古代日本と邪馬台国の地勢観 Part.V
聖地の中心となる淡路島に紐づけられた邪馬台国

淡路島が古代、「東の島々」の中心として考えられていたことは、由緒ある聖地や、古代の港、列島内に聳え立つ高山、そして大きな岬の先端などを地図上で結び、それらの線が交わる中心に淡路島が存在することから、容易に理解できます。また列島各地の名高い神社の場所の多くが他の拠点や指標と同一線上に並び、もしくは複数線の交差点上に見出されるということは、これらの場所が相互関係を重視しながら厳選されていることの証でもあります。そして拠点が特定される度に、新たな聖地が同様の線引きによって見出されることも多く、こうして列島内に拠点は増え続けたのです。

古代の民が列島の地勢を指標とし、天体を観測しながら新たなる拠点を次々と見出していくプロセスは圧巻であり、その計り知れない洞察力と地理感は驚異的です。自然の大地は神からの賜物と考えられていた時代だけに、土地のロケーションそのものが極めて重要視されていたことは言うまでもなく、拠点の多くは太陽の日の出、日の入りの角度に絡んで選別され、時には他の拠点と同緯度上や同一直線上に紐づけられることが目論まれたのです。それは単に、これらの場所を探しやすくするためだけでなく、拠点同士がその存在価値と「地の力」、「地の利」を共有するという象徴的な意味合いも兼ね備えていたからに他なりません。

古代日本列島の指標線と邪馬台国の位置

伊弉諾神宮の場所を特定する方策

記紀によれば、伊弉諾尊は日本列島を自らの目で探索する責務を負っただけでなく、最期は島々の中心となる淡路島を自らの拠り所として、淡路島にて生涯を全うしました。日本書記に、伊弉諾尊が「幽宮を淡路の洲に構り」、そこに御隠れになったと記載されている通りです。また、古事記には、伊邪那岐大御神は「淡海の多賀に坐す」と記載されています。「淡海の多賀」を近江と解する説もありますが、淡路島を一貫して淡道と記載する日本書記に照らし合わすならば、淡路島の多賀と考えることが妥当でしょう。では淡路島の中でも旧一宮町周辺、多賀の地がどのように特定されたのでしょうか。そこには後世、淡路国一宮として名声を博した伊弉諾神宮が建立されますが、重要な立地条件が潜んでいるに違いありません。

伊弉諾尊が自らの幽宮として求めた場所は、列島周辺に見出された多くの拠点と地理的に結び付く中心的な存在であり、自らが祭祀活動を営み、余生を神の民と共に過ごすにふさわしい地であると考えられます。その為、アクセスが難しい山の中腹に在る岩上神社の神籬石とは一線を画し、庶民の誰もが神を参拝しやすい平野部の川のほとりを厳選し、しかもその場所が神籬石と同様に多くの聖地と地理的に紐づくことを望んだことでしょう。無論、神籬石との繋がりは不可欠であることから、それを奥宮として緊密な繋がりを保ちつつ、その近郊に限定して選別されたのです。

伊弉諾神宮の場所を見出す具体的な手法を想定すると、まず最古の祭祀場の一つとして名高い守屋山麓の諏訪大社前宮本殿と紐づけ、そこからちょうど冬至の太陽が沈む方角、28度30分の線が淡路島に当たる場所を見極めた可能性があります。諏訪大社から引かれる冬至の日没線は、淡路島の西海岸、播磨灘に面する多賀の浜と呼ばれる海岸に当たります。次に、伊雑宮と宇佐神宮に紐づけられた聖地として、列島の最西端、対馬仁井の和多都美神社を元宮とする西海岸沿いの海神神社に注目です。大陸からの航海者を迎え入れる玄関港となった海神神社は、和多都美神社と共に西方の玄関の要であり、祖国の同胞や王族らが出入りすることになる場所であるだけに、伊弉諾尊の思い入れが深い場所であったのです。そこで、海神神社と同緯度の線上で、しかも諏訪大社に紐づけられた淡路島の多賀の浜沿岸に流れる川の上流およそ1キロ内陸の地が伊弉諾尊の聖地として特定されたと考えられます。その場所は神籬石からも近く、夏至の日の出方向には諏訪大社が、そして日の入り方向には出雲大社が連なり、西の玄関である海神神社とも同緯度で繋がる絶妙の立地条件を兼ね備えていました。こうして伊弉諾尊自身の幽宮として特定された地は、正に伊弉諾尊のライフワークの集大成の象徴にふさわしい場所となりました。

