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空海の聖地、西安を訪ねる
古代の史跡を散策するロマンにひたる至福の旅

シルクロードの東の起点として繁栄を極め、中国史上、ひときわ輝く歴史的背景を持つ華やかな都が西安です。長安(チャンアン)とも呼ばれたこの古都は、唐をはじめとする多くの王朝の都が置かれた由緒ある大都市であり、特に秦の始皇帝を輩出した地としても有名です。また、空海が9世紀始め、中国に遣唐使として渡り、学びに専念した都でもあります。シルクロードの歴史と弘法大師・空海のロマンが交差する西安は、これまで多くの人々を魅了してきました。その憧れの西安に訪れるチャンスが、遂に到来しました。

世界経済の低迷と旅客数の急減が原因でしょうか、2008年10月をもって、成田から西安へのJAL直行便が廃止になるというニュースが耳に入ってきたのです。勿論、今後も共同運航便を利用したり、北京やその他の都市を経由しながら西安に飛ぶことは可能です。しかし直行便でないと時間の拘束が長くなるだけでなく、JAL便でなければマイルを使って同行する子供の無料航空券を取得することができません。それ故、JALの直行便が廃止になる前に、空海が学びに徹した憧れの聖地、西安を訪れることにしました。

西安へのJALの旅

早速JALに電話してみると、西安への運行は10月23日、木曜日が最終便とのことでした。しかも週2便しか飛んでいないため、行きは10月19日、日曜発の600便がラストチャンスです。問答無用で予約を入れ、旅支度を始めました。隣の国、中国といっても上海等の湾岸に面した大都市ならば、日本からの空の旅は2時間少々で到着しますが、中国の国土は広大です。その土地面積は日本の26倍もあり、東西に5000㎞も広がっている大国です。しかも西安は中国の首都、北京より更に西方に位置しているため、成田から飛行機で4時間45分もかかります。

10月19日、期待に胸を弾ませてJAL600便に搭乗することこになりました。搭乗して驚いたことに、ビジネスクラスは満席で、エコノミーはがらがらです。しかも不思議なことに、中国便のビジネスクラスはいつも男性客で一杯ですが、今回は過半数が女性客だったのです。これは西安が観光都市であることを意味しているのかもしれません。

そしていよいよ、成田から5時間弱の旅を経て、西安の空港へランディングです。

空海のロマンを馳せた文明都市

西安での遺跡ツアーをより有意義なものにする為、西安の歴史や空海と中国の係わり合いについて多少なりとも事前に学ぶことにしました。陝西省の中心に位置する西安は紀元前221年、秦の始皇帝が統一国家を立ち上げた際に設立した都です。始皇帝の民族ルーツは西アジアやイスラエルにある等と、様々な憶測が今でも飛び交い、その3代に渡る中国の歴史は栄華とロマンに満ちています。その後、前漢、後漢、三国時代、晋、南北朝時代、隋と続き、やがて空海らが遣唐使として交流を持つ唐の時代が訪れます。

その西安に空海が遣唐使として9世紀初頭、来訪しました。遣唐使の歴史は630年より始まり、中国の文化、技術を学ぶために幾多の名僧や識者が日本から派遣されています。そして804年、第16次遣唐使船には当時31歳の空海が乗船し、摂津の国難波ノ津(大阪)の港を出航した後、暴風雨に遭遇して34日間漂流しながらも、中国赤岸鎮沿いの海岸に辿り着き、そこからさまざまな苦難を乗り越えて大陸を北西に移動し、西安に辿り着きました。それがどれ程大変な旅であったかは、当時の交通事情を察するだけでも想像するに難しくありません。太平洋湾岸沿いの福建省赤岸鎮から西安まで直線距離でも1400㎞程あり、実際に空海が歩いた旅の道程はその倍近い2400㎞とも言われています。それはマラソンランナーがフルマラソンの距離42㎞を連日走ったとしても、2ヶ月かかる計算です。

今日、西安には成田から飛行機でおよそ5時間弱かけて到着しますが、実際にはその前後の旅程も考慮すると、最低でも7~8時間の旅路になります。しかし、たったそれだけの旅でも、ホテルに到着した時点で筆者は、体のあちこちが痛くなる程、旅の疲れを感じさせる長旅に思えた訳ですから、例え時代が違うにせよ、旅の労苦をも省みず、ひたすら西安へと向かった空海ら一行の信念と勇気には、頭が下がります。

空海が中国へ到着した翌805年、空海と、青龍寺東塔院の高僧である恵果阿闍梨との出会いが実現しました。そして中国語や梵語まで習得し、語学の達人として現地でも歓迎された空海は「五筆和尚」とも称えられるまでになり、恵果阿闍梨から密教の奥義をものの数ヶ月で伝授されます。その直後、恵果阿闍梨は死去し、いつしか密教に対して、弾圧と迫害が始まったのです。身の危険を察したのでしょうか、既に当初から目指していた留学の目的を達成し、学ぶべきことを知り尽くしたこともあり、尊師が死去した後、空海は当時20年と言われた留学期間を2年で打ち切り、日本に帰国しました。そして帰国後、空海は朝廷の信任を得、815年頃より布教活動を初め、それが現在の真言宗の礎となりました。

