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元伊勢と三輪山のレイライン Vol.VIII
最終目的地の伊勢国に連なる御巡幸地の数々

桑名野代宮(野志里神社)のレイライン

美濃国の伊久良河宮、宇波刀神社近郊を基点として始まった船旅は、尾張国の中嶋宮に短期間滞在した後、次の桑名野代宮に向けて、すぐに長良川を下ることになります。皇太神宮儀式帳によると、天照大神は伊久良河宮を旅立たれた直後、伊勢国の桑名野代宮に坐したと伝えられているとおり、伊勢国に向けて徐々に御一行の動きが早まってきたのです。そして倭姫命は遂に、元伊勢の最終段となる伊勢国に到達したのです。

野志里神社の石碑 伊勢神宮御旧跡野代の宮
野志里神社の石碑 伊勢神宮御旧跡野代の宮
伊勢国における最初の御巡幸地は桑名野代宮と呼ばれ、名称のとおり今日の桑名市に位置します。その比定地の筆頭として、長良川沿いに建立された野志里神社、通称「のしろさん」と呼ばれる式内社が挙げられています。延喜式、神名帳には一文字違いで「野志理神社」とも記載され、同一の神社と考えられます。現在の住所は多度町字下野代であり、「野代」という地名が残されてきたことからしても、伝承地としての可能性が高まります。また、「野志里」は一般的に「のしり」と読みますが、古韻による「里」の読みは「ろ」であることから、元来は「のしろ神社」と呼ばれていました。それ故、「のしろさん」という神社の通称も古くから広まったのでしょう。境内の入り口には、「伊勢神宮御旧跡野代の宮」と刻まれた石碑が建てられ、御祭神として天照大神が祀られています。

桑名野代宮のもう一つの比定地として、通称「若宮さん」と呼ばれてきた神館神社も挙げられています。神館神社では天照大神と豊受姫命が主神であり、倭姫命が配祀されています。大神宮本記帰正鈔の記述では神館神社の地が野代宮跡であるとされ、周辺一帯が神戸郷と呼ばれていたことから、伝承地である可能性が残されています。しかしながら、野志里神社には偶然とは言えないレイライン上の繋がりが複数存在し、他の御巡幸地と同類の聖地や地の指標が連なることから、桑名野代宮の比定地は野志里神社である可能性が極めて高いと考えられます。

野志里神社 境内入り口
野志里神社 境内入り口
野志里神社のレイラインは5本で構成されています。まず、四国の室戸岬と三輪山を結ぶ線が浮かび上がってきます。三輪山は元伊勢御巡幸の原点であり、そのレイラインが重要なことは言うまでもありません。その聖山と、レイラインの指標として頻繁に用いられてきた室戸岬を結ぶ線上に、野志里神社が存在します。古代の民は、よりわかりやすい場所に元伊勢を特定すべく、岬や聖山を指標として御巡幸地の場所を定めたのではないでしょうか。
  次に、虚空蔵山にも再度注目してみました。前述したとおり、虚空蔵山の背景には元伊勢の御巡幸において、その船旅を後押しした船木氏の存在があります。その結果、静岡の虚空蔵山が特定されただけでなく、西方では四国高知にも虚空蔵山が定められたのです。その虚空蔵山と剣山を結ぶと、同一線上に野志里神社が存在することがわかります。それは野志里神社が虚空蔵山と剣山に紐付けられて見出されたことを意味します。剣山は他の御巡幸地のレイラインでも共通の指標として用いられていることから、元伊勢の目的が剣山と何かしら深く絡んでいる可能性をレイラインの考察より知ることができます

