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奇跡の再会が2度!?
ありえないことが起きる不思議な人生に乾杯!

日本シティージャーナル11月号(2019年)にて、成田POPランの10㎞走にて優勝した体験談を記載しました。そもそも走るのが嫌いで、長年、ランニングなどしなかった自分が走るようになったきっかけは、遠い昔の知人と、信じられない時、信じられない場所で再会するという、奇跡的な出会いがあったからに他なりません。

寿司屋のカウンターに座っている隣人は誰?

平成10年の初夏、筆者は成田市の下総松崎駅近くにある古屋の天然温泉施設を取り壊し、新築の日帰り温泉施設を建築する工事に携わっていました。本職の仕事は別にあったものの、ふとしたきっかけで成田老人クラブの依頼を受けて、新しく天然温泉を建築することになったのです。東京生まれ、東京育ちの自分にとって、元々成田には縁もゆかりもなく、ましてや栄町の存在さえ、その数年前までは知りませんでした。そんな、よそ者の自分が結婚を機に成田に移住し、引っ越し当初は下総松崎に住んでいたことから、その近くにある天然温泉施設の再建に携わることになり、話はあっという間に進んだのです。

成田温泉から再生した大和の湯
成田温泉から再生した大和の湯
温泉のグランド・オープンまであと3か月少々となった頃、日夜、突貫工事の打ち合わせに追われる毎日を過ごしていました。週7日、休みなく続く激務、そんな初夏のある日、その工事現場から栄町方面に向かう県道沿いにある柳寿司に、当時幼稚園に通っていた2人の子供を連れて、仕事帰りにお寿司を食べに行くことになりました。工事現場のすぐそばで、時折口にすることのできる寿司は、当時の自分にとって、最高の贅沢でした。しかも栄町でも定評のある柳寿司は本当に美味しく、毎度、行くことが楽しみだったのです。

その頃の柳寿司は、街道沿いの小さなお寿司屋さんでした。ガラガラ!と扉を開けて中に入ると、いつもどおり元気いっぱいのマスターがおられ、8席ほどあったカウンターには2人だけお客様が座っていました。おそらく夫婦なのでしょうか、一緒に寿司をつまんで楽しそうに話をしていました。既に夜の8時半を過ぎていたこともあり、カウンター手前にあった2畳ほどの小上りに子供たちを座らせて食べさせようと思ったのですが、2人ともバタンキュー、といっきに畳の上で眠りこけてしまったのです。ちょっと時間が遅すぎたな、「ごめんなさい!」と心に思いつつも、眠ってしまった子供達を起こす訳にもいかず、一人カウンターに座って、寿司を食べることにしました。

子供達の寝顔を見ながら、美味しいお寿司を頂いていると、日々の疲れがちょっとだけ癒されるような気がします。仕事のことを考えながら一人、静かに寿司を食べるのも、これまたおつなものです。隣に座っている夫婦はとにかく仲がよさそうであり、うらやましくも思えてきます。そろそろお腹がいっぱいになりかけてきた時、ふと、カウンターに座っている男性の横顔をちらっと見ると、「どこかで見たことあるような?」と不思議な感覚にかられたのを、今でもはっきりと覚えています。

その時から自問自答が始まりました。「どこかで会ったことがある?」「誰だ、この人は!」ぐたぐたと考えても埒が明きません。そこで思い切って声をかけ、聞いてみることにしました。「お話し中、すいません、どこかでお会いしたことありませんか?」見知らぬ人(?)に対し、何という唐突な質問でしょうか!それでも、いてもたってもいられなくなり、ついに均衡を破って聞いてしまったのです。ところが思いのほか、反応は期待したほどではありませんでした。「え?そうですか?」程度の返事だけです。しかし、一言、二言、会話を交わしただけで、ますます「絶対に会ったことがある!」という思いが強くなってきました。

