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老眼の摂理
誰にも「きっと来る」加齢現象の意味とは!

平成15年のある日、突然、近くの物がぼやけて見えにくいことに気が付きました。本や新聞を読もうとすると、文字が霞んで見えるのです。当初は、ちょっとした疲れ目か、パソコンのしすぎか、それとも睡眠不足なのかと色々疑い、暫く体を休めたりしながら様子を見ていましたが、一向に良くなる気配がありません。おかしいと思い、知人に相談してみると、「もしかして老眼の始まりでは ?」とのコメント。「老眼?」「自分が老人の仲間入り?」。まさかと思い、早速、近所の眼科医を訪ねたところ、両目とも1.25°程度まで老眼が進んでいるとの宣告です。そして「人間誰でも45歳位から老眼が始まるのですよ ! 」という説明を受けました。

日ごろからスポーツに取り組んでおり、健康管理には人一倍留意してきました。しかも幼い頃から両眼共に1.5の視力を保ち、目が良いことだけは絶対の自信があっただけに、老眼鏡をかけなければならないという現実に直面したことは、正に晴天の霹靂とも言える人生の一大事だったのです。眼鏡屋さんでは「お手元用」という言葉が使われているようですが、気休めにしかすぎません。「老眼」という言葉により、自分が老人の仲間入りをしたことを痛感することになりました。

誰にでも訪れる老眼鏡との出会い

「老眼」とは、物を見る際に焦点を調整する水晶体が、歳を取るにつれてその機能が弱まり、近くの物に焦点が合わなくなることです。およそ40代半ばから自覚症状が現れる人が多く、体の成長がピークを過ぎた20歳前後から、気がつかぬ間に水晶体の老化も始まっています。

老眼の症状を緩和するためには老眼鏡を掛けるわけですが、遠視用の眼鏡と同様の凸レンズを使用することから、近くの物がはっきり見えるようになっても、今度は遠くがぼやけてしまいます。よく老眼鏡を使われている年配の方が、人と話す時や遠くを見る時は、老眼鏡をずり下げて上目遣いに裸眼で見る光景を目にしますが、遠近両方を見る為には、そうせざるを得ないのです。その為、最近ではいちいち眼鏡をずらしたり交換しなくても良いように、遠近両用眼鏡も普及しています。

眼鏡の使い方は、時代により変化します。特に遠近両用レンズを利用する場合、これまでは、レンズの下部のみを手元を見る為の近方視用とするのが普通でした。しかし昨今ではより広いエリアを近方視用に使い、パソコンの画面等をくまなく見渡したいというようなリクエストが増えています。ところがレンズには凹凸があり、焦点が合う箇所はどうしても局所化してしまうため、なかなか思い通りの眼鏡を作ることができず、悩みの種はつきません。

老眼は自然の摂理

老眼は自然界の摂理に基づくものと考え、前向きに受け止めるべき人間の宿命と言えます。摂理とは自然界の法則であり、誰もが大自然に育まれ、生かされているという考えがその根底にあります。そして人間の体は、この地球環境に順応できるよう見事なまでに巧妙にデザインされているのです。

例えば、体の大事な部分や弱い箇所には体毛が生え、外部の衝撃から保護しています。これは人間が原始的な生活をしていた時の名残と言えます。幼少時には少ない体毛も、成人になるにつれて量が増え、最終的に老化と共に脱毛が始まります。これは人間の運動量に準じていると考えられます。また、ホルモンの分泌量は年齢と共に大きく変動します。例えばヒト成長ホルモン(hGH)は20代を境に、その分泌量が減少し始めます。hGHは体内における細胞分裂を盛んにし、骨や筋肉の成長を促し、代謝を促進する作用があることから、成長と元気の源と言えます。よって、運動量が多い若い世代には不可欠です。このhGHが青年期をピークに減少するということは、若き日のエネルギッシュな生活が徐々に終焉を迎え、加齢と共に体をケアし、いたわることに重きを置くことを、ごく自然と覚えるようになることを意味しているのではないでしょうか。

人間の体の仕組みは周囲の環境に適応しているだけでなく、人間を育む大自然そのものも、人間が心地よく生活する為の最適な環境を提供し、相互が調和していることにも注目です。例えば日本には四季があり、暖かい夏は日が長く、寒い冬は夜が長くなります。すると夏は長時間働いて食物を確保し、冬は体力を温存するため長時間寝ることを示唆しているように思えます。

こうしてみると、加齢と共に近距離が見づらくなるということは、単なる老化現象と割り切れるものでなく、そこに大切なメッセージが含まれていると考えられます。「無理は禁物」と良く言われますが、老眼とは目を休ませ、ライフスタイルをそろそろ変えて、人生のペースをスローダウンする転換期が訪れたことを象徴する、自然体の信号なのです。もはや長時間、携帯電話やパソコンを食い入るように見つめて眼を酷使することは適切ではない年齢であることをわきまえることができるように体が合図しているのです。ところが、老眼鏡を一旦掛けてしまうと、とりあえず目先の物がはっきり見えるために、体が発信している大切なメッセージを見落としがちになります。

老眼の摂理から学ぶこと

人間の体は、環境の変化や体の具合に応じて、様々なサインを発信しています。例えば冷たいものを飲みすぎれば頭痛が生じ、内臓を冷やしすぎていることに気がつきます。炎天下、気持ちが悪くなるのは脱水症状を起こしている為であり、至急、水分を補給する必要があることを知らせるサインです。また、走りすぎて足を酷使すれば筋肉痛が生じ、足を休ませなければならないことを知ります。同様に、およそ50歳を境目にして近くのものが見えにくくなる老眼は、ライフスタイルを変える時期がきたことを促す合図と考えられます。このサインを見落とし、その重要性にいつまでも気がつかないでいると、大切な人生の日々を無駄にすることになりかねません。

世界のベストセラーである聖書には、50歳を境に人は長老となり、若い人たちを教える役目を授かることが書かれています。この年齢は、老眼の症状が現れる時期と一致していることからしても、老眼になるということは、それまで日々行ってきた仕事の第一線から退き、人生の方向転換を考える時が来たことを告げているのではないでしょうか。それは、健康に留意し、単に視神経を酷使することのないように注意するだけでなく、人生の先輩として若い世代の人々を見守り、教える立場になったことを意味しているのです。それが真の世代交代の源流であり、日本人が固有の文化と伝統を踏襲し、尊厳をもって歴史に布石を残していくための必須条件であると考えます。

もはや、老眼になったからといって落胆する必要はありません。むしろ、老眼の始まりを「知恵の始まり」と考えるべきです。そして老いていくことの美しさ、素晴らしさに気付くことが大切なのです。歳をとると共に人生を見つめ直し、今までとは一味違った人生観に目覚め、これから為すべき社会貢献について考えてみたり、これまで培ってきた経験と知識をもって若い世代を諭しながら、生きていることの素晴らしさを最後ま で満喫することこそ、年配者らしい人生の過ごし方ではないでしょうか。老眼の摂理とは、無理をせず、全てに感謝して、人生の日々を満喫することを教え ているのです。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部