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新世代の道路交通法

2020年の夏、日本でも条件付で自動化運転が可能になる「レベル3」機能を搭載した自家用車が販売される予定です。「レベル3」の自動運転では、一定の条件を満たすことにより、基本的に車を自動で発車し、運転、停車することができます。よって運転者が前を見ながらハンドルの操作をする必要がなくなります。その実用化に向けて、国は道路交通法の改正を急いでおり、20年の春先には街中で自動運転が可能になると見込まれています。

しかしながら日本の道路交通事情は、自動運転、人が運転するかに関わらず、車のスムース、かつ安全な通行を阻害する悪習慣が散見され、アメリカやヨーロッパの実態と比較しても、整備にかなりの遅れをとっています。海外の先進国に居住し、車を運転したことがある方なら、日本の車社会の考え方がずれていることに気が付く方も少なくないはずです。特に昨今、増加傾向にある外国からの来訪者からは、車の交通に関して不評をかっているといわれています。

例えば、歩行者にとって日本の横断歩道は、大変怖い場所になっているのは周知の事実です。何故ならば、歩行者が横断歩道を渡ろうとしていても、止まらない車が大変多いのです。そして歩行者は車が止まってくれない、という前提で、車が全部通りすぎるまで辛抱強く待つ、という異常な文化が存在します。日本の玄関である成田空港の第2ビルにおいても、横断歩道を渡る人が少ないこともあり、特に路線バスなどは人が横断歩道そばに立っていても止まろうとせず、そのまま突っ走っていく光景が絶えません。筆者も成田空港で幾度となく危ない思いをしました。というのも、海外から帰ってくると、ついつい歩行者優先で車は止まってくれるものと思い、横断歩道を歩きだしてしまうからです。地方に行った際には、スピードをまったく落とさない車に危うくひかれそうになりました。これでは、海外からの観光客も安心して横断歩道を渡ることができません。

新世代の道路交通法を整備するにあたり、もっとも大事なことは、人の安全が100%確保される道路システムを構築することです。その上で、効率良く、かつ車がスムースに移動できるよう、無駄のない動きの仕組みを構築することが重要です。例えばアメリカでは、Right of Way という交通ルールの教えがあり、街中であれ、どこであっても、横断歩道を渡る歩行者が優先されることから、車は一時停止しなければならないというルールが徹底されています。つまり、車を運転する人は、横断歩道に人を見かけたら、一時停止する義務があるのです。無論、東京のように歩行者が多い道路では、歩行者優先を強調すると、車はずっと通行できなくなるような場所が少なくありません。そういう場所こそ、信号機が必要であり、より賢いシステムの設定が必要となります。いずれにしても、歩行者の安全確保のためには、信号機の整備だけでなく、まず歩行者が優先されるという教育が日本でも徹底されなければなりません。

ところが信号機がある横断歩道では、もうひとつの大きな問題が存在します。それは、明らかに人影もなく、横断歩道を渡る人がいるはずもないような場所にて、信号が定期的に赤信号になり、車を止めてしまうことです。夜間だけ点滅すればいい、というような単純な問題ではありません。人がいれば車は止まり、人がいなければ車は進む、という大原則に従えば、人通りの少ない横断歩道の信号機には、すべて手動のボタンが整備されるべきなのです。そして人が渡ろうとする時のみ、車を止めるべきです。車を止める必要がないのにも関わらず、むやみやたらに赤信号を増やすことは、燃料と時間の浪費だけでなく、空気汚染の原因にもなります。アメリカではおよそすべての歩行者用信号にボタンがついています。そしてボタンを押すと、ものの1-2秒で車両用信号は赤になることから、歩行者はすぐに横断歩道を渡ることができます。日本の信号機のあり方が問われています。

道路上に書かれた文字
道路上に書かれた文字
もうひとつ、日本では外国人に不評の悪習慣があります。それは道路上に文字を書くという古きしきたりです。これは即、撤廃し、違法としなければなりません。なぜなら文字は、「止まれ」「速度落せ」など、漢字やひらがなを使うことがほとんどであり、これでは海外からのビジターが読めるわけがないからです。また、雨が降ると見づらくなり、落ち葉が重なるだけでも見えなくなります。だからこそ、道路標識には国際条約があり、例え文字がわからない外人の方でも、標識の形や色で識別できるように合意形成されているのです。道路上の文字は単に、落書きにしかすぎないと認識するべきです。

道路上には、文字だけでなく、ゼブラと呼ばれる白線が昨今、随所で活用されています。しかしながらゼブラの活用も度が過ぎているケースが散見され、高速道路だけでなく、一般道でも、全く必要性が感じられない場所にさえ、あちらこちらにゼブラの白線が描かれています。これはゼブラや道路文字に予算を取りすぎた結果でもあり、もらうべき予算を使い果たさなければ来年の予算に響くというような行政上の悪習慣から脱却できずにいる結果ではないでしょうか。これらの悪習慣をなんとか断ち切らなければ、いつまでも道路が文字と線だらけになりなり、町の景観を損ねてしまうのです。〔次号に続く〕

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部