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生と死 Part.III 『いじめ問題』にチャレンジ!
浦島太郎の物語から子供達の命を守る秘訣を探る!!

いじめは今も昔も変わらない?

『浦島太郎』という古典的な童話の原点は「いじめ」です。子供達が海辺で無力な亀を棒で叩いていじめている姿を見かねた浦島太郎が、体を張って亀に助けの手を差し伸べ、そのお礼として龍宮城に招かれるストーリーは余りに有名です。人間による弱い者いじめは、どうも大昔から存在しているようです。

いじめの現象は日本だけでなく、海外でも見られます。C.F.ルイスという米国の著名なSF作家が書いた小説の中に、子供達が生き物を平気で殺して楽しんでいる姿にあきれた宇宙人が、人類を滅ぼすというストーリーがあります。子供達は放っておくと、好き勝手に動物や友達をいじめて楽しむ傾向があるのでしょうか、いじめに関する文献は枚挙に暇がありません。

以前、小学生になったばかりの我が子が群れをなして歩いている蟻を見つけ、面白がって踏み潰している姿を目撃したことがあります。むやみやたらに生き物を殺すことは何事かと、この行いを見るや否や厳しく叱りました。父親が余りに激怒したせいでしょうか、それからというもの、子供達は一変して生き物を大切にするようになりました。その後、学校の通信簿に「動物を大変良く可愛がります」というコメントを読んだ時は、ほっとした思いになったのを今でも覚えています。

いじめとは、異質を徹底排除する暴力

現代の子供達は、いつ、誰から「命の大切さ」や、「弱者に対する思いやり」について学ぶのでしょうか?「一寸の虫にも五分の魂」という昔からの諺が、いつの間にか死語になってしまったように思えるのは単なる錯覚ではないようです。ゲーム世代に生きる今の子供達は、その仮想世界の中でバトルの連続を経験し、人を殴り、蹴り、時には銃で撃ち殺すというような暴力シーンを平気で長時間見続けています。その描写は余りにリアルであるため、時折ゲームの世界と現実との識別ができなくなることもあるでしょう。またゲームなら、ちょっとでも気に入らなくなるとリセットして、再び好きな時にやり直すことができます。この安易なゲーム感覚が、実社会においても青少年を軽率な行動へと誘導し、動物はおろか、人間に対しても平気で暴力を振るわせてしまうようです。人間としての思いやりの大切さに気が付くこともなく、挙句の果ては悪質ないじめとしてエスカレートしていくのです。

浦島太郎の教訓が全く活かされない時代、それが現代社会です。そこには異質なものをことごとく排除しようという精神構造が見え隠れしています。それ故いじめの矛先は、考えや見かけが少しでも異質と思われる人達に執拗に向けられるのです。例えば物静かでおとなしく、まじめな良い子は遊び仲間と相容れない「異質」であると断定され、いじめに遭ってしまうのです。この「いじめ」の本質は子供の世界だけでなく、実は大人の世界でも全く同じことが言えます。「いじめ」は今やどこにでもはびこる社会現象なのです。

いじめの責任は誰にあるか?

あるアンケートで「子供のいじめの責任は誰にある?」と聞いたところ、最も多い答えは「親」、次に「いじめている子供」、その次が「学校」でした。無論このアンケートの答えが全てではありませんが、やはり親の責任が一番問われるべきであると考えている人が大多数を占めています。特筆すべきは「いじめられている子供」にも責任がある、として4番目に列挙されたことです。

そもそも人間が生きるということ自体がチャレンジの積み重ねであり、それは決して生易しいことではありません。だからこそ子供達には「いじめくらい何のその」という位の強く逞しい精神力を持ってほしいものです。幼い頃から精神面における鍛錬を経て、自分を守り、且つ、弱い者をも守る正義感を持つような教育を受けていれば、例えいじめに遭ってもそう簡単にくじける訳がありません。

しかし現実は程遠く、いじめに遭う子供達に、逞しくなれ!と叫ぶだけでは精神力は鍛えられません。子供の精神力を養うためには、様々な苦労を子供達に経験させなければならないのです。「子供には苦労させたくない、勉強だけしてもらっていれば良い」と考えるような親がいる限り、無力な亀のような子供達が量産されるのです。やられ放題痛めつけられ追い詰められても、助けを呼ぶことさえできない、正に海辺に一匹だけ残された亀のような存在の子供達が何と多いこと!そしてそのような「亀」をクラスメートの中に見つければ「おい、やっちまえ!」と、つい悪乗りして袋叩きにしてしまう子供達も大勢いることは想像に難くありません。

かといって「いじめられる方が悪い」という極論も避けなければなりません。何故ならいじめ問題の根本はいじめる側にあり、教育機関も彼らの親もいじめ問題を監視する義務を持っているからです。いじめ問題に関わる双方の親を含め、皆がこの社会問題を総合的に検証をしながら子供達の持つ心の問題に取り組まなければ、解決策は見出せないでしょう。

いじめ問題の原因は親にあり!