伊勢神宮が偉大な聖地である理由

淡路島の伊弉諾神宮の場所は、諏訪大社からの冬至の日の入りの線が、海神神社と同緯度の線と交差する地点に特定されました。海神神社はその名の通り、海の神を祀り、海上安全を祈願することが重要視され、古くから八幡神が祀られた神社ですが、諏訪大社も同様に海の守り神と深く関わり、その水信仰故に、全国各地では古代から、港近郊にお諏訪様が祀られるようになりました。よってこれら伊弉諾神宮に紐づけられている神社同士は、伊弉諾尊の存在だけでなく、海という共通のモチーフによっても結びつけられていたのです。その二つの神社を結ぶ線上に見出された聖地が天橋立です。

日本三景の一つである天橋立は若狭湾西側の宮津湾に存在します。古風土記によると、伊弉諾尊が真名井原、現真名井神社奥宮に通われた際、女神の磐座に通う為に造られた天浮橋とも呼ばれる梯子が一晩のうちに倒れ伏し、それが天橋立となったと伝えられています。それが後世においては天橋立伝説として語り継がれるようになった所以です。その天橋立の北岸には丹後一宮、元伊勢籠神社が存在し、古代では吉佐宮(ヨサノミヤ)、昨今では一般的に籠神社と呼ばれています。 籠神社の前身となる奥宮は、真名井神社です。そこでは伊雑宮と同様にダビデの星とも呼ばれる六芒星が神紋となり、奥宮入口の社合標横の石碑に彫られていました。伊弉諾尊の出自がイスラエルだとするならば、元伊勢に関わる神紋が六芒星であることは自然な流れと考えられます。伊勢神宮で祀られている天照大神と豊受大神が、籠神社奥宮の地を訪れ、そこに数年間滞留されたという確実な古記も存在することから、真名井神社は籠神社の神域となっています。更に籠神社の背景には、丹後国の海部宮司家による由緒ある歴史があり、日本最古の系図として国宝に指定された平安初期の海部氏系図には、海部家の始祖、彦火明命からの系図が記載されており、今日まで元伊勢籠神社の宮司である海部家によって大切に保存されてきたのです。 元伊勢籠神社御由緒略記によると、奥宮の御祭神は磐座主座が豊受大神、磐座西座が天照大神と伊弉諾尊、伊弉冉尊、そして後者の磐座は天照大神出生を祀る日之小宮であり、太古の祭場としても知られています。また本宮籠神社では、主神は彦火明命、相殿では海神が天照大神と豊受大神と共に祀られています。つまり籠神社では、伊勢の内外両宮で祀られている天照大神と豊受大神が祀られているだけでなく、国生みの一環として伊弉諾尊もその創設に関わり、海の神とも結びついていたことがわかります。籠神社の神主家は元初から海部直であり、海神を古代から氏族の守護神としてきた海部氏故だけに、海との繋がりが大切に考えられていたことは明白です。

