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少子化の取り組みとLGBTについて
家庭を持ちたいと思うような社会環境を子供たちへ

日本の人口は2008年をピークに、その後、急速に減少しはじめています。昨今の急速な人口の減少トレンドがいきつく結末は、500年後、日本の人口がゼロになるという予測もメディアでとりあげられるようになりました。それは日本の人口が急速にゼロ、すなわち世界から日本人がいなくなり国家の消滅を意味することから、政治家をはじめ、多くの専門家は警鐘をならしはじめています。それは、じきに日本列島がまるごと外国人によって乗っ取られてしまうことをも意味します。これは決して極論ではなく、出生率と死亡率に準じた人口の推移から考察できる、ごく、当たり前の結果予測です。よって、少子化対策は急務であり、国家の一大事として取り組まなければなりません。

少子化傾向の理由は様々です。昨今、若い世代の人たちには晩婚の傾向が顕著にみられ、結婚を望まない人も増加傾向にあります。また、結婚をしても子供は欲しくない、というカップルも増えています。その原因を検証すると、様々な社会的要素が絡み、答えは簡単ではありません。つまるところ、経済的な理由が主たる原因であり、自由にやりたいことを楽しんで生活するためには、子供の存在が余計になってしまうという考えを持つ若者が急増しているようなのです。特に地方から都市部に向かって移住する若者が増加傾向にあり、結婚して家庭をもち、子供を育てるという価値観から乖離し、まずは経済的な自立を目指すことが大事になってきていることが考えられます。その背景には、若者が意欲をもって関わりたいと思える仕事が地方にはあまりない、という厳しい現実があります。それが日本全国において、大都市圏を除き、急速に過疎化が進んでいる主たる要因となっています。

その少子化の流れに輪をかけるように、LGBTの議論も浮かびあがってきています。当然のことながら、自然に子供を産むことができないカップルを社会が認知するわけですから、少子化を食い止める助けにはなりません。かといって、LGBTの人々は従来からも存在したことから、その社会的な認知が少子化に悪影響を及ぼすとも、一概には言えないのです。人間は皆、平等に生きていく権利をもっています。そして平和な人生の日々を送ることは、誰もが願うことです。そのためにも個人の意思を大切にし、思想の違いも含めて互いを尊重し、認めあうことが大事です。よって、近代社会においては人権が重要視され、そのためにも人々が社会の秩序を守りながら、和を保つことが求められています。

平和な社会とは、その国の伝統と文化を踏まえた秩序の中に育まれていきます。互いに尊重しあうことのできる風土の中に、本当の意味での自由が存在し、人権についても広い心をもって考えることができます。そして人権とは個人の自由意志を大事にすることであり、それはあくまで社会の和を前提としているが故、ふと、昨今、メディアで取り上げられているLGBT関連のトピックが気になり、振り返ってみることにしました。

つい最近米国に出張した際、旅行者として申請書を書く機会がありました。その申請書にある性別欄は、昔と違い、今や3項目に分かれていました。「男性」、「女性」、そして「ノンバイナリー」。最後は男女どちらでもない、という意味です。これが今、アメリカ社会では当たり前の表記方法になっています。性別とは生まれつきのものに限定されず、自らが判断して決めるもの、という意味あいが強く含まれているようです。その背景には、同性愛者らがカミングアウトをして互いに支えあいながら法的な権利を求め続けてきただけでなく、性別が不詳となるトランスジェンダーの人々も含め、多くの方々がオープンに自己の性について名乗りを上げ、オープンに語り始めたことが挙げられます。

アメリカではいつしか各地にゲイタウン、とも呼ばれる同性愛者が集中して居住する地域が存在するようになりました。地域ごとにその線引きが明確になっていることもめずらしくなく、同性愛者が何ら束縛なく、自由に思いのまま、過ごすことができる街づくりが各地で進められています。ゲイタウンは、いったんそこに足を踏み入れるだけで、これまで見慣れてきた町の雰囲気とは一変する気配を感じとることができます。街中、同性愛者が仲睦まじく寄り添っている姿が当たり前となる街の様相は、これまでの社会的常識とは多少なりとも異なることから、当初、違和感を覚える人も少なくないはずです。しかしながら、それが個人の自由と権利を尊重したアメリカ社会の行きついた姿なのです。