野志里神社の本殿
野志里神社の本殿
3本目のレイラインは富士山と沖ノ島を指標として用いたものであり、2点を結ぶ線上に野志里神社が存在します。古代では、富士山頂の指標が今日の富士山火口の南側にあたる宝永山に近い位置にあることから、レイラインを検証する際には指標となる基点の位置に注意が必要です。4本目は、紀伊半島の最南端、紀伊大島と熊野速玉大社を結ぶレイラインであり、この線上にも野志里神社が存在します。
  5本目のレイラインは野志里神社と熱田神宮を結ぶ線であり、この2社はほぼ、同緯度に存在します。熱田神宮では元来、倭姫命が日本武尊に授けた草薙剣が祀られていました。元伊勢御巡幸直後の景行天皇の時代、日本武尊が亡くなられた際に、尊のお妃である宮簀媛が草薙剣を熱田神宮にて祀ったことがその起源です。熱田神宮は、野志里神社よりも後の時代に建立されていることから、むしろ野志里神社が指標となって熱田神宮の場所が特定された可能性も見えてきます。いずれにしても倭姫命と必然的に深い関係にある熱田神宮は、野志里神社と紐付けられていたと考えられます。

桑名野代宮のレイライン
桑名野代宮のレイライン

奈其波志忍山宮(布気皇館太神社)のレイライン

伊勢国の桑名野代宮に4年滞在した後、倭姫命の御一行は船で伊勢湾を南下し、鈴鹿国の奈其波志忍山宮へと向かいました。皇太神宮儀式帳には「河曲鈴鹿小山宮」、倭姫命世記には「鈴鹿国奈其波志忍山」とも記載されており、その場所は伊勢湾岸から20kmほど内陸に入った今日の亀山市布気町の鈴鹿川沿いに比定されています。古代では海岸線が現在よりも入り組んでいた可能性もあり、そこは鈴鹿川北岸の河岸でもあることから、御一行は奈其波志忍山宮まで船で到達したことでしょう。「河曲」と言う古代の名称からは大きく曲がる川が想定され、今日でも鈴鹿川は亀山市を基点に大きくうねっていることから、その川沿いに奈其波志忍山宮が建立されたのです。

布気皇館太神社の参道
布気皇館太神社の参道
奈其波志忍山宮の比定地としては、布気皇館太神社と忍山神社が挙げられています。この2社は距離がさほど離れていないことから、布気町の忍山近郊に奈其波志忍山宮が存在したに違いありません。布気神社としても知られる布気皇館太神社は、ひっそりとした雰囲気の杉林に囲まれ、150mほどある長い参道の奥に大きな境内があります。神社誌によると、その本社が災害に遭遇した後、野尻村の皇館の森に遷幸されたと伝えられ、それ故、皇館神明とも呼ばれたのです。豊受皇太神御鎮座本紀伊には「伊勢国鈴鹿の神戸に御一宿」という記載があり、皇館という名称から、その外宮遷座に関わっていた可能性が考えられます。

布気皇館太神社 本殿
布気皇館太神社 本殿
布気皇館太神社の祭神は天照大御神、豊受大神、伊吹戸主神の三神です。伊吹戸主神は祓戸四神の一神として延喜式にも記載され、元伊勢御巡幸における大切な指標の一つとなった伊吹山との繋がりが思い起こされます。布気神社の「ふけ」という名称自体、伊吹の「ぶけ」「ぶき」に由来すると考えられ、元伊勢との関連性が推測されます。

もう一つの伝承地が、布気皇館太神社から東方へ0.8kmほど離れた小高い丘の上に佇む忍山神社です。日本武尊の妃の一人である弟橘媛(おとたちばなひめ)は、忍山神社祀官忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘と伝えられています。由緒によると、皇大神の行宮である忍山神宮の旧跡が忍山神社です。式内社 忍山神社の境内
式内社 忍山神社の境内
祭神は猿田比古命と天照皇大神と伝えられ、そこに倭姫命が合祀されています。また、本殿に祀られている御神像は猿田彦命です。式内社調査報告によれば、「布気神社は現忍山神社である公算が強い」とされ、布気皇館太神社を論社とする説もあります。
  忍山神社と布気皇館太神社は、その地名や由緒、合祀の背景からして、深い歴史的な関わりがあったと推測され、なおかつ近距離にあることから、ここでは奈其波志忍山宮のレイラインを検証する際に、その比定地候補である2社を総じて「布気神社」と称することにします。
  布気神社のレイラインは5本の重要な線により構成されています。まず、古代聖地の中心ともいえる淡路島にて、伊耶那岐命が葬られた伊弉諾神宮と、海人豪族の拠点であった香川の金刀比羅宮を結ぶレイラインが布気神社を通り、富士山頂北側にまで達していることに注目です。3社がぴたりと同一線上に並び、富士山に紐付けられていることから、布気神社がこれら古代聖地を指標として見出されたことがわかります。