天照大神が最初に巡幸された神社としても知られる籠神社ですが、ご祭神となった天照大神と丹後国の総氏神であった豊受大神が伊勢の伊雑宮、そして伊勢神宮の地に遷られたことから、伊勢神宮の元伊勢として崇敬を集めるようになりました。籠神社が元伊勢の筆頭に位置づけられることは、伊勢神宮古来の社格を象徴する五色座玉が籠神社本殿周囲を廻る高欄上にも飾られているだけでなく、本殿の造りそのものが、伊勢神宮と同等の唯一神明造りとなっていることからも理解することができます。籠神社の本殿は現存例中で、伊勢神宮正殿に最も類似した古式な細部意匠を持っており、他社に見られる神明造本殿の造りとは明らかに一線を画しています。また、「止由気宮儀式帳」(804年)には、豊受大神を「丹波国比治真奈井」から伊勢へ遷したとあり、「倭姫命世記」には天照大神が大和国から吉佐宮に遷幸して四年間鎮座し、その後、真名井原に坐していた豊受大神が伊勢へ遷られたことも記載されています。古くから吉佐宮は籠神社の奥宮として認識され、伊勢神宮と深い繋がりがあったのです。 では、どのようにして伊勢神宮の場所が特定されたのか、これまでに特定された数々の拠点や指標を元に考察してみましょう。当初、伊勢神宮の地を求めた動機は、伊弉諾尊の思い入れの深い志摩の聖地、伊雑宮の近隣に、地の利と拠点の力を最大限に活かした聖地を造営することではなかったかと推測されます。すなわち、淡路島の神籬石だけでなく、富士山や剣山、石鎚山、そして諏訪大社、出雲大社、海神神社など、多くの聖地とも紐づけられる聖地が望まれたのです。しかも、大勢の庶民も含めてだれもが神を参拝できる陸海共にアクセスしやすい場所が求められ、それを可能にする場所は唯一、本州の紀伊半島の東、伊勢志摩周辺だったのです。

まず、指標の原点は淡路島であり、多くの聖地と最大限の紐づきを求めるならば、神籬石、もしくは伊弉諾神宮と同緯度上に候補地を見出すことが不可欠でした。神籬石は、南は沖縄の那覇、西は対馬、日本海側は出雲大社と籠神社、そして北は諏訪大社とその先の八戸までも紐づけられ、全列島の聖地の中心に位置するからです。その神籬石を奥宮とする伊弉諾神宮の西の端には海神神社が、そして夏至の日の出方向には諏訪大社が聖地として存在し、この二つの神社を結ぶ線上には天橋立と籠神社があります。つまり対馬の海神神社と淡路島の伊弉諾神宮を結ぶ同緯度の線は海神神社を共通点として元伊勢籠神社とも繋がり、その緯度線は伊雑宮の北側をおよそ10キロ離れた地点を通り抜けたのです。しかもその緯度線は背後に神籬石の存在もあることから、列島内のほぼ、全ての聖地が紐づけられることを意味し、極めて重要な考察点であったのです。こうして伊勢神宮の地は、伊弉諾神宮と同緯度の線上で、しかも富士山の頂上を夏至の日の出の位置とする地点を特定することにより、列島の地の力を最大限吸収するべく目論まれたのです。

伊勢神宮が淡路島の神籬石と共に、日本列島において見出された諸々の聖地、拠点と紐づく重要な位置づけを占めていることは、地図を検証すれば一目でわかります。伊勢神宮は富士山をはじめとし、伊弉諾神宮を介して剣山、石鎚山、六甲山や諏訪大社の守屋山にも結び付きます。そして海神神社、和多都美神社、宇佐神宮、諏訪大社や鹿島神宮など、多くの聖地とも紐づけられ、元伊勢である籠神社とも結び付けられたのです。富士山頂から登る夏至の日の出を拝する地の利に恵まれ、国家の特別な聖地として位置づけられた伊勢神宮は日本列島屈指の聖なる宮として、いつの日も国民の篤い信望を集めることになります。