こうした欧米社会の影響も追い風に、日本でもLGBTを社会で受け入れる体制づくりと法的改正が叫ばれ始めました。最近では行政が主導するLGBT関連の取り組みが活発化し、一部の地方行政においては同性カップルの権利を認める動きも出始めています。しかしながら、古代より培われてきた日本の文化、風習、そして家族観や近隣とのつながりなど、日本では他国にはあまりみられない、社会とのつながり、絆を重要視する風土が存在することから、実社会における課題は多々、残されています。現実問題として、社会や家族の在り方に対する根本的な話題も含めて、いまだに十分な討論がなされていないというのが実情です。それ故、これまでの社会的価値観、家族、そして男女の在り方とは異なる風潮が漂いはじめると、多くの日本人が戸惑いを覚えるのも無理はないでしょう。

欧米諸国におけるLGBTの権利と社会の変化を理解したうえで、日本では、日本の文化を損なうことなく、あくまで歴史的にみても多くの日本人が共感を覚えてきた大切な家庭観や風習、しきたりなどを十分に検討したうえで、LGBTの権利についても十分に議論されるべきです。そのうえで、条例や法改正が検討されるべきではないでしょうか。

そのとっかかりとして、海外では話題になることが多いキリスト教的な宗教観に基づくLGBTに対する考え方について振り返ってみました。少子化の問題に関連して、欧米諸国では必ずといってよいほど話題にのぼるのが、これまで人類の歴史に多大な影響を与えてきた聖書の教理です。信仰を持つ、持たないに関わらず、世界中の人々が倫理道徳の基軸として、今日でも聖書を読み続けているという事実は、注視する必要があります。

聖書には、日本人にとって大変わかりやすい、人間が生きるべき「道」についての教えを中心としたストーリーが書かれています。旧約聖書によると、遠い昔、世界は洪水で一度、滅びています。その原因は、人々が自然の摂理を忘れ、情欲のままにふるまい、世が乱れたことにあります。創世記6章には、「すべての人が地の上でその道を乱した」と書かれてあるとおりです。様々な暴虐と悪事がはびこり、人々の心の中が「いつも悪いことばかりである」ため、世界が滅びに至ったのです。その後、人類の歴史はノア一族により再出発することとなりますが、その直後、ソドムとゴモラの時代に至っては、再び暴虐と乱交がはびこり、その町は火で焼かれることになったのです。その原因は新約聖書に明記されています。「不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受けた」(ユダの手紙)。また、別の書簡では使徒パウロが社会の乱れについて、「女は自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互いに情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、その乱交の報いを身に受けた」と、同性愛についても強い言葉で言及しています。これを当時に限った文化的な解釈とするか、普遍の教えと受け止めるかは議論の余地があるようですが、聖書に記載されていることに違いはありません。

聖書が人々に伝えているメッセージとは、自然の摂理、道、本来あるべき姿を大切にすることであり、神を信じるということは情欲に溺れることなく、そして暴虐を排除し、社会の秩序を保っていくことにつながるのです。しかしながら、その教えを実際、どのように具現化するべきか、という点については聖書の解釈においても様々な議論があります。実際にはLGBTを公言する聖職者も世界中には多数存在することからしても、議論は果てしないことがわかります。

いずれにしても聖書が明確に記していることは、同性愛の感情を持つことの是非ではなく、その情欲に任せて実際に乱交に走ることがいけないということです。例えば、それは異性愛における不倫についても同じことが言えます。異性の既婚者を好きになってしまった場合でも、それを我慢して胸に秘めておくことと、実際に好きだからといって不倫してしまうことでは大違いです。不倫はゆるされるものではなく、罪であると、聖書は明言しています。

人の思いは様々です。大事なことは「道」をはずすことなく、社会の和を保ちつつ、互いを尊重しあいながら生きていくことです。それは、時に自分の思いを抑えて我慢しなければならない時があることも意味します。社会の秩序、しいては自然の摂理、すなわち「道」を全うして生きていくためには、ある程度の節制と忍耐、柔和な思いも必要であり、そこに日本古来の文化的な力が秘められているように思えます。「柔の道」、「武士道」、「茶道」など、さまざまな精神文化を大事にしてきた日本人だからこそ、「道」を大事にするという考え方に共感を覚える人々は少なくないはずです。よって、聖書が教える「道」の在り方も理解しやすいはずです。