そのレイラインに交差する線として、中甑島のヒラバイ山と高知の虚空蔵山、そして三輪山近郊の二上山を結ぶレイラインが存在します。ヒラバイ山はイスラエルからの渡来者にとって極めて重要な古代の指標であり、ヘブライが訛った名称と考えられます。虚空蔵山は元伊勢の時代、海人豪族の活躍によって全国各地に見出された海岸近くの山々の一つであり、元伊勢の坂田宮も高知の虚空蔵山を指標として伊吹山と同一線上に結び付いています。同様に布気神社も、ヒラバイ山、虚空蔵山、二上山、という三山を結ぶ一直線上に存在します。このレイラインは四国剣山頂から2kmほど南に向かった地点を通り抜けていることから、これらの山々が布気神社と共に一直線上に並んでいることは、単なる偶然ではないようです。

また、他の元伊勢でも度々、レイラインの指標として名前が挙げられる守屋山と室戸岬を結ぶと、その線も布気神社を通り抜けています。遠くからでも一目でわかるような大きな岬を指標として用いることにより、元伊勢の地を容易に探すことができるようにしたのではないでしょうか。更には伊雑宮と布気神社を結ぶと、日本海側においては三方五湖の日本海沿岸にあたります。この線も、レイラインの一つと考えられます。
  最後に布気神社と伊吹山との繋がりから浮かび上がってくる御在所岳の存在を考えてみましょう。伊吹山は前述したとおり、複数の元伊勢と静岡の虚空蔵山に繋がっているだけでなく、高知の虚空蔵山ともレイライン上にて結び付いています。その伊吹山と布気神社を結ぶ線上の中間には、標高1,212mの御在所岳が存在します。御在所岳の山頂からは琵琶湖や伊勢湾、鈴鹿峠、伊吹山が一望できるだけでなく、遠くに富士山も眺めることができます。よって地域の指標として、古代から極めて重要な位置を占めていました。御在所岳の頂上付近に散見される巨大な奇石の中には、人の手が加えられて形造られたものが多々存在し、地蔵岩、ゆるぎ岩、おばれ岩と呼ばれる奇石は、その一例と考えられます。古代の民が何らかの意図をもって巨石を伐りながら、奇石を造り上げたのではないでしょうか。これらの奇石は六甲山のものとも類似点が多く見出されます。後述するとおり、元伊勢の時代に台頭した御在所岳の存在は、神島と琵琶湖沿岸の大宝寺山、そして六甲山ともレイライン上で紐付けられ、元伊勢御巡幸の結末に重要な影響を及ぼすことになります。

奈其波志忍山宮のレイライン
奈其波志忍山宮のレイライン

藤方片樋宮(加良比乃神社)のレイライン

倭姫命世記によると、桑名野代宮(野志里神社)での滞在は垂仁14年より始まり、4年という月日が費やされています。そして垂仁18年には阿佐加乃藤方片樋宮へと遷られていることから、その途中に立ち寄られた奈其波志忍山宮(布気皇館太神社・忍山神社)での滞在期間は、数か月にも満たなかったと想定されます。倭姫命の御一行は、その奈其波志忍山宮を短期間のうちに立ち去り、引き続き船で川を下り、伊勢湾沿いを南へと移動したのです。鈴鹿川は北東方向に流れているため、今日の中ノ川や田中川、もしくはその南に流れる志登茂川を船で下ったのではないでしょうか。