六甲山の不思議に迫る

六甲連山の東端 北山公園内の巨石群
六甲連山の東端 北山公園内の巨石群
四国の剣山と伊弉諾神宮を結ぶ線上には、神戸の北方に六甲山が存在することも、注目に値します。全長30キロメートルにもわたる六甲山地と呼ばれる大小の山を含む連山の最高峰が、標高931メートルの六甲山です。六甲山地の西部には播磨平野、東には大阪平野が広がることから、さほどの標高ではないものの、淡路島から見ると六甲山最高峰は際立つ存在です。六甲山地には多くの巨石が存在し、特に南側の山麓には花崗岩が広く見出され、豊臣秀吉の時代、大阪城の城壁を建造する為に大量の岩が伐られました。そして江戸時代に至っては徳川家により、石垣の造成工事がある度に更に多くの矢が打たれ、岩が伐り出されたのです。また連峰の東端、甲山頂上周辺は戦時中、爆撃の練習に利用されたこともあり、自然の岩石が広範囲に崩壊し、その頂上は、ほぼ平らになってしまいました。よって、今日目にすることのできる六甲山連峰は、古代の面影とは異なる個所が多いかもしれません。

再度山にて空海が彫ったとされる亀 奥の院大師堂
再度山にて空海が彫ったとされる亀
この六甲山周辺の山麓こそ古くから聖域として認識され、多くの修行者が山々を訪れ、そこで修行の日々を過ごしていたのです。そこには祭祀活動の拠点となった巨石や岩場が存在しただけでなく、多くの寺院も建立されました。大化2年(646年)、孝徳天皇の時代には忉利天上寺が法道仙人により開創され、その後も平安時代に続いて多くの寺院が開かれました。六甲山の西方では和気清麻呂が再度山に大龍寺を建て、その裏山、奥の院の磐座にて、空海が岩場の頂点に見事な亀の石造を彫刻したことでも知られています。また六甲山東側、甲山麓でも神呪寺や鷲林寺などの寺院が創立し、山全体がいつしか霊場となったのです。これらの多くは空海が創設に絡み、大半が真言宗系の寺院であることからしても、空海の六甲山に対する思い入れがわかります。

しかしながら、険しい山岳地帯でもなく、さほど標高も高くない六甲山地がなぜ修行の場として、聖地化されたのでしょうか。その答えは、古代の地勢観から見出すことができます。六甲山最高峰は、剣山と伊弉諾神宮を並べた線上にピタリと位置するだけでなく、伊勢神宮の奥の宮と言われる伊雑宮と出雲大社を結ぶ線、更には石鎚山と諏訪大社を結ぶ線が交差する地点でもあったのです。古代から六甲山麓が聖地化され、その最高峰周辺に多数の岩場が見出され、磐座として祭祀活動の対象となった理由は、六甲山の頂点が剣山と石鎚山という二つの西日本最高峰の聖山だけでなく、伊弉諾神宮、諏訪大社、伊雑宮、出雲大社という列島最重要の聖地とも紐づけられる重要なクロスポイントだったからに他なりません。

越木岩大神 周囲約40m・高さ10mの「甑岩」
越木岩大神 周囲約40m・高さ10mの「甑岩」
六甲山地の東方、西宮駅から北北西約2.8キロメートルの場所に、高さ約10メートル・周囲約40メートルの甑岩を中核とした、三群の磐座を祀る越木岩神社があります。それらの磐座は神が慿りつく聖なる場所として古くから崇拝され、「祭神は巨岩にして倚塁、甑のごとし。生土神とする」と、「摂津名所図会」(江戸時代)に記載されています。大神神社の裏山、三輪山中の磐座も、奥津磐座、中津磐座、辺津磐座の三群に分かれており、類似点が多いことから、越木岩神社と大神神社の関連性を指摘する説もあります。そして越木岩神社の北方には、標高200メートル程の北山に、北山巨石群が広がっています。そこには太陽石を中心とした環状列石や、火の用心石、方位石などがあり、それぞれが特定のパターンに従って並べられていると推定されます。これらの巨石の中には古代人が、何らかの目的をもって意図的に移動したものが含まれていると考えられ、これまで天文観測説や、祭祀場説などが提唱されてきました。六甲山地周辺にはその他、天狗岩、三枚岩、弁天岩など、今日でも巨石の観光スポットなっている場所が少なくありません。一連の巨石は、六甲山最高峰の周辺に集中していることから、列島周辺の聖地と紐づけられれていることを意識した磐座を含む巨石群として、古代から信仰の対象としなった可能性があります。

