ブックタイトル日本シティジャーナル vol.150

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日本シティジャーナル vol.150

2014年(平成26年)4月19日発行第150刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 150Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日:10:00~19:00、土曜:12:00~17:00]http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部熊野のレイライン大陸に由来する熊野の神々から古来の信仰を学ぶ大陸に由来する熊野の神々とは盛自身も熊野権現を詣でるため、伊勢よりたびたび熊野へ出向いたことで知られ、平家の繁栄の背後には、熊野権現の御利生があったと噂された程でした。熊野大社に纏わる神々の出自については、前述した通り、平安Part.IIを元に書かれています。その中NCJ109日本とユダヤので、女御の出産を妬む妃たちにハーモニーから続くこれまで熊野本宮大社と熊野速玉大社の地理的な位置付けを中心に、「熊野のレイライン」がどのように線引きされ、古代のよる殺害事件を発端とする事件が、熊野権現のルーツに絡んでいるのです。女御を亡くした摩訶陀国王は、その後、7歳になる我聖地が相互間の繋がりを持つよが子に再会します。そして上人とうになったのか、その東アジア史を詳細塗につり替時代えたイスラエルの末期に編纂された「長寛民族共に大金の車移に乗動って5の本潮の剣流を投いて解説をしてきました。伊弉冉尊が葬られた比婆山と大斎原(熊野本宮大社)を結ぶ線が、熊野速玉大社に直結することから、レイライン上の関連性は明らかであり、2つの熊野大社が実際に伊弉諾尊を共通のモチーフとしていることからも、深い関係にあることがわかります。熊野信仰の普及は平安中期にあたる9 0 7年、宇多上皇(在位8 87- 8 9 7年)の熊野御幸より始まり、貴族の中で流行するにつれて白河上皇(在位1073-1087年)や鳥羽上皇(在位1103-1123年)の時代にピークを迎え、鎌倉時代の中期まで続きます。これらの上皇は、いずれも譲位後に熊野御幸を行っています。また、白河上皇は伊勢平氏の武将として名高い平正盛(平忠盛の父)を伊勢から招集し、検非違使として諸国の賊を討伐させ、多くの手柄をたてた正盛を貴族と同様に優遇しました。その後、武家勢力の増勢を背景に平家は台頭し、源氏と平家が対立する主原因となった皇位継承問題が複雑化する最中、平清盛の時代には平家が栄華を極めたのです。その清勘文」に含まれる「熊野権現御垂迹縁起」に綴られています。そこには神武天皇の時代、唐の霊山より王子信が、高さ三尺六寸の八角の水晶の形をもって九州の英彦山に天下ったと書かれています。「八角の水晶の形」が意味することを理解することは困難ですが、「彦山開山伝説」には摩訶陀国にいた権現が中国天台山から海を渡り、英彦山にて八角三尺六寸の水晶石を御神体として祀ったことが書かれていることから、「熊野権現御垂迹縁起」の内容も同様に解釈することができます。その後、熊野権現は伊予国の石鎚山、淡路国の諭鶴羽山を経て、熊野新宮に隣接する神倉峯に降臨しました。そして新宮の東方にある阿須加の社に近い石淵の谷にて初めて結玉家津美御子という名が証され、二字の社と呼ばれるようになったのです。これらの記述から、後世において伊弉諾尊、伊弉冉尊とも解される熊野大神、熊野権現とは、実は大陸からの渡来者であったという可能性を見出すことができます。「熊野権現御垂迹縁起」は、インドの摩訶陀国に関連する逸話げ、旅の行き先が日本であることを知ります。5本の剣の内、第1の剣は紀伊国の神倉に、第2は豊前国の英彦山に、第3は陸奥国の中宮山に、第4は淡路国の和(遊鶴羽峰)に、残る1本は伯耆の大山に落ちたのです。目指す地が東の島々であったことから、一行は中天竺(インド)の摩訶陀国から中国の天台山を経由して日本列島に渡り、紀伊国の神倉に向けて旅をしたのです。これらの縁起書や逸話の内容から、熊野権現を大陸系の外来の神と断定し、高天原から天下る伊弉諾尊、伊弉冉尊等、日本古来の神々とは別系統とした上で、後世においてそれぞれが擬せられて同一視されるようになったという説も生まれました。しかし、これまで最解説終してきた編通り、高天原の神々とは西アジアよりインドの沿岸を経由し、海を渡って日本列島まで到来した大陸系の民族であった可能性が高いのです。