片樋宮の石碑が立つ加良比乃神社
片樋宮の石碑が立つ加良比乃神社
阿佐加乃藤方片樋宮の場所は、三重県津市の藤方、かつての伊勢国一志郡阿坂に存在したと考えられています。その比定地の筆頭が加良比乃神社であり、「片樋」に「加良比乃」の文字が当てられ、加良比乃宮と呼ばれるようになったようです。今日、加良比乃神社は団地裏の住宅街の奥まった静かな場所にあります。海岸線からは1km少々離れており、古代では海に面し、西側の陸地も湿地帯で囲まれていたような細い陸地が連なる一角であったと推測され、そこに神社が建立されたのです。加良比乃神社 本殿
加良比乃神社 本殿
縁起書によれば、その片側の地形が辺鄙であったことから泉の水を引いてくる必要があり、それ故、片樋と呼ばれるようになったと伝承されています。儀式帳には御巡幸地が壱志郡片樋宮と記され、大神宮諸雑事記には藤方宮とも記されています。

緑が美しい阿射加神社の参道
緑が美しい阿射加神社の参道
もう一つの阿佐加乃藤方片樋宮の比定地候補として、松坂市駅から北西方向6kmほどの山麓にある、緑に囲まれた美しい境内を誇る阿射加神社が挙げられています。そこには猿田彦命と伊豆速布留神が祀られています。伊勢湾岸に近い加良比乃神社とは相対して、阿射加神社は鈴鹿山脈と紀伊山脈が繋がる山の裾野に建立され、周囲には今日、川らしい川が見当たらないことから、船で到達することができない場所です。その理由が倭姫命世記に記載されています。
  そこには阿佐加乃藤方片樋宮に関する記述がこれまでの御巡幸地中で最も長く、元伊勢の目的地が五十鈴川上の宮であり、「倭姫命をして五十鈴宮に入れ奉らしめよ」という天皇の詔も明記されています。また倭姫命御一行が旅をしている途中、阿佐加の山にて荒振神が出現し、交通を妨害するだけでなく、旅人の半数を殺しているという事態に遭遇したことも書かれています。そのため、倭姫命は五十鈴川上の宮に向かうことを一時断念し、自然に囲まれた阿射加神社の境内
自然に囲まれた阿射加神社の境内
藤方片樋宮にて4年間滞在することになりました。阿佐加の山周辺は元来、天日別命(度会氏祖神、天御中主尊12世孫)により平定された地であることから、天皇は詔をもって、その荒振神を阿佐加の山にて祀り鎮めることを命じ、その後、平和が訪れたというのが話の流れです。その阿佐加の山に建立された神社が阿射加神社であったと考えられます。御巡幸の目的の一つは国の平定であることから、旅の途中で内陸方面にて殺戮が行われている事態に直面した倭姫命は、阿射加神社の建立をもって暴徒を従えたのです。

阿佐加の山に建てられた神社は阿佐加乃藤方片樋宮とは異なることから、加良比乃神社が阿佐加乃藤方片樋宮の比定地と考えて間違いないでしょう。その加良比乃神社も、4本の重要なレイラインが交差する場所に建立されており、古代の民が重要視した聖地であることがわかります。まず、剣山と鹿島神宮を結ぶ線に注目してみましょう。その線上に加良比乃神社の場所が見出されただけでなく、そのレイラインは富士山頂の北側を通り抜けています。加良比乃神社が他の御巡幸地の多くと同様に、剣を祀る鹿島神宮と、神宝と深く関わりを持つ剣山とに紐付けられていることを、このレイラインは象徴しています。

