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不正入試問題を再検討!
世界に発信できる教育機関となる入学合否制度とは

医学部の不正入試が世間の話題となってから久しいです。矢継ぎ早に暴かれていく不正行為の発覚に各種メディアが素早く反応し、世間から一斉に非難の声があがるようになりました。東京医科大の問題では、特に女性に十分な機会が与えられていないことから、日本医学会連合が「教育の機会均等と公正性を著しく損ねる行為で、容認できない」と声明文を発表しています。直後、柴山文科相も不正入試問題について言及し、「信頼、一刻も早く取り戻す」ために、「女性医師の働き方についても検討」することを表明しました。

ところがその後、同様の不正入試を行い女子や浪人生に不利な判定をしていた大学が複数存在することが判明したのです。その結果、女子受験生を支援する弁護団は、成績表示の開示を求める請求を起こし、追加の合否判定や補償の提示がなければ損害賠償の請求も辞さないという強硬なスタンスを公表し、問題が拡散していきました。これら一連の流れを踏まえ、大学医学部の一般入試では、性別や浪人生であることが、合否判定に影響をもたらすことが全面的に禁止されることとなりました。また、親が医学部卒業生の子供の入学枠については容認されましたが、この特別枠についても今後、議論が続くようです。

しかしながら、疑問はつきません。大学は独自の指針や医師の分布、市況などを見定めたうえで、自らが欲する学生の基準を判断して決める権利はないのでしょうか?学部の状況や医療の実態を見定めながら、男女の割合に限らず、編入や留学生の分など独自に決めることが許されないのでしょうか。一発限りの入学試験という非常に狭い判断基準だけで、合否のすべてを決めなければならない根拠がどこにあるのでしょうか。受験生を選別する際に何が大切か、という価値観を決める権利が学校に委ねられているからこそ、それぞれの学校が独自のキャラクターを持ち、そこから世界へとその大学特有の情報を発信できるのではないでしょうか。

アメリカでは以前から複雑な社会的要因を踏まえ、大学入学に関する様々な是正措置が取られてきました。その一例が、カリフォルニア州立大学で実施されたAffirmative Actionと呼ばれる人種格差是正措置です。州内には多くのアフリカ系やヒスパニック系アメリカ人が在住していますが、受験生の平均的学力は白人と比較すると劣るため、学校の成績や試験の数値だけに依存してしまうと、どうしても進学率が低くなってしまうことが問題視されたのです。特に著名な大学になればなるほど、白人の比率が高くなる傾向が顕著にみられたことから、行政が主導するAffirmative Actionという条例に基づき、人種別に一定枠を定め、できるだけ人口の割合にそって合格者を出すことが試みられました。そして中長期的な視野に立ち、様々な社会的問題や歪みを回避することが目論まれたのです。入学審査では点数操作により、黒人には最も大きく、次にヒスパニック系に多く加点され、逆に勤勉なアジア系の学生人口は急速に増え続けていたことから減点することさえありました。こうして1990年代、カリフォルニア州立大学ではバークレー校を筆頭にアフリカ系の学生が急増し、全校の20%を超えるまで至りました。その後、1998年、カリフォルニア州はAffirmative Actionを中止し、再びアフリカ系アメリカ人の入学者は激減します。賛否両論が飛び交う中、いずれにしても様々な社会的見地や大学が目指す全学生の人種や男女分布などの基準により、米国の大学が独自の判断により、受験者の門戸を意図的に狭めたり広くしたりすることは、日常行われていることです。

遠い昔の昭和の時代、子供がエリート街道を歩むには、東京の千代田区、番町小学校から麹町中学、日比谷高校と進学し、東大に入学することが望ましいと巷で囁かれた時代がありました。その影響を受けた両親の熱意もあり、昭和30年代に生まれた筆者は、小学校から越境入学し、千代田区の自民党本部真正面にある、今はなき区立永田町小学校に入学しました。そもそも永田町界隈には住民人口が少なかったことから、級友の大半も越境入学をしていたのです。当時から中学校から高校、大学に至るまで、3段階に至る受験地獄とも呼ばれる熱狂ぶりはすさまじく、長期間にわたる受験の繰り返しは多くのエリートを生み出すと同時に、勉強のプレッシャーに耐えられず、精神的な病を抱えてしまう若者を大勢生み出してしまう原因ともなりました。

しかしながら、希望する大学に合格することが最も大事なことと誰もが考えるような時代であったことから、若者の心のケアは当然ながら後手に回ってしまったのです。そしていつしか勉強さえできれば良いという風潮も漂いはじめ、ガリ勉タイプは仲間外れにされたり、多くのいじめ問題や若者の自殺志向がはびこる温床ともなりました。こうした受験至上主義によるいびつな社会現象が問題化した結果、「ゆとり教育」なるコンセプトが台頭し、子供たちをもっとのびのびと、心豊かな人となるよう、教育の現場を改革していくことになったのです。