それにしても昨今、メディアが放映するコンテンツの激変には、目を見張るものがあります。YOUTUBEやSNS系メディアの台頭、そしてポッドキャストが一気に世界中に広まるさなか、テレビの視聴者数が激減してきたことから、民放各局ともにお笑い番組ばかりを放映する傾向が顕著に表れてきました。そして、メディアで活躍するタレントの多くが、ゲイ、ニューハーフ、クロスドレッサーとも呼ばれる女装家など、新世代の性表現を自負する人たちで溢れてきたのです。昭和の時代は、歌手の美川憲一さん、ピーターさんのお二方のみが注目を浴びた程度であり、社会全体におけるLGBTの認知度はほぼ皆無でした。それが今では代表格となるマツコ・デラックスさんを筆頭に、大勢の優秀な女装する化粧した男性、またはノンバイナリーのタレントが活躍するようになり、人気を博するようになりました。この現象を振り返るに、一抹の不安が残ります。それは子供達に対して何らかの悪影響があるのではないかということです。

幼い子供たちはテレビを見るだけでなく、最近はスマホを手にする機会も増え、日夜、SNSを通じて多くの情報を目にするようになりました。そのコンテンツの多くに、女装するタレントがアイドル化して台頭し、子供達がそこに自分のアイデンティティーを見出すようになってきているのです。その情報を日本社会では誰もが違和感なく当たり前のこととして受け入れているとするならば、子供達もそれに共感を覚え、自分もそうあるべき、またはそうなりたいと思うようになっても不思議ではありません。その結果、まさに日本が大切にしてきた家庭観、情緒、風土、社会の秩序が、今後どうなってしまうのか、将来の見通しができなくなってきたのが現状です。

こうして昨今、社会の風潮が変わり続けた結果、結婚願望を持つ若者は減り続け、結婚して子供を持つことはおろか、異性とのデートさえもあまり考えないような若者が増えてきているようにも見受けられます。男性であっても自由に女装し、時には肉体を改造して女性になることを選択してもいいんですよ、と社会が黙認しているうちに、いつしかそれが常識と化していくのはないでしょうか。日本でもすでに、1万人近くの人たちが性転換手術を受けて、特例法に基づき、戸籍上の性別を変更しています。その現実を踏まえたうえで、これまで幾千年にわたり培われてきた、日本が大事にする自然の「道」とはいかなるものであるべきかを、その「道」を踏み外すことなく、考えていくことが大切です。

今やWithコロナの時代ともいわれ、社会全体で一斉にデジタル化が進み、多くの子供達、学生は巣ごもりに慣れ、人と接しないことを苦にしなくなりました。むしろ人と付き合うことは病気になる可能性があることから、敬遠される傾向にもあります。その代わり、余暇の楽しみはバーチャルともよばれる仮想現実の空間に頼り、思うままに見たいもの、聞きたいものを自由に選んで娯楽の対象とする傾向も顕著になってきています。その結果、ゲームやEスポーツが人気を博し、巣ごもりしても満足して生活できることに慣れ始めています。これでは少子化に拍車がかかり、将来に希望がもてなくなるだけでしょう。

日本の将来を考えるうえで、今一度、家庭観、子供を持つことの重要性を見直す時がきました。そもそも、結婚するもしないも、子供を持つも持たないも、個人の自由だ、と、だれもが考えはじめ、実際に子供を作るのを避けるようになったら、日本国家は滅亡することになります。よって、LGBTの議論はともかくとして、それが普及するあまり少子化の要素となることは、避けなければなりません。子供なき国家に未来はないからです。大事なことは、まず、日本古来の伝統や文化を大切に守り続けている地方の大切さを社会全体で再認識し、それら遠隔の地域にも人々が住みたいと思えるような環境構築が進められ、経済活動を発展させていくことが急務です。そして家庭を持つことの大切さが人間社会の常識として子供たちに伝えられ、誰もが家庭をもち、子孫を絶やさないことの重要性に気付くだけでなく、実際に家庭を持ちたいと思えるような社会的環境を作り上げていくことが早急に望まれます。

このままでは数百年もたたないうちに日本は消滅するといっても、もはや過言ではないのです。子供たちに明るい未来を与えてあげるためにも、まず、子供たちが生まれてくることが大切にされる国づくりが、早急に望まれます。子供たちこそ、日本の未来の礎を築いていく中心なのです。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部