六甲という名称の語源は定かではありません。奈良時代には武庫山ともいわれ、古くから「ムコ」、六兒と呼ばれ、そこに六甲という漢字があてられたのです。なぜ、「ムコ」と呼ばれるようになったかは諸説があります。日本書紀には「務古水門(むこのみなと)」の記載があることから「ムコ」という呼び名との関連性が指摘され、「むこう」に見える山という意味で武庫山と呼ばれるようになったとか、武庫ノ津や武庫ノ浦の山であるからとも言われています。また、ムクノキが多いからという言い伝えもあり、更には神功皇后が武内宿称に命じて打ち取った逆臣6人の首が埋められた山であるから六甲山と呼ばれるようになったという伝承など、見解は様々です。

もしかして、六甲はヘブライ語で「お守り」を意味する「亀」(カメ)という発音に関連付けて漢字があてられたのかもしれません。古くは六芒星と呼ばれるダビデの星の外形は正六角形であり、亀の甲羅形状をしています。そして亀は守護を意味することから、亀の甲羅が六芒星の象徴として捉えられ、「お守り」の意も含めて六甲という漢字があてられ、「ムコ」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。いずれにしても、六甲山の頂上は、出雲大社、伊雑宮、諏訪大社、伊弉諾神宮ら、複数の聖地を結ぶ線が交錯する重要な地点であり、それら聖地に結び付けた守護を想定して、六甲山の山頂周辺には多くの磐座が供えられたと考えられます。

イスラエルの民にとって岩は神聖であり、時と場合によっては神のシンボルともなりました。また旧約聖書の教理によると、岩に刃をあてて削ることは好ましくないことが明文化されています。それ故、六甲山頂に群れている多くの巨大な岩石も、岩の博物館と呼ばれる守屋山や三輪山の磐座と同様に、巨大な自然石が多く用いられています。しかしながら、それらの巨石の中には、明らかに人為的に加工した跡が見られるものも少なくありません。よって一般論としては、自然石がそのまま用いられている場合は磐座として神聖化され、岩そのものが崇められる傾向にあり、岩が人為的に削られて形作られている場合は、岩が目印となる指標として用いられたか、もしくは特殊な目的により、本来とは違う姿に創作された岩の形、そのものが意味を持つように工夫されたと解釈することが妥当でしょう。

六甲山の巨石が守護の役目を果たすための神聖な磐座であるとするならば、その守護の範囲は列島全域に及んだと考えられます。まず、伊弉諾神宮を介して剣山と一直線に結びつく位置にあるということは、それらに繋がる様々な拠点とも相互関係を持つことを意味しました。伊弉諾神宮は剣山、石鎚山、富士山や、ヒラバイ山という古代の聖山に紐づけられているだけでなく、剣山を介して出雲大社や金刀比羅宮、宇佐神宮、海神神社、及び、諏訪大社や周辺の守屋山、阿久遺跡とも地理的に紐づけられるという図式が見えてくるからです。しかも九州最南端の佐多岬と剣山を結ぶ線は伊弉諾神宮を通り抜けるだけでなく、その先には六甲山の山頂がピタリと存在します。これはもはや偶然とは言えません。日本列島を網羅する聖地の位置づけは極めて重要であり、それらを同一線上に結びつけたり、線を交差させることにより、相互間の力を結集する聖地のネットワークがいつしか構築され、列島を守護する象徴として国造りに大きく貢献したとも考えられます。こうして六甲山も、日本列島の中心となる淡路島の聖地を守護する役目を担いながら、今日までその巨石を誇示し続けてきたのです。