世界遺産に恵まれた大都市

その西安は、今や人口730万人を超える大都市です。西安と言えば、シルクロードのイメージと重なって、砂漠に埋もれつつある田舎の都市というイメージを持っていましたが、一旦空港にランディングしたとたん、その思いは払拭されました。空港はモダンであり、目の前に広がる町並みは、他のアジアの都市にひけをとらない立派な近代都市そのものであり、活気に溢れていました。そして有難いことに、70年代の香港を髣髴させるごとく、町中のタクシーが未だに安価であり、1㎞あたり15元、およそ20数円で、どこにでも気軽に行くことができることがわかりました。

西安に到着した翌日、400元でタクシーを半日貸しきり、まず西安東方の郊外にある兵馬俑と秦始皇陵を訪ねることにしました。世界遺産でも知名度が大変高い秦始皇兵馬俑博物館は、一見、大きな公園の様な広場になっていて、観光客が大変多く、特にヨーロッパからのツーリストが目立ちました。広場の奥まった所には、大型の体育館の様な建物が複数並び、その中にテラコッタと呼ばれる素焼きで作られた歩兵隊、戦車隊、騎馬隊からなる兵馬俑が一つの建物の中に6000体も発掘された状態で保管されています。また、隣接する建物内にも更なる兵馬俑が展示されており、どの建物内も観光客で一杯です。兵馬俑はまだ発掘中ということもあり、全容が明らかになっている訳ではありませんが、兵士像の顔、一つ一つの表情が異なっていて、本当に生きていた人々の姿ではないかと錯覚してしまいそうです。実際には秦の始皇帝が亡くなられた時、当時の風習に従って側近の兵士が一緒に殉教したという説もあり、死と引き換えに永遠に兵馬俑の中に陳列されることを夢みた結果とも考えられます。いずれにしても、その壮大なスケールには驚きを隠せません。

兵馬俑を後にして、次に中国最初の皇帝である秦の始皇帝の陵墓、秦始皇陵を訪ねました。ここも広大な公園というイメージが先行する緑の多い陵墓であり、公園の入り口は田舎風に大変質素です。中に入ると、すぐにゴルフカートの様な乗り物に案内され、それに乗って公園の周囲を所々止まりながら、一周しました。その途中ではかなりスピードを出して運転されるので、人が飛び出して事故にならないかと、少し怖くなった程です。終点でカートから降りた後は、陵墓の中心となる高台まで階段を上り詰めて歩くことにしました。200数十段の階段でしたでしょうか、上るのも大変ですが、いざ頂上まで達しますと、大変見晴らしの良い風景を楽しむことができます。10年という短い期間で中国の統一王朝を建国し、中央集権体制のもと、法律や文字などの基準も纏め上げた秦の始皇帝にふさわしい壮大な陵墓であり、今日、市民の憩いの場になっています。

2日目は、空海が学んだ青龍寺を訪ねました。日本人しかあまり訪れることのない小さなお寺ですが、日本から桜の木1000株が寄贈されただけでなく、空海の偉業を称える空海記念碑も建立され、境内の真ん中にたたずんでいました。この寺は小高い丘の上にあり、その境内からは町並みを見下ろすことができます。この魂の修行場所で、空海が密教の教えを伝授され、1200年前に学びに徹したのかと思うと、歴史のロマンを感じずにはいられません。

次に立ち寄ったのが、陝西歴史博物館です。博物館の規模としては床面積が1万6千坪もあり、参観ルートも1.5㎞を誇る大規模の展示エリアが魅力です。先史時代から歴史を追ってフロアーごとに、3000点もの逸品文物が展示されています。この博物館も、中は観光客で大混雑しており、人を掻き分けなければ前に進めないほどの盛況ぶりでした。これ程までに、中国の古代史に世界が注目しているのかと、認識を新たにさせられました。

翌日には、石碑と墓碑の宝庫とも言える西安碑林博物館を訪ねました。1000点余りある石碑や墓碑の数々は圧巻であり、漢文の意味は理解できなくとも、その貴重な文化遺跡に息がつまる思いでした。その中には空海自身も学んだと言われるキリスト教ネストリウス派との交流について記述した大秦景教流行中国碑なる人の背よりも大きな石碑もありました。その後、6000年前の母系氏族社会の遺跡が展示してある西安半坡博物館や、中国密教の発祥の地として知られる大興善寺も訪れる機会に恵まれ、最後は西安の街を囲む城壁にのぼり、町並みを見渡しながら西安の空気を胸一杯吸って、とてもさわやかな気持ちを満喫することができました。

今回の旅で、これまで見知らぬ都市であった西安が、とても身近に感じられるようになりました。西安にはまぎれもなく、弘法大師・空海の軌跡を垣間見ることができる信仰のルーツがあっただけでなく、今日の日本文化のルーツにも、多大なる影響を与えた、西安を発信源とした古代中国の文化の面影を至る所に見出すことができます。改めて偉大なる文明都市西安の存在と、日本文化に対する貢献に感謝を捧げつつ、JALの最終便で帰国の旅路につきました。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部