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マラソン人生よ、ありがとう !
人生最後のロサンゼルス国際マラソン大会に挑む ! ! !

2010年3月6日、かれこれ7年間続けてきたマラソンを止めなければならない事態となりました。遂にドクターストップがかかり「もう無理をしてはいけない」と医師から宣告されてしまったのです。ちょうど2ヵ月程前から原因不明の耳鳴りが始まり、いっこうに改善しないため血圧を測ってみると、いつの間にか血圧が高くなっていたのです。3月21日に開催される第25回ロサンゼルス・マラソンにて念願のサブスリーを達成し、それで有終の美を飾ろうとトレーニングに取り組んでいただけに、水を差されてしまいました。

激しいトレーニングは高血圧症の敵

52歳という年齢も顧みず、体を酷使する激しいトレーニングが度をすぎてしまったのでしょうか。標高2000mの山を1人で走り回り、時速16kmで走る中距離走のインターバルを汗だくになりながら繰り返し、さらには、国内の様々な大会に参加して全速力で駆け走ったりと、20代に戻った気持ちで暇をみつけては走っていたのです。体調もすこぶる快調で、体も十分に絞り切り、5km走でも快適にラップ走を終えることができるまでになっていました。

そこで調整もかねて2月11日に島根県で開催された出雲くにびきマラソン大会の10kmレースにエントリーしたのです。当日は、天候が大きく崩れ、朝から雨が降りしきる中、気温はみるみる下がり、風も段々と強くなってきました。事前の天気予報からは、これほど冷え込むとは予測できず、しかも10㎞という短いコースだと油断したこともあり、半袖のシャツに厚手のランニングパンツでレースに臨みました。参加者全員、震えあがるくらいの寒さの中、スタート直後から小雨に強風も重なって、体感温度がみるみる下がり、零下になってしまったかのようです。そして、ゴール手前2km地点からひざ下が冷たくなり、徐々に感覚が無くなる中、両腕も凍ってしまったかのように冷たく、正に凍傷寸前です。さらにゴール直前、突然、地下鉄の轟音のような耳鳴りが始まり、辛うじて吐き気をこらえながらレースを終えました。結果は3位入賞でしたが、そんなことよりもひどい耳鳴りに加え、それから数日間、何故か体の震えが止まりませんでした。きっと体を酷使したことが引き金となり、免疫力が急激に低下して、高血圧症を発症したのでしょう。

早速、病院で検査をしてみると血圧が高い上、血液中のタンパク質の値が異常に低く、「80歳代のおばあちゃんのレベルになっている」と医師から指摘されました。しかも過激な減量のためか、中性脂肪も基準値の最低限である40mg/dlを大幅に下回る21mg/dlというほぼ栄養失調に近い状態であることがわかったのです。過激な摂食や、仕事、過労などによるストレスも重なり、免疫力が打撃を被ったに違いありません。

高血圧症の敵には、過度なストレス、マラソン、短距離走、重量挙げ、体を冷やすこと、過激な減量、サウナ等が含まれます。その全てをトレーニングの一環として行ってきた筆者は、正に格好の餌食になってしまったのです。「これはもうドクターストップですね !」、という医師の言葉が全てを言い尽くしています。そして、生まれて初めて血圧を下げる薬の処方箋を頂き、高血圧症という病気に直面することになったのです。

ロサンゼルス国際大会に出場 !

それでも「2010年のロスマラソンだけは、何としても走りたい」と願うのには理由がありました。第25回目の大会にして初めてコースが大幅に変更となり、ダウンタウン近郊のドジャー・スタジアム(野球場)からハリウッド、サンセット大通り、そしてビバリーヒルズを経由し、サンタモニカ・ビーチがゴールという夢のようなコース設定が発表されたからです。しかもコース全体が海に向かう下り坂であり、良い記録が出やすいという前評判もありました。

10、20代の大半をロサンゼルスで過ごした筆者にとって、自らのホームタウンであり、しかもよく出かけた街の通りを、駆け抜ける最初で最後のチャンスなのです。このチャンスを逃したら、きっと一生後悔すると思い、無理を承知で果敢にもチャレンジすることにしました。

とは言っても、大会直前に高血圧用の薬を投与され、それから10日間はトレーニングを中止せざるをえず、練習を再開したのが大会の5日前。体が鈍って本当に完走できるのか不安がよぎります。実際に10日のブランクはさすがにきつく、走っても足が重く、耳鳴りも止まらず、出発前日まで足踏みをしているような状態でした。しかもロスの天気予報を見たところ、大会3日前から気温が上昇し、大会当日の最高気温は25度の夏日ということです。準備不足に加えて、高血圧、しかも夏日とあっては、サブスリーどころか、完走さえも危ういと思われました。

大会2日前の金曜日にロサンゼルスに飛び立ち、翌日には早速ドジャー・スタジアムでゼッケンの登録です。球場の屋外駐車場には、小さいテントがずらりと並び、2万5000人分のゼッケンを配布するのですが、午後3時に到着した時点ですでに、テントの入口は長蛇の列。会場はごった返していました。時差ぼけも何のその、早速ゼッケンをゲットして心を切り替え、明日に向けて気合いが入ります。