古代、列島まで辿り着いた先駆者のひたむきな貢献により、日本の有史が始まったと考えるならば、熊野の神々が大陸系であるという理由を元に、一至伊平屋島ヤーへー岩(クマヤ洞窟)熊野のレイライン(総合図)B宗像大社屋久島宇佐神宮高千穂神社CE出雲大社A比婆山八雲山D石鎚山57度29分三嶺石上布都御魂神社剣山再度山熊野本宮大社大斎原熊野那智大社潮岬三方五湖花窟神社神熊野速玉大社倉山伊勢神宮伊雑宮ECD諏訪湖阿久遺跡守屋山57度29分富士山-1-鹿島A富士山-伊雑宮-大斎原B宗像大社-剣山-大斎原C神倉山-大斎原-八雲山(出雲)D神倉山-熊野本宮大社-石上布都魂神社E比婆山-大斎原-熊野速玉大社A概に異質であると断定はできません。古代の神々の姿が、日本の島々を行き来する海人文化を反映していると考えられる理由も、大陸から船で到来した民が列島を行き来きし、必然的に船が多用されたという史実があったからに他なりません。大陸から古代の神々が到来したことを前提とするならば、例えば、熊野の神とはスサノオ、もしくはスサノオの子孫であり、インドや中国を経由して海を渡ってきたイスラエル系の渡来者であると考えることも可能です。イスラエル北王国が崩壊した前722年から、南ユダ王国が崩壊する前588年を節目に、多くのイスラエル系の民がアジア大陸を東方に移動したと推測され、その時期は、伊弉諾尊、伊弉冉尊による日本列島の探索、すなわち国生みの時代と重なっているからです。建国の始まりとなる神武天皇の即位を前660年と仮定するならば、皇紀の始まりと、その前哨となる伊弉諾尊らによる国生みの働きは、正にイスラエル国家が崩壊する時代と一致します。また、唐の霊山より王子信が彦根山に天下り、その後、長い年月を経て甲寅の年、神武43年に熊野権現が現れたという由緒の記述も、神々がアジア大陸の西方、インドの方面から渡来してきたことを証しています。しかしながら、「熊野権現御垂迹縁起」に記載されている王子信とは、唐の徐霊府が書いた「天台山記」によると、周の霊王(前572から前545年)の子の1人であり、神武43年よりも1世紀弱、時代を後にします。また、「熊野年代記」によると、熊野速玉大社の起源となる神倉山に熊野の神が垂迹したのは前531年と記載されています。これらの年代は検証する術もなく、「天台山記」の王子信が、縁起書に記載されている人物と同一かも定かではありません。中には熊野三所権現の前世を想定するなど諸説がありますが、詳細は不明です。よって、細かい年代の整合性には注視しながらも、記紀に登場する神々が、熊野の神々と同じ大陸からの渡来者である可能性があることを考慮した上で、およその歴史の流れを掴みながら、熊野の歩みを振り返ることが重要です。熊野那智大社が異質と言われる所以熊野三山とは、その名前の神武天皇が神として祀ったと伝承される那智の滝ごとく3つの大社により構成され、それぞれが御祭神を共有し、歴史の深い絆によって結び付いています。ところが、その1つである熊野那智大社は、なぜかしら熊野本宮大社を基点とするレイラインのいずれにも含まれていません。レイライン上の結び付きが無いということは、例え、熊野三山の1社とはいえ、熊野那智大社の歴史的背景や由緒が、熊野本宮大社や熊野速玉大社のものとは別格であり、異なるルーツに起因していた可能性を示唆しています。熊野那智大社は、落差において日本一を誇る那智の滝に隣接します。133 mも直下する見事な大自然の光景を誇る那智の滝は、天から降り注ぐ命の水として、神武天皇の時代から滝そのものが神格化され、神として崇められるようになりました。そして、いつしか国造りの神である大己貴命や夫須美神も祀られるようになり、神武天皇を導いた八咫烏も崇拝されるようになったのです。その後、4世紀、仁徳天皇の時代には現在の社地に拝殿が建立され、平安時代以降では観音信仰を主体とする神仏一体の理念に基づく聖地として、徐々に大衆の信望を集めていくことになります。熊野那智大社が熊野三山の中で特異な存在であることは、縁起書からも理解することができます。熊野三山にて祀られている神々は熊野権現と呼ばれ、熊野本宮大社の主祭神は家津御子、熊野速玉大社は熊野速玉男神、そして熊野那智大社は夫須美神です。熊野三山ではこれらの3神が一緒に祀られ、その他にも多くの神々が祀られています。しかしながら、熊野の神々の由縁について記載されている「熊野権現御垂迹縁起」には、熊野那智大社についての記述が見当たりません。よって、その起源は他の2社とは別格のものであり、次頁に続く