子供の教育責任は誰にあるのでしょうか?本来、親と家庭にあるべきものが、昨今の風潮として学校側にあると思われがちです。日本人としての倫理道徳感は文部科学省によってその方向性が定められており、教育そのものが義務教育機関にアウトソースされているのだから、学校の責任は重大であるという考えに傾いているようです。それ故、昨今のいじめによる自殺に関する報道を振り返ると、自殺に追い込まれた子供の親が一様に学校の先生を強く批判するシーンばかり続いています。いつの間にかいじめ問題はそれを放置した学校側に責任があるという見解がまかり通り、いじめる側といじめられる側、双方の親の責任を語らずして、教育機関に責任を転嫁する構図が当たり前のようになってしまいました。でもこれは間違いです。

根本的に子供達の精神教育とマナーの育成は、教育機関にアウトソースできるものではありません。これは子供達が幼い頃から家庭にて育まれてくるものです。確かに学校側の対応にも不適切な部分があり、いじめを防ぐ為の対策が不十分だったかもしれません。しかし所詮、学校とは子供達に学問を教える教育の現場であり、子供達の生活習慣や挨拶、態度、マナーまで教えるところであってはならないはずです。そんなことをしていたら、ますます日本の教育レベルは世界から遅れをとってしまいます。個々の子供が抱える心の悩みや問題については、カウンセラーを通じて学校側がシストする必要性はありますが、学問以外の基本的なマナーや精神教育の責任は、あくまで家庭にあるのです。

つまり、平気で弱い者いじめをするような子供が育つのは、親の教育が悪かったと言わざるを得ません。また、いじめられた側の親にも当然ながら問題があります。いかなる悪質ないじめにあったとしても、自殺を考えるような軟弱な精神を持つ子供に育てた親の責任は重いのです。それに、万が一自殺まで真剣に考える程の精神的苦痛を子供が抱えていたとしても、子供の方から親に相談があってしかるべきです。しかし何も告げずに黙って命を絶つということ自体、親に対して心を開いていなかったことの証でもあり、親子間の溝を感じないではいられません。自殺した子供の親は執拗に学校の責任を問いたがる傾向にありますが、まず自らの落ち度を省みるべきではないでしょうか。

いじめに解決策はあるか?

いじめ対策に即効薬はありません。モラルの教育、家族関係の改善、教育機関と学童、親との連携プレー、カウンセリング施設の充実、そのどれをとってみても、時間のかかることばかりだからです。でも何もしないことには始まりません。ここでは浦島太郎の童話から、いくつかの教訓を得てみたいと思います。

まず浦島太郎の童話を幼い子供達に読んで聞かせ、ストーリー全体の流れから、弱い者を助けることが素晴らしいことを教えるのです。その為にも親子の絆をしっかりと保ち、子供に童話を読んで聞かせてあげるような心と時間のゆとりを親子が共に持つことが必須です。

次に、海辺でいじめられる亀の話から、浦島太郎がその現場を見たとたんに、有無を言わせず亀をかばった勇敢な姿にスポットをあててみましょう。勇気溢れる本当に美しい姿とは、どんな状況下においても正義の為に果敢に闘うことではないでしょうか。しかしゲーム脳的な感性に侵されがちな現代社会の子供達は、バトルに勝つことのみに専念したがる為、どうしても強い味方を持ちたがります。その思いがいじめに輪をかけているのです。つまりいじめとは格好のバトルであり、弱い者をたたき潰して必ず圧勝することのできるゲームなのです。でもその優越感はとんでもない虚像であることを気づかせなければなりません。

また、見て見ぬふりをすることは道義に反することも、浦島太郎から教えられます。今や、いじめを目撃したら即介入して、やめるように忠告したり話し合ったりする度胸と大胆さが誰にも求められています。もしいじめを無視して通り過ぎるならば、その人もいじめの共犯者である、という認識を持たなければいけません。最後に、龍宮城の話から善行には必ず良い報いがあることを語り告ぐべきです。無論、それを望んで助けの手を伸べるのではなく、あくまで人間として行うべきことを率先するにすぎません。弱い者をいじめる人は結局の所、多くの祝福から取り残されることを知るべきです。

子供達が「命」を粗末にすることなく、思いやりを持って友人と接し、尚且つ弱者を助けることを喜ぶハートを持つならば、皆一歩、龍宮城に近づいたと言えます。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部