そこでちょっと申し訳なかったですが、立て続けに、「確かに会ったことあるような気がするのですが。。。」と語り続けるも、相手からは「そうですか。。。?」という返事だけです。そこで思い切って自らの人生の旅路を振り返り、片っ端から出会いの接点となる可能性がある場所について話をしてみることにしました。「僕は東京の渋谷に住んでいたのですが、東京でお会いしてませんか?」「音楽関係の仕事しているのですが、音楽関係のお仕事では?」そして「アメリカのカリフォルニアにしばらく住んでいたのですが。。。」とまで切り出したのですが、いまいちピンとくる様子もなく、ほどほどに関心をもって聞いてもらっている程度にしか見えませんでした。それでも諦めることなく、自分がアメリカに行った理由にまで踏み込み、「僕はテニスをしに、アメリカに行ったのですが。。。。」と語った瞬間、突如、青天の霹靂のごとく真相があらわになったのです。

「テニス?!」「僕は今、テニスクラブを経営しているのだけど。。。」と、男性が話始めたのです。それで分かったことは、何と、隣に座っていた方は、26年前、筆者がアメリカにテニス留学する前の中学3年生の時、ウィンブルドンで勝ち進んだ著名なテニスプレーヤー、故石黒修氏の弟子として、自分をトレーニングしてくださった元全日本の樺沢プロだったのです。中学生時代に東京で一緒にテニスの練習をしてくださった当時20代の樺沢選手が、それから四半世紀経った後、アメリカ帰りの自分が向かった縁もゆかりもない印旛沼そばの小さなお寿司屋さんのカウンターに偶然、座っていたのです!しかも自分の真横であり、他にお客様はいません!こんな劇的な再会、出会いはあるでしょうか?26年という時を経て樺沢プロの頭は白髪になり、自分も子持ちの仕事人に化け、それぞれ心身ともに様変わりしたことから、お互いがすぐには気付くことができなかったのです!

公津の杜テニススクール時代の樺沢プロ
公津の杜テニススクール時代の樺沢プロ
当時、樺沢プロは成田市の公津の杜、駅前に京成電鉄より土地を借り、そこでテニスクラブを経営していました。そして日夜、テニスクラブでレッスンを受けに来る多くのテニスプレーヤーを教えながら、日々、テニスライフに明け暮れていたようです。その先輩プレーヤーと、東京から遥か離れた印旛沼沿いの小さな寿司屋で26年ぶりに再会した訳ですから、再びラケットを手にしないわけにはいきません。かれこれ20年近くテニスからは遠ざかっていましたが、この奇跡的な再会を機に、仕事の合間を見つけては、テニスの練習をすることになりました。その結果、高校時代にテニスをやめてからは走ることをやめたはずが、再びランニングを開始したのです。そして足を鍛えながら、樺沢プロが運営するテニスクラブで上手なプレーヤー達と一緒に練習しても、恥をかくことがないように、自らを鍛え直すことにしたのです。この再会がなければ、嫌いなランニングをする、ということは、考えられません!人生は出会いにより、大きく変わります!

若返り策に感化された旧友との出会い

それから数年間、テニスをしながらとりあえず、体を鍛えつつ、仕事に没頭するという生活が続いていたある日、会社のスタッフから唐突に、「ホノルルマラソンを一緒に走りませんか?」と誘われたのです。その当時、マラソンはメディアの話題に取り上げられることが多く、モデルの長谷川理恵さんが、フルマラソンを3時間15分で走っているというニュースが耳に入りました。それを聞いたら、もういてもたってもいられません。女性のモデルが3時間15分で走れるのに、高校時代、といってももはや20年以上も前の話ですが、あれほどテニスで鍛えて走っていたのだから、自分がその記録を超えられない訳はない、と安易に思ったのです。そして長谷川理恵には絶対に負けられない、と勇み立ち、テニスの練習は中断して毎日走り始め、4か月後の2003年12月に開催されたホノルルマラソンへの参加に備えたのです。

