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今、日本は輝いている!
至難を耐え忍び、お互いをいたわる日本の優しい心に世界が注目!!

2011年3月11日、マグニチュード9.0の巨大地震が東日本の太平洋岸を襲いました。アメリカの東海岸、ハートフォードに滞在中、夜中にCNNニュースをテレビで見ていると、突如、上空から撮影された大津波の映像が緊急ニュースとして流れたのです。一見、プーケットを襲った津波の映像かと思いきや、それは日本で発生した巨大地震と津波であり、東北地方を中心に襲いかかり、海岸沿いの町が一気に押し流されて壊滅したことを知りました。すぐに帰国したくとも、成田空港さえもが閉鎖されたとの事実に、不安心理が高まります。状況を把握するため、日本に電話するも回線は全て不通。時折つながるインターネット経由のメールのやり取りから被害状況について情報を確認し続け、成田空港が再開する時を見計らって、3月12日、複雑な思いを抱えつつ帰国の途につきました。

災害の苦悩は分かち合うものである

帰国後は当然のことながらニュースは全て災害関連一色であり、町全体が津波で押し流され、無数の車が波にのまれ、気仙沼市のように大火災が発生した町も少なくない状況から、被害は甚大であり、大勢の方の命が危うい状況であることは一目瞭然でした。時間が経つにつれて死者、行方不明の方々も一万人を超えるのではと囁かれ始め、中には未だ瓦礫に埋もれている方々もいるはずであり、心が痛みました。そして想像を絶する悲惨な光景をテレビで見ながら、「今の自分に何ができるだろうか?」という思いがこみ上げてくるのでした。

筆者の本職は楽器や音響機器の全国通販であり、また、ペットボトルの水も販売しています。災害当時、弊社の倉庫には10万本以上のペットボトルの在庫がありました。この水こそ命の水となり得るかもしれません。また、被害に遭遇した地域には、震災発生直前に注文された弊社から送られてくる商品を待っているお客様もおられ、中でも明らかに壊滅的な被害を受けた地域にお住まいになっていた方が15名存在していたのです。さまざまな方法で連絡を取ったり情報を集めた結果、8名は自宅に避難し、3名は避難所他での生存を確認できましたが、残り4名の方々とは連絡が付きません。その地域は石巻市、気仙沼市、陸前高田市、宮古市と、特に被害が甚大な被災地の名前が連なります。

これらのお客様の安否確認や、被災地で苦しむ方々に手を差し伸べたいという思いから、すぐに支援活動に出向くことを決断しました。ところがその時点での現地の情報は余りに少なく、多くの危険を伴うことは火を見るより明らかでした。まず、道路状況が大変悪く、各地で道路が封鎖され、東北自動車道も通行止め。そしてガソリンが不足し、既に成田市界隈のガソリンスタンドでも長蛇の列ができ、東北地方では更にガソリンが困窮していると言うことです。また寒気が襲い、気温は零下を下回り、雪が積もることも想定されました。そして南北500㎞にも及ぶ広大な被災地のどこで支援活動を行えばよいのか見当もつきません。しかしながらテレビや新聞では、避難所でも多くの方々が大変な生活を強いられている姿が連日放映され、しかも、避難所にさえ来ることができない孤立した人々や、救援物資が行き届いていない被災地が、まだ大勢残されていることも報道され始めたのです。特にお年を召した方の場合、簡単に家を離れることができるわけもなく、道路が寸断され、交通手段が失なわれているため、もはや一刻の猶予も許されません。

準備の期限は1日のみ!

3月17日、自らが経営するサウンドハウスのホームページに決断の時が迫ったことをメッセージとして書き込み、1両日中に出発することを決めました。目的は、まず被災地のニーズを直に確認した上で、支援物資を供給することです。その際、出来る限り、孤立している被災者を探し求め、車だけでなく足を使って出向くことを考えました。行程については、被災地におられるお客様の場所を地図にプロットして順番に訪ねて回り、現地にて新たな情報を得ながら軌道を修正するという作戦です。そしてお客様の安否確認と共に商品をお届けし、同時にその町において物資の支援をすることにしました。