加良比乃神社と淡路島の伊弉諾神宮を結ぶ線も、驚異的な精度を示しています。そのレイラインは石上神宮の真上を通り抜けているのです。この2社も神宝剣と深く関わりを持っていることから、この2本のレイラインをもって、加良比乃神社が四国の霊山ある剣山だけでなく、鹿島神宮、石上神宮、そして伊弉諾神宮とも結び付けられていたことがわかります。
  3本目のレイラインは石鎚山と与喜天満神社に隣接する長谷山口坐神社を結ぶものであり、この線が加良比乃神社を通り抜けています。長谷山口坐神社は伊豆加志本宮の比定地として挙げられている一社であり、初瀬川沿いに建立された著名な式内社です。祭神は元来、大山祗神でしたが、倭姫命の御巡幸を機に天照大神と深い縁を持つ手力雄神も祀られるようになりました。西日本最高峰と伊豆加志本宮の由緒を持つ長谷山口坐神社が加良比乃神社と一直線上に並ぶことの背景には、これら祭神の相互関係が秘められているように思えます。

最後に神倉山と紀伊大島を結ぶ線もレイライン候補の一つとして挙げておきましょう。紀伊大島は紀伊半島の最南端に位置するだけに、特にその島の東部はレイラインの指標として、古代では頻繁に用いられていました。新宮はもとより、熊野からも船で沖へ10kmほど船出するだけで、紀伊大島の東端を遠くに眺めることができたのです。その紀伊大島と神倉山を結ぶと、加良比乃神社を通り抜けています。これらのレイラインを振り返ることにより、加良比乃神社の御巡幸地がいかにして見出されたか、その見識を理解することができるだけでなく、古代社会における識者のこだわりと労苦を察するに余りあります。

藤方片樋宮のレイライン
藤方片樋宮のレイライン

飯野高宮(神山神社)のレイライン

倭姫命の御一行は、天皇の詔に従って阿射加神社を建立した後、阿佐加乃藤方片樋宮と呼ばれた加良比乃神社を出発し、船に乗って伊勢湾沿いを南下しました。そして櫛田川の河口に達した後、そこから川を上り、飯野高宮へと向かったのです。倭姫命世記の飯野高宮の項には、船に乗った際に魚が自然に集まり出でて、それを見た倭姫命が、たいそう喜ばれたことが記録されています。そして10kmほど、櫛田川沿いを南方向に進むと標高100m少々の小高い神山(こうやま)が見えてきます。その山麓と川の間に飯野高宮は造営されたのです。

神山神社 参道入り口
神山神社 参道入り口
飯野高宮の比定地は、松坂市山添町神山に建立された神山神社であるというのが定説です。境内の中間をJR紀勢線が横切り、多少の違和感を覚えますが、背後に神山を控えるだけに、石段を上りつめた後に広がる境内は美しく、その奥には神明造りの社殿が建てられています。祭神は猿田彦命、天鈿女命(あめのうずめ)であり、由緒によればこれら祭神の子孫により、倭姫命は天照大神を遷す目的地へと案内されることになります。
  倭姫命世記には「遂に五十鈴宮に向かうことを得たまへり」と書かれているとおり、飯野高宮へ遷座したことを機に、最終目的地である五十鈴宮の場所を定める準備が一気に進むことになります。そして飯野高宮に4年滞在した後、6か所の元伊勢を短期間に渡り巡り、五十鈴宮の皇大神宮に到達することになります。
  神山神社も複数のレイラインが交差する地点に見出されています。まず、直前の御巡幸地として滞在した布気神社(忍山神社・奈其波志忍山宮)と加良比乃神社(藤方片樋宮)を直線で結び、南方に伸ばします。次に、三輪山の麓に建立され、御室嶺上宮の比定地としても知られる大神神社と同緯度の線を引きます。神山神社の本殿
神山神社の本殿
この2本の線が交差する地点に神山神社が存在します。また、元伊勢のひとつである奈久佐浜宮として知られ、日前神宮の元摂社であり、豊鋤入姫御巡幸の際には神宝が祀られた濱宮(濱宮神社)と剣山を結ぶと、その線も神山神社を通りぬけています。さらに香川の金刀比羅宮と、古代から山岳信仰の聖地として名高い金剛山の頂上を結ぶレイラインも、神山神社の境内を通り抜けているのです。これらのレイラインは決して偶然ではなく、意図的に結ばれた指標同士の繋がりであることがわかります。

飯野高宮のレイライン
飯野高宮のレイライン

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部