結果は惨憺たるものであり、フルマラソン、42.195㎞を走る難しさを痛く味わうこととなりました。実際、走っている途中に脱水症状になり、吐き気を催し、意識も朦朧。それでも「走れ、走れ、」と我慢して自分に言い聞かせながら足を止めずに動かし続けたのです。、最後の10㎞では正直、もう「いつ死んでもいい!」「苦しすぎる。。。!」と悶え苦しみ続け、かろうじて生きながらえてゴールするも、心身ともにぼろぼろでした。結果は3時間59分00秒。4時間は切ったものの、もう走ることはなかろう、と自らに言い聞かせたことを、いまでもはっきりと覚えています。

ホノルル初マラソンで地獄の苦しみを体験
ホノルル初マラソンで地獄の苦しみを体験
そんな否定的な思いは、どこにいってしまったのか、それから1か月後、再び自分の心の中には、「長谷川理恵に負けては男がすたる。。」と豪語し始め、月300㎞は走り込むというエリートランナー級のトレーニングにのめり込んでいったのです。その結果、それから5年間でなんと、20回もフルマラソンを走ることとなり、体重はさらに5㎏減り、体が見違えるほどスリムに鍛え上げられたのです。そして最終的には3時間を切るぎりぎりのところまで記録を伸ばすことができました。会社スタッフからの誘いがあったからこそ、ホノルルマラソンを完走できたのです。そしてその背景には、26年ぶりにテニスの先輩と再会してテニスの練習を再開することになるきっかけとなった奇跡の出会いがありました。

そこまでマラソンにチャレンジする気持ちになった、もう一つの要因は、20数年ぶりに中学時代の親しい旧友と再会したことにあります。その当時、彼は総合病院で内科医局長を務めながら、アンチエイジングの第一人者として長生きの秘訣を本に書き記し、様々なメディアに取り上げられていました。その有名な医師となった旧友と再会した際、何となくアンチエイジングやってみなさい、という話になり、彼の言うことを信じることにしたのです。そしていつしかアンチエイジングの凄さを身をもって体験することとなったのです。

その結果は想像を絶するものでした。様々なサプリを取り入れて1日3回飲むだけでなく、運動療法もこなしながら、アメリカでは普及しているホルモン剤の投入も短期間に限って実行することになりました。そして当時のアンチエイジング医学が誇る最大限の治療とのアドバイスを受けながら、自分の体を改革し、40代でありながら30歳の若さとエネルギーに舞い戻る!ということを目標に、体の若返りを試みたのです。その結果はまさに驚異であり、確かに自分の体は若返ったのです。というよりむしろ、若返ったと思えるほど、以前にはない力が湧き出でてきたのです。その結果、走り込む練習をしてつらい時があっても、「もっと走れる。。。」「まだまだやれる!」と思えるようになりました。

レースのゴールは苦しみのあまり絶叫!
レースのゴールは苦しみのあまり絶叫!
走ることが嫌いだった自分が、再び走り始めるためには、それなりのきっかけと出会いがあったのです。それは、26年ぶりにテニスチームの先輩と、奇跡的に再会しただけでなく、ランニングチームに所属して走るのが好きだった会社スタッフとの出会い、そしてアンチエイジングの極意を教えてくれた中学時代の旧友との再会に他なりません。成田POPラン優勝の背景には、こうして、多くの人々との出会い、再会があり、それによってプラスの影響を受けた自分が、「走れる」「勝てる!」「1位になれる!」と確信するまで心身ともに強くなったのです。

さあ、みなさんも元気を出して、少しずつ、走りませんか?走るのが苦手な人は、散歩から始めませんか?日本シティジャーナル本稿との出会いを機に、人生がよりバイタリティーに満ちたものとなり、誰もが元気に長寿を全うできればと願っています。そのための第一歩として、読者のみなさんも楽しく走りながら、健康と長寿の祝福が与えられることを願ってやみません。

衝撃の出会いドラマはまだ続く!