準備の時間は1日。早速、会社代表である筆者自身を含めて3名の社員、及び、本部3名からなるTEAM90を編成。3月15日に警察庁が食糧・生活用品運搬車に通行許可を出す事を決定したことを受け、東北自動車道を始め、その他、通行止めの道路でも行き来できるように、すぐに成田警察署にて4トントラックと大型RV車の2台を緊急支援車両として認定を受けました。次に携帯電話が使えず、車両同士の相互連絡がとれないことを想定し、車両に無線装備をすることを決定。幸いにも成田市内に設備の在庫を持っている店舗があり、弊社技術陣の力を借りて即日、設置完了。無論、各種携帯電話だけでなく、パソコン通信もできる体制を整えました。思いのほか苦労したのはタイヤチェーンです。既に3月も半ばを過ぎ、どのお店も在庫がなく取り寄せになるということ。どうしても成田界隈では見つけることができず、最終的にトラック用のチェーンは東京の大井で探すことができましたが、RV車用のチェーンはどこにも見つからない為、東京界隈の住宅地で同型の車両を見かけては、「支援の為、チェーンをお持ちなら貸して頂けないでしょうか」と書いた紙きれを窓に挟んで走り回ることに。幸いにもメーカーの方からスタッドレスタイヤなので雪道も大丈夫です、との言葉を頂き、チェーンなしで見切り発車することになりました。

また、道路事情等で、車での移動ができない地域があることも見越して、原付自転車2台を搭載することにしました。中古を簡単に見つけることもできず、結局は思い切って新車を2台購入し、3時間で整備から登録まで、全てを終えて頂きました。そしてペットボトル24本入りの飲料水273ケースをトラックに搭載。後は様々なニーズを想定した上で、食料、毛布、更には薬等の生活必需品等、支援物資の数々を、手分けして成田市内で一気に買い込み、2台の車を物資で一杯にしたのです。

支援の旅路に向けていざ、出陣!

4トン車は2名からなるT1隊、RV車は3名からなるR2隊と命名され、3月20日、早朝5時、被災地に向け出発しました。T1隊は成田を出発後、宮城県の仙台周辺へと向かい、利府、塩釜を回り、支援活動をしながら一関で一泊後、翌朝は気仙沼から北上を開始し、陸前高田や大船渡に向かいました。R2隊は東北自動車道経由で一気に八戸に向かい、そこから三陸沖に向けて南下するルートをたどり、T1隊とは仙台から三陸海岸沿いのどこかで合流することを目指しました。

一番気になっていた給油情報については、死活問題であることから、頻繁に携帯やメールを介して本部との情報交換が行われました。一度、東北自動車道を下りて内陸に入ると、給油の見込みが無い為、とにかく東北自動車道では常にタンクを一杯にすることを考えたのです。パーキングエリアでは緊急車両は給油可能という事前情報を得ていたのですが、実際にはその半分程が閉まっていただけでなく、場所によっては給油量のリッター制限があり、十分な給油をするには相当な苦労が伴いました。そして高速を下りて被災地に向かい、タンクが目減りする度に、次の給油を考えながら不安を隠せない時間を過ごすことになりました。

災害地の壮絶な状況に言葉を失う

R2隊が八戸に到着後、すぐに港に向かうと、確かに八戸港は津波による被害が甚大であり、大型漁船が道路上に棚上げされている程でしたが、その裏の町が若干高台になっていることから、被害は最小限に食い止められたようでした。八戸市庁の防災危機管理課を訪ねると、八戸は比較的被害が少なく、物資も十分にあるが、岩手県、宮城県は青森から救援物資を送りたくてもガソリンが足らずに送ることが出来ない為、被害の大きい南へ向かってくださいとのこと。岩手県の県北広域振興局にもようやく電話が繋がり、災害支援の通行許可車であれば、国道45号線で八戸から宮古へ到達できると思うとのことで、予定通り八戸から一気に国道45号線を海岸沿いに南下を始めました。

暫くして岬のカーブ上の道路を曲がると、それまで海を左手に繰り広げられていた美しい光景が一変、陸中野田から突如として津波によって壊滅した広大な被災地の様相が目に焼きついたのです。そこで目撃した現場の悲惨な状況は言葉で言い尽くすことはできません。そして瓦礫を撤去する際、未だに遺体が発見されることも少なくはなく、重苦しい雰囲気に包まれた遺体収容の現場にも遭遇しました。ふと、海岸沿いの大型防波堤の更に上に建てられた3階建の鉄筋コンクリート造の建物を見ると、津波の被害により3階部分も大きく被害を受けていたことがわかります。岩手県の北部でも、津波の高さは明らかに20mを優に超えていたのです。

