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第6回 ~お酢のもの~

被災地の皆さまの一日も早いご回復をお祈り致します。

草木の生い茂った匂い、むんむんする土用特有の湿氣に梅雨が追いうちをかける京の七月には、ただひたすらからりとした晴れ間が心待たれる。

そんな日の食卓も余り進まない家族のお箸づかいに、さくさくと噛むきゅうりの歯切れよいリズム感は誠にさわやかに思われる。

胡瓜の事を昔は「きゅうり」と店先に書いて売られていました。

暑い暑いお昼さがり、通りすがりにトントントントンと胡瓜を刻んでいる音が聞こえるとこの家では今日の惣菜に胡瓜が加わる事が判る。

瓜特有の匂いが漂い、無性に夏の季節感があり、何だか急に親しみが増して来るような気がする。

この刻み音で主婦の料理の腕を披露しているようなものです…と祖母はいつも言っていた。

「胡瓜はネ、音で切りますの…」音でどうして野菜が切れるのか不思議だった小さい頃の私、最近は祖母と同じ事を若い人達に言っている私…。

近頃は包丁を持たない家庭も多いと聞きびっくりしている。刻んだキャベツやねぎがパックに入りスーパーで並んでいるのを見かけるとそれも理解出来るし、又いろいろな便利な器具が出廻っていて簡単に野菜をすり刻む物が出来ているが、ほんとのお味と香りを失わないためには、やはり、俎板の上でトントントントンと心身のリズムを取る方が歯切れが良く、また口あたりも良い。

同じ間隔で物と音が刻まれるとき、スムーズにお料理の進行がみとめられ安心する。

きゅうりは軽く塩をしてよく揉み、そして絞り切りお酢に合せる「酢揉み胡瓜」「もみ瓜」とか称して甘酢、薄口醤油などにみりんを溶かすと、まったりとした良いお味に落着く。

歯の浮くような生酢を好んだ若い頃もあったが、此頃では極端なお味は控えて、何か落着いたさりげない工夫が、お味付けにも求められる様になった。

焼いた鱧の皮、ちりめんじゃこ、生節、いかやたこ、焼き油揚、みょうが、若布、貝類、刻み昆布を混ぜ合わせたり、白みそともよく合う。

さて、最近若向きのサラダには必ず胡瓜が登場する。そしてそれは「洗う」、「切る」だけの作業にとどまり、食塩を「パッ、パッ」と振って、食卓で各自が好みのドレッシングやマヨネーズをかける。いとも簡単なものであり、それが決して悪いとは言わないが、「おいしい!」という感動もない。もう一工夫すると「しゃれた一品」となることはまちがいない事実であろう。

例えば和食に添える時、洋風に仕上げると、しゃれて見えるし、洋風に添える時、やや和風仕上げを試みると、何だか手のこんでいる様に思える。糸のように細く切って、お刺身に添えるとすっきりと美しい、早咲きの桔梗や、胡瓜の花一輪も共にご馳走とする。

近頃は胡瓜にもいろいろと種類があって、昔人間の私など、よく覚えておかないとごじゃごじゃになることが多い。

やゝ、黄緑の白っぽいのが私共年代の者が胡瓜と呼んでいた物で、今それは「白キウリ」と称され、上から下までグリーン一色のものが今、胡瓜とされている。

中に種があった、私達昔人間の食した「胡瓜」はとんと見かけなくなった。種があればお料理に少々邪魔になることも事実であろう。かんなで木を削ったような断面のものが、胡瓜と思っている若い世代に、歯切れ良く、見た目一色の方がきれいに見える所から、品種に改良が加えられ今日の一色の胡瓜となった事も頷ける。が、しかし、私はあの昔のきゅうりと呼ばれ酢もみにすると種が出て来た、あのなつかしい歯ざわりとさわやかさを忘れる事は出来ない。

「スーヨー」という品種の今のきゅうり。四葉とは、中国語であろうか?

瓜の蔓に茄子はならん…とは古語の例えにあるが。たまたま学校で百点をいただいた時、「瓜の蔓に茄子がなった…」と胸を張った昔の子供ともあれ夏にさわやかな胡瓜の存在は香りと共に涼を呼ぶ。

やがて暑い京都に祇園祭りが近づいて来るが京の人はこの祭りの間、決して胡瓜を食べない。何故って、胡瓜の切口と祇園さんのご紋が似ているから…

(文・今井幸代)

今井 幸代

代々旧御室御所仁和寺領の庄屋を務めた家に生まれる。
現NHK文化センター講師(京都教室・青山教室) 琴・華道は師範、ほかに茶道・仕舞・日舞・ピアノ他、京の芸事全般を習得。趣味は料理・漆器特に日本建築。
テレビ(地元KBS)・ラジオに出演中、著書多数。世界の食をリードする雑誌S A V E U R(サブール)の選ぶ「世界の100人」に日本人唯一人選出されている。

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