2003年の夏、ホノルルマラソンに向けてトレーニングに集中する必要があったことから、それまで樺澤プロにお世話になっていたテニスの練習を中断することにしました。テニスはストップ&ゴーを繰り返しながら走るため、ひざや足の怪我が多く、長距離走の大会前には危険に感じられたからです。その後、マラソンにのめり込み、4年間、ひたすら走り続け、2010年のロサンゼルス国際マラソンを最後に、レースから退きました。日々、ハードな仕事を続けながら、よくも7年間、走り続けたものだと我ながら、「あっぱれ!」と、ちょっとは自分を褒めたくなります。

アイスホッケーの練習に励む筆者
アイスホッケーの練習に励む筆者
その直後、中学校に入った長男と、小学校3年生の次男がアイスホッケーを始めたことから、ならば子供達と一緒にアイスホッケーを練習しようと志し、幼い頃の夢だったアイスホッケーという、それまで体験したことのない世界に入っていきました。その体験談の詳細については「52歳から始めるアイスホッケー」に書き記しています。マラソンを7年間走っているうちに、いつの間にかテニスから遠ざかってしまい、ラケットを握ることがなくなったのです。そして今度はアイスホッケーにのめり込んでいく自分がいました。

そうこうしいているうちに、公津の杜駅前にあったテニスクラブの場所に、国際医療福祉大学が建てられ、2016年4月からスタートするということで、樺沢プロが経営していた公津の杜テニススクールが廃校となってしまいました。時の流れ、移り変わりというものは本当に早いものです。樺沢プロとの衝撃の再会から、再びテニスを練習しはじめたものの、2003年にマラソンのエリートランナーとなるべく練習に取り組んだことにより、樺沢プロとは顔を合わせる機会もなくなり、ふと気が付くと10年以上の年月が経ち、テニススクールも無くなっていたのです。

剣山山頂からの風景
剣山山頂からの風景
テニスを中断してマラソンのトレーニングを始めてから数年後、いつしか自分は四国の剣山や、神戸の裏山にあたる再度山の周辺を走り始め、山に登ることに喜びを覚えるようになっていました。登山は絶好の筋力トレーニングになるだけでなく、その周辺の地理を学び、地域の神社信仰や由緒を学ぶ機会にもなることから、一石二鳥のチャンスに思えたのです。そしていつしかアイスホッケーの練習をこなしながら、時折日本全国の山々をトレッキングして、頂上までノンストップで一気に走ることにチャレンジしていました。急斜面を一気に上りきる運動は足の瞬発力、そのものを使うことから、アイスホッケー向けのトレーニングに思えました。よって自己の健康管理も兼ねて、仕事の合間に時間を見つけては、短期決戦の頂上制覇に挑戦し続けました。その後、10年以上の期間を経て100回くらいは登山をこなしてきたでしょうか。一度も怪我をしたことはなく、また、オフシーズンの富士山登頂も日帰りで敢行し、高山病も克服してきたのです。

そんなトレッキングの練習にはまっていたある日、群馬県の榛名湖に隣接する榛名山には著名な神社や磐座があることから、お参り&リサーチに行くついでに榛名湖周辺の山々を縦走することを思い立ったのです。榛名山といっても山道は色々とあることから、榛名富士登山口から榛名富士を登頂し、その後、鳥帽子ヶ岳を経由して榛名山(掃部ヶ岳)を縦走し、最後に榛名神社にお参りするという、標高差1450m、15㎞の山道を7時間かけて縦走するという豪快なプランを選びました。いつか榛名神社にお参りに行きたいと願っていたこともあり、登頂することを考えるだけでも、ワクワク感がいっぱいです。

榛名湖の向こうに榛名富士を望む
榛名湖の向こうに榛名富士を望む
そしてついに、2018年11月27日、榛名山の縦走にチャレンジする時が訪れました!早朝、ちょうど6時に榛名富士登山口からスタートし、そこから早足で山道を駆け上がります。そして榛名富士頂上には22分後に到達しました。それから縦走を開始し、鳥帽子ヶ岳頂上の磐座に到達。硯岩の巨石は特筆に値します。沖縄の斎場御嶽を彷彿させる巨石の重なりや、巨石全体のサイズ感は感動ものです。無論、頂上からの榛名湖ビューは人気が高いことは、一目見ればわかります。気温は日中何と20度!無風!薄着をしてきて良かったです。それから掃部ケ岳の頂上へ向かって走ると、擬木の上り階段が続きます。何百段上れば気が済むのか!さすがに長すぎるぞ!と心の中で叫び続けながら走り続けました。しかも階段は蹴上がりの丸太が敷いてあるだけで、踏み台に土をいれずに窪んでいるため、足を踏み入れることができません。大変疲れます!しかし、頂上からは真東に筑波山を遠くに見ることができたので、そのビューに癒されました。

