、たくましい精神が育まれるはずもありません。その上、インターネット上には自殺の誘惑が多く、情報が氾濫しているため自殺願望に拍車がかかるなど、社会の体質そのものが自殺者を生み出しやすい温床となっているのです。

しかし、事業の失敗による多額の借金や、病気、いじめなど、どんなつらいことがあったとしても、希望を捨てずに生きていけば道は残されています。見方を変えれば、これらの問題は自らの魂が訓練され、成長するチャンスなのです。例え自分の願望がかなわなくとも、つらい思いを味わったとしても、それは「生きる喜び」という人生の原点を振り返る良い機会なのです。生まれた時は何も携えてこなかったのだから、裸一貫で当たり前と思えば、不安や恐怖感から解放されて、新たなるライフステージを歩み出すきっかけを見つけることができるのではないでしょうか。

一見古風な家族の絆に活路を見出す

つまるところ、自殺願望に終止符を打ち、生きることの素晴らしさを実感するには、まず古き良き日本社会の在り方に立ち返ることです。その原点はあくまで家族の絆にあります。お互いが信頼し合い、愛し合う家族がいてこそ、いざという時でも本音で話ができ、その様な家庭環境を築きあげるためにも、父親が一家の主として家を仕切るという、昔はごく当たり前だった家庭環境を復活させることが大事です。父親は仕事と付き合いにかまけて家を放置、母親のみが子育てをし、忙しいときは子供をコンピューターゲームで遊ばせる、というような家庭環境では、子供がまともな精神構造を持てる訳がありません。そして互いに礼儀作法を重んじ、日頃から神社仏閣を信心深く参拝し、また男性ならば武道、女性ならば花道や茶道などの伝統をたしなみ、心の修行を積むことも大事でしょう。

相談相手さえいれば、大半の自殺は防げます。ところが、自殺する人に限って相談相手が家族の間にさえもいないのです。特に青少年の自殺から察するに親子の溝は深まってきており、小学生ですら自らが抱える問題を親に相談できる子供は少なくなってきています。こういった問題を解決するためにも、各教育機関や職場において、カウンセラーを定期的に呼ぶことを義務付け、いつでも誰でも気軽に相談しに行けるような体制を整えることが急務です。今までの保健室のように体のケアだけではなく、これからの時代は体と心双方のケアが必須であり、エキスパートの出番です。一人の信頼できるカウンセラーを見つけることが、魂を死から救うことに繋がるのです。

自殺問題の処方箋は限られています。人間は誰でも一人では生きてはいけず、心の触れ合いを求め、心の癒しを欲しています。行き着くところ、自分が弱っている時、困っている時、そして死にたいと思う時、心を打ち明ける人がそばにいることが、最も大切なことのように思えてなりません。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部