翌日、スタートは7時24分。スタート15分前ともなると、トイレはドジャー・スタジアム内にしかない為、どこもかしこも長蛇の列です。筆者は昨年、3時間7分という好成績を記録したのが功を奏して「サブスリーコラル」という2万5000人の参加者から、およそ100人のエリートランナーだけに与えられる先頭集団の位置からスタートすることが許されていました。そこで、直前にトイレだけは済ませておこうと並びはじめたところ、何と後5人となった所でトイレの列が動きません。仕方なく待ち続け、ようやく自分の番になったのが7時24分、何とスタート時刻です。「ありえない !」と心の中で叫びながら30秒で用を済ませ、急いでスタート地点に戻ってみると、「あれ ?」走り始めているはずのランナーが、皆のんびりとくつろいでいるではありませんか。隣のランナーに訊ねると、主催者側の判断でスタート時間を30分ほど遅らせたとのこと。想定外の遅延に気が抜けてしまいました。

その後、10mほど先のスタートラインに、ケニア勢を中心とする20数名の招待選手が入ってきました。筆者が「カモシカ軍団」と呼ぶ、プロランナー達です。皆、一様にすらりとした細い脚をしていて、ふくらはぎの筋肉の筋などがほとんど見えないほど、皮膚が奇麗でツルツルです。サブスリーをめざすエリートランナーの大半は、脚の筋肉から血管が浮き上がって見えるくらいに鍛えられ、逞しくみえるのですが、プロランナーは、カモシカの脚のように細くて長く、しかも美しく、自分の脚と比較しても雲泥の差があることは一目瞭然です。

マラソンの極意は辛抱!

号砲と共に、運命の火ぶたが切って落とされました。未知の42kmの世界への旅だちです。ドジャー・スタジアムの周囲をぐるりと回ってから、一気に下り坂を抜けてダウンタウンへと向かいます。天候は曇り、思いのほか涼しく、とても快適なスタートとなりました。当初は1マイル(1.56㎞)あたり6分50秒というサブスリーペースで走りながら、体の変調を感じたらスローダウンすると決めて走り始めたのですが、聞いていた話と違い、意外にもアップダウンが多いため苦戦を強いられることになりました。確かに全体的にはダウンスロープなのですが、頻繁に上り下りがあり、体力を消耗します。かすかな耳鳴りと、血圧を気にしながら、自分のペースで走り続けました。

暫くすると、ハリウッド通りに入り、見慣れた街並みの道路上を走っていることに喜びが湧き上がってきます。そして通りを変えてサンセット大通りへと進み、ここには仕事でもよく訪れる楽器店が立ち並び、走るのが楽しくなります。そしてハーフ地点に到達し、電光掲示板を見ると1時間32分とまずまず。しかしサブスリーはもう論外と思われ、足の疲れや体調、耳鳴りからして、これ以上の無理は禁物と思い、ここから先は「楽しんで」最後のマラソンを満喫しようと心に決め、3時間7~8分でゴールできるペースで走ることにしました。

ところが16マイル地点で、まず、最初のアクシデントに見舞われました。走っていて突然、耳鳴りが強くなり、頭皮が後ろに引っ張られる感じがしたのです。血圧が上がってきたのかと心配になり、原因について色々考えて走っているうちに徐々にスピードが落ちてきます。そして20マイル地点に差し掛かった時点で、最大のピンチが訪れました。20回目のマラソンにして、遂にコースの途中で脚が止まってしまったのです。突然、左脚が麻痺し、全く動かなくなりました。とりあえず1分程、ストレッチをすると感覚が多少戻り始めたので、脚を引きずりながらゆっくりと走り始めました。感覚が麻痺している脚を動かすのはとても辛いものですが「後、残り9kmだから何とかなる」と自分自身を叱咤激励し、走り続けることにしました。

メモリアルパーク内に入ると、勾配がきついスロープが続きますが、苦しい思いをひたすら我慢するのがマラソンの醍醐味と前向きに考え、ひたすら脚を動かし続けました。そして23マイル地点からは軽い下りになり、幸いにもゴール直前になって脚の感覚が一時的に戻ってきたので、最後の1kmだけはまともに走れたのがせめてもの救いでした。人生最後のマラソン大会に万全の体調で臨むはずが、予想外の体調不良と、片脚の麻痺による失速で3時間21分というふがいない成績に終わりましたが、でも何故か心は爽やかでした。

これまでマラソンを走りながら、辛抱すること、節制すること、犠牲を払うこと、痛みを我慢すること、自身の肉体を鍛えること、規律正しい生活を送ること等、様々なことを学ぶことができました。自分の体はマラソンによって改造され、心身ともに逞しくなっただけでなく、多くの人に支えられて走り続ける自分や、他のランナーの姿を見ながら、マラソンは魂に感動を与えてくれました。共に苦しみ、共に喜びを分かち合うことの素晴らしさは、言葉では言い尽くせません。マラソン人生よ、ありがとう !

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部