剣山と六甲山最高峰、出雲大社と伊雑宮を結ぶ線上に群がる六甲山地周辺の巨石地図
剣山と六甲山最高峰、出雲大社と伊雑宮を結ぶ線上に群がる六甲山地周辺の巨石地図

淡路島から見える邪馬台国とは

これまで、伊弉諾尊ら古代の聖人が、日本列島の山や岬、中心となる神籬石などの指標を用いて、列島内の拠点をどのように見出してきたかを解説してきました。当初、それら拠点の殆どは海沿い近辺に見出されていることから、まずは港の地を定め、その周辺に神を祀る聖地を特定することが急務であったことがわかります。複数の聖地が見出された理由は、列島内に住む民が至る場所において神を礼拝するだけでなく、エルサレム宮殿に準じた聖なる宮を造営するためには、島々の要所をまず聖地化して、神の民の支配下に置く必要があったからです。こうして伊弉諾尊は多くの聖地を見出した後、自身は淡路島の幽宮にて生涯を全うし、神殿の造営に関する使命は後世に託されたのです。

さて、イザヤに先導されて列島に渡来したイスラエルの民は、諸々の神宝を携えて海を渡ってきたと考えられます。神宝こそ神の臨在の証であり、イスラエルの民族が移動する際に携行することは不可欠でした。そのイスラエルの神宝は、国家が前6-8世紀に崩壊してから後、いまだに行方がわからないままであり、歴史の謎とも言われています。ところが、それら神宝が聖櫃を含め、日本列島に持ち込まれている可能性があります。もしそれが事実とするならば、それら神宝は人の手が届きにくい、安全な場所に秘蔵されたに違いありません。未知の島々にて、島の住民からの攻撃を受けることなく、ましてや神宝が盗難されることなど決して無い場所を確保することは容易ではなかったでしょう。しかもその場所は、列島内に見出された諸々の聖地に紐づけられていることが求められたのです。

「東の島々」を訪れる前から、イスラエルの民が預言者イザヤを通じて学んだ目的地のイメージは、高い山にて神の降臨を待つというビジョンでした。神が預言者イザヤに語られたメッセージには、「東の島々」の高き山にて民衆が神を崇め祀ることが強調されていたのです。では、どの山なのでしょうか。最高峰の富士山は遠すぎるだけでなく、標高が高すぎて集落を造成することができません。伊弉諾神宮から北東50kmにある六甲山は逆に標高が低すぎ、周辺近くには平野が広がるため、堅固な社の拠点を造営するには不安が残ります。また、淡路島から東南方向には紀伊の山々が広がるものの、そこには聖地の指標となる山の存在を当時は見出すことができませんでした。残るは南西方向に見える四国の連山です。

淡路島からは四国の山々の頂きを眺めることができ、天候に恵まれた日には西日本第二の高山、剣山の頂上さえも遠くに見ることができます。西日本最高峰の石鎚山は、標高こそ剣山より27メートル高いものの、淡路島からは見ることができず、また、石鎚山は頂上周辺が大変険しく、周辺に集落を造成することが困難です。それに比べ、剣山周辺は淡路島に近いだけでなく、高地性集落を造成しやすいなだらかな地域が、山の周辺に多く見出されたのです。しかしながら山頂へのアクセスは急斜面に阻まれて難しく、剣山の麓周辺に辿りつくだけでも、四国の沿岸からは徒歩で1カ月程の時間を要するほどでした。この極めて困難な陸路が効を奏し、神宝という貴重な宝蔵物を奉納して外敵から守る為には、むしろ最適な場所として考えられたのです。

神宝を携えてきたイスラエルの民は、神の命に従って列島の中心、淡路島から見える一番高い山を目指して進み、その山の麓周辺に集落を造成したのです。その山の名前が剣山です。やがて山上の集落は発展を遂げ、時代の流れとともにそれが邪馬台国の前哨となり、後の巨大集落へと変貌を遂げていくのです。

(文・中島尚彦)

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