そこから榛名神社へ向けて下り坂を一気に駆け下ります。ところが今度は、その距離が長いのです。まさか疲れ初めているこの時点で3㎞以上、走ることになるとは。。。標高差300mはあり、下り坂ではあるものの、この時点ではさすがに長く感じられます。また、坂道を下るということは、登山やトレッキングにおいて、再び帰り道、上がってこなければならないことを意味します。そんなこと考えると気落ちすることから、ひたすら走り続けていると、10時45分、やっとのことで榛名神社の鳥居が見えてきました。そこから20分ほど境内の階段を上り続けると、榛名神社の本殿があります。すでにトレッキンングを開始してから5時間経っていました。体中、汗びしょのまま、神社の階段を上り、そのてっぺんでお参りをしようと速足で駆け上り、最後の階段を登り切って本殿の前に立った時、既に体は疲れ果てていました。何も食べず、ここまで水1本少々で走り切ったのですから、憧れの本殿の前で一服できることが感謝です!

榛名神社の本殿と背後の磐座
榛名神社の本殿と背後の磐座
と、その時、不謹慎な日本人夫婦が目に入りました。榛名山という神聖な山、しかもそのてっぺんにある祈りの場、榛名神社の本殿に、何と、犬を連れて階段を上ってきているのです。長い階段ですから、犬にとっても良い運動とでも考えたのでしょうか。しかしながら、日本の文化を踏みにじることでもあり、神聖な場所に犬を連れて来るとは何事かと憤慨し、一言、注意をしようと、段々と本殿に向かって犬と一緒に歩いてくる夫婦の顔を見ると。。。。

樺沢夫妻と榛名神社で驚きの再会に絶句
樺沢夫妻と榛名神社で驚きの再会に絶句
うん・?_?何と、樺沢夫妻ではないですか。公津の杜テニススクールをやめてから15年の年月が経ちました。その後、テニススクールも廃校になり、夫妻がどこに行ったか、何をしているかも知りません。そして千葉県成田市から遠く離れた群馬県の榛名山にある、榛名神社の頂上、本殿に、一生に一度だけ、この日しかないとお参りに行くため、5時間かけて走り続け、山を縦走して到達した榛名神社です。その本殿前にて、全く同じ日、同じ時間に、犬を連れて登ってきたのが、樺沢夫妻だったのです。こんな出会いの確率は、ほぼゼロに等しく、奇跡としかいいようがありません。しかも2度、奇跡がおきているのです。26年越しに、見知らぬ土地の小さなお寿司屋さんのカウンターで、隣同士で座っていたという事実。そして今度は15年越しに、遠く離れた山奥の神社の本殿の前で、出会ってしまうという事実。これはもはや偶然ではなく、すべて天の御心のままに仕組まれた神の御計画としかいいようがありません。筆者がもっと走れるように、より健康な生活を送れるように、神様が仕組んだいたずらかもしれない、と考えれば、ちょっと納得できます!

成田に不思議な縁で引っ越しをしてきてから、もうすぐ30年になります。今でも筆者の職場は成田市にあり、そこで育まれたサウンドハウスという会社も、今や音楽業界では国内最大手となるまで成長を遂げました。この会社でも、不思議な出会いや、驚くハプニングが多くあり、すべてが良い方向に恵まれて育まれ、今日まで守られてきました。世の中には、「偶然」という言葉では説明のつかない事象があります。樺沢夫妻との出会いもそのうちのひとつでしょう。いや、ふたつです。ありえないことがおきる!それがまた、人生の楽しみでもあります。良いお年をお迎えください。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部