当時、まず議論の的となったのは、一発の受験のみで若者の進路を決定するという狭き門の改革です。学生の合否をたった1回の試験で決めてしまうことはいかがなものか、と様々な議論が交わされ、海外のようにあくまで試験結果は参考資料のひとつにとどめ、面接や成績、課外活動の内容、特別な実績などを総合的に評価して決めるべきではないかという意見も含め、見直し論が強まったものです。海外でも特に欧米では当たり前のことですが、諸学校はそれぞれ独自の判断基準で入学の合否を決めています。例えばアメリカの大学では、SATやACTなどの全国共通の大学進学適正試験をベースに、留学生や人種の比率だけでなく、卒業生の親を持つ学生や、兄弟姉妹が同校に通っている事例などをも参考に、総合的な判断で合否を決めています。また、それら判断基準は公表されることもありません。

アメリカでは特にリーダーシップが重要視されるカルチャー的な風潮があることから、大学受験においては高校時代、いかにリーダーシップが活かされていたかが問われることも多く、学級委員、スポーツチームのキャプテン、サークルのリーダー、各種団体のトップリーダーが優遇されるのは周知の事実となっています。ガリ勉タイプで試験の結果は100点の受験生と、98点でもリーダーシップがあり、明朗に話ができ、思いやりのある性格の受験生のどちらを選ぶかといえば、後者を選ぶのが当たり前、というのがアメリカの共通認識です。医学部の受験においても、同様のルールが該当してしかるべきではないでしょうか。

本題に戻りましょう。昨今のメディアニュースは、問題の根底がすり替わってしまい、学校側をバッシングすることに徹してしまっていることが、そもそも誤解の種を生んでいるようです。日本の大学も独自の基準で、自らが欲する学生を選別する権利、権限があるはずです。例え国から経済的な支援を受けていたとしても、大学も個性、キャラクターを持っており、それぞれの大学が求める全学生像に準じて、望む人材を自由に選別する権利があってしかるべきです。よって、試験の結果だけでなく、総合的な判断をもって入学の合否が定められることが当初から明示されていれば、少なくともここまで問題が拡散することはなかったはずです。あたかも試験の結果だけによって合否が決まるような受験体制を装っておきながら、実は裏方で操作が行われ、割り振りが実施されていたことが、問題の核心なのです。

この度の不正入試問題の結果、歴史の振り子は逆にふれて、いつしか昭和の時代に舞い戻っていくように思えて仕方ありません。つまり試験結果のみを絶対視するあまり、たった1回の点数のみにすべてを委ねるという過去の悪習に舞い戻っているのです。総合的な判断ができないわけではないにも関わらず、その是非さえ公に議論されることもなく、全面的に試験の点数にのみ依存するという古い体質にUターンしてしまったかのようです。受験生を総合的に判断し、学生の全人格を適正に見極めながら、将来性が最も優れていると思われる医者の卵を発掘していくためにも、試験結果だけに100%頼ることだけは、回避しなければなりません。

しかしながら、学校側がそれら合否の基準をすべて明示することは、様々な要素や主観が多々含まれることから社会的には困難なことでしょう。よって、「大学の成績」や「試験結果」をベースに「総合的判断」をするというような大学側の大まかなスタンスが公表される程度にとどまるかもしれません。それでも大学側の判断は、いずれ結果として男女の分布を含む全学生人口の実態から明るみにでることとなり、最終的には在学生による国家試験の合格率からも評価を受けることになります。それらの実績から大学の定評は定まり、それが受験者の指針、モーチベーションとなることでしょう。受験生が前向きにチャレンジできるため、大学側は独自のスタンスがあるならば、できる限り公表に努めるべきです。それらのデータを収集したうえで、どの大学を受験するべきかという判断をして、高いハードルに向けてチャレンジする勇気が湧いてくるのではないでしょうか。

医学部に入学を希望する学生は、みな、基本的に優秀です。その中から日本社会にて大勢の人々の命を救う未来の医者となる学生を探す訳ですから、それには様々な独自の基準があっても良いはずです。例えば、多くの女医が全国各地で活躍する男女共生社会を作りあげていくための評価方法など、更なる検討の余地が残されているのではないでしょうか。大学の医学部も含め、各種教育機関が世界から取り残されないため、そしてより優秀な学生を受け入れて教育するためにも、1回限りの試験結果だけに頼らない、幅広い評価体制を作りあげていく必要に迫られています。日本社会において、優秀な若者たちが医学部の受験という高いハードルにチャレンジすることを苦にせず、希望する大学に入学することを夢見て勉学に励むことができるような受験制度が、日本においても普及されることを望んでやみません。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部