海岸沿いの被災地では自衛隊による救援活動も継続して行われ、重機を用いた瓦礫の撤去作業も実施されていました。しかしながら被災地は南北500㎞に広がる膨大なエリアにまたがる為、大半の地域では、自衛隊の方々が素手で片付け、捜索を行っていたのです。これらの壊滅した町には、自分の家に別れを告げるために戻ってくる住民の方々も多く、瓦礫に囲まれた道路の片隅から変わり果てた我が家の最後の姿を見つめている方の姿が印象的でした。田老町では片付けをしているご年配の夫婦に声をかけて、「何かお手伝いをしましょうか」と申しでても、「思い出のあるものを探しに来ただけですから」と、長年住まわれた自分の居宅に別れを惜しむように静かな時間をすごしている姿に、そっとしておいてあげることしかできませんでした。

また、被災地では一応にして自動車の数が少なく、自転車やオートバイもあまり見当たらず、殆どの方が歩いていました。田老町の支援リーダーの方に話を伺ってみると、とにかくガソリンと交通の手段が無い為に避難所を訪れることができず、安否確認さえなかなかできないということです。その為、バイクがあると有難いとのこと。今回の支援物資の中には原付バイクもあったので、T1部隊に連絡を入れ、まだ原付バイクが残っているならば、田老市に寄付する方向で検討することになりました。その後、一般の方々も避難されている「ふれあい荘」と呼ばれる老人ホームやその他の避難所を回り、毛布や薬を配給しましたが、現地では当時、乾電池やペーパータオル、軍手等を必要としており、持参しそこねた物資も多々あったことが悔やまれます。

隠れた被災者が大勢いる…

ニュースでは報道されない、避難所以外で不安な日々を過ごしている被災者の存在も、自分の目で確認しました。宮古市では停電が続いており、夜には真っ暗になります。そんな瓦礫に囲まれた暗闇の道路を1人の女性が歩いていたのを見かけ、声をかけて自宅まで車でお送りしたところ、そこには避難所に行かずに、夜になると蝋燭を灯しながら、孫娘と2人で暮らしている老婆がいたのです。ちょうどその家は高台にあった為、津波の被害を間一髪で逃れることができたそうです。また田老近隣の小高い丘の上に、80代の老婆が2人だけで生活している家も訪ねてまいりました。このように避難所に行けずに自宅で生活している方々も大勢存在し、その場所や人数は自治体でも把握できていません。

その後、T1部隊と宮古市南西にある遠野市で合流し、そこから三陸海岸を国道45号沿いに再び北上し、田老町を再度訪 れて2台の原付自転車を寄贈しました。こうしてTEAM90は、被災地を巡回しながら、ひたすら道行く人に声をかけて現地のニーズを確認しながら、支援物資の配給に努めたのです。そして被災地の縦断を終え、最後は盛岡経由でR2隊は22日深夜に、T1隊は行政からの要請に基づき宮城県亘理郡山元町へ救援物資をお届けして翌23日の早朝、無事成田に帰還しました。

人々の姿が美しく輝く日本!

被災地で目撃した悲惨な光景は、報道されている映像のとおり、まさに集落が全滅しているという想像を絶する凄まじい現実でした。突然、眼下に瓦礫だらけの消滅した町の光景が繰り広げられた時の衝撃は、一生忘れることはないでしょう。しかしそのような災害の中でも、大勢の方々が希望を持ち続け、復興に向けて毅然と立ち上がり、互いに手を取り合って頑張っていました。一見、誰もが無力を覚えるこの大災害の環境下で、みんなが苦難を耐え忍び、様々な問題を乗り越えて、勇気を持って生きている姿が実に美しく思われます。その人々の姿に感動を覚えつつ、果たして今の自分に何ができるだろうかと自問自答を繰り返しながらも、やはり一人ひとりができることを精一杯やり遂げることが大切であるという熱い思いに心が満たされ、励まされているこの頃です。困難を極めた大災害に遭遇する時こそ、人間の真価が試される時です。今、日本は輝いています。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部