ブックタイトルvol_151
- ページ
- 1/4
このページは vol_151 の電子ブックに掲載されている1ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは vol_151 の電子ブックに掲載されている1ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
vol_151
2014年(平成26年)5月24日発行第151刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 151Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日:10:00~19:00、土曜:12:00~17:00]http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部鹿島神宮のレイライン神剣によって紐付けられた古代名所の数々古代の識者はレイラインと呼ばれている手法を用いながら、日本列島内の重要拠点を特定し、そこに港や集落を築いたり、神を祀る聖所を造営したりしました。その結果、多くの由緒ある名所が、淡路島や近畿地方、九州、四国など、日本列島各地に見出されたのです。しかしながら、東北や北海道など日本列島の北方に至ると、レイライン上に存在する主要拠点の数は極端に少なくなります。実際、東北地方より以北では、青森の八戸以外に古代レイラインの拠点を見出すことは難しく、関東周辺でもごく僅かしか存在しません。それだけに関東以北の拠点は、ひと際目立った存在ともなります。中でも茨城県の鹿島は、太平洋沿岸に存在する関東唯一のレイラインの拠点であり、しかも複数の主要レイラインが通り抜けることから、極めて重要な位置付けを占めてきました。地の利に恵まれない僻地でありながらも、レイライン上でピンポイントに示された大事な地点であったからこそ、鹿島は古代から有無を問わず、東アジア史を塗り替港町えたイスラエルとして発展したのです。船で民族その大南西移方向動にはの利根潮川を流越え太平洋沿岸を行き来した旅人は、て、香取神宮が存在します。古代内陸への玄関である鹿島港を重の民は、鹿島へ向かう為には香要視し、そこを基点として内陸へ取や潮来から船を用いて川や海と足を運びました。そして鹿島の地では、古くから神が祀られ、聖なる宮が存在する場所としても認知されるようになりました。那覇辺鄙な岬が古代の聖地となった理由今日、鹿島は7万人近くの人口を持つ港町として知られ、そこには年間100万人以上もの参拝者が訪れる鹿島神宮の緑が広がっています。その境内は美し鹿島神宮のレイライン甑島ヒラバイ山高千穂神社八雲山倭文神社出雲大社波々伎神社石鎚山石上布都魂神社剣山六甲山天橋立石宝殿淡路島伊弉諾神宮岩上神社(神籬石)花窟神社く、かつ広大であり、それだけに、NCJ109日本とユダヤの遠い昔からも人々が陸路を通ってハーモニーから続く参拝に訪れていたと考えられがちです。ところが古代、鹿島周辺は岬の端、もしくは名前の通り島であり、地域一帯は海や川、湿地に囲まれた辺鄙な場所でした。を渡る必要があったのです。列島の中心からは遥か遠く、交通にも大変不便な場所であり、集落が発展するような要素は到底見当たらないような湿地帯が広がる霞ヶ浦東方の僻地に、何故、港町をわざわざ造成する必要があったのでしょうか。そのような場所に集落を構える必要性は、一般的常識からすると乏しかったはずです。しか諏訪大社前宮守屋山石上神宮猿田彦神社伊勢神宮伊雑宮阿久遺跡富士山最終編最終編-1-鹿島神宮Part.II八戸しながら古代の民は鹿島に住みつき、そこに集落が発展し、見事な港町が出来上がりました。それは、鹿島という場所に何かしらの重要な意味を見出したからに他なりません。鹿島の地域柄と、その特異な位置付けを知る鍵は、そこで祀られている神の存在と、鹿島を通るレイラインに秘められています。鹿島は港町として発展しただけでなく、古くから神が祀られ、由緒ある鹿島神宮が建立されました。その御祭神は刀剣神として知られる武甕槌神です。また、鹿島神宮は古代の由緒ある聖地とレイライン上にて結び付いていますが、他の拠点も鹿島と同様に、刀剣神の存在をそれらの歴史の背景に確認することができます。つまり、古代の民が鹿島の地を特別視した理由は、神剣という共通のモチーフによって繋がる聖地をレイライン上で確認し、それらの由緒と御祭神、及び地理的な位置付け等を探ることにより、推察することができます。鹿島神宮の由緒とは鹿島神宮は、数多く存在する神社の中でも最古の1つに数えられています。「鹿島神宮古記録」には、鹿島神宮の創始が神武天皇の勅令によるものであると明記されています。また、927年に編纂された「延喜式」と呼ばれる卅神名帳には全国3132座の天神地祇が記載されていますが、伊勢神宮を除いては、鹿島神宮と香取神宮のみが神宮を称しています。よって、古代から鹿島神宮は特別な位置付けに置かれ、朝廷や識者の尊崇を受けていたことがわかります。鹿島神宮の社殿は、楼門をくぐった後、東西に延びる参道のすぐ右側に、横向きに位置しています。つまり社殿は、不思議と北向きに建てられているのです。そして参道を更に進むと、杉や椎の木で囲まれた並木道の先には、御祭神である武甕槌神の荒御魂が祀られている奥宮があります。その50m先には、直径30cm程の頭頂部だけが露出している要石があります。水戸黄門仁徳録には、「七日七夜掘っても掘りきれず」と記述されているとおり、不思議な巨石であることが確認され、その場所に鹿島神宮の大神が降臨したのではないかとも言われています。元来、鹿島神宮の底地は砂地であり、巨石など、日本一美しいとも言われる鹿島神宮の楼門あるはずがない場所に存在することから、その根底は地球の中心まで続いているという言われを持つ霊石です。また、鹿島の神は遠い昔から三笠山とも呼ばれる鹿島山にて祀られ、そこには今日、鹿島神宮の重要な摂社の1つである三笠神社があります。鹿島神宮の社殿は、その内部構造において出雲大社のものと、類似点が多いことに注目です。どちらも住居のような建て方をしており、神座は奥の角に横向き、そして大国柱をぐるりと回って奥の間に入る形をとっています。また、屋根は切妻造りの妻入りです。出雲大社と鹿島神宮を建設した人は同一人物であることから、神社内陣の配置構造やデザインには共通点が存在して当然でしょう。出雲大社の最初の社殿は武甕槌神によって造られ、同様のデザインが鹿島神宮でも取り入れられたのです。鹿島の御祭神は武甕槌神であることから、当初、祭祀活動を引き継いで執り行ったのは、武甕槌神の子孫であったと想定できます。その後「常陸国風土記」によると、崇神天皇代の御代、大坂山に白い桙を手にした鹿島の大神が出現し、自らの住まいを治めて祭れと語り、その神が香島の国に座している天の大御神であることを中臣神聞勝命が解き明かしました。中臣神聞勝命の祖は、天の岩戸に天照大神がお隠れに成った際に祝詞を唱えた天児屋根命です。そこで天皇は、大刀、ヤタノ鏡、許呂等の神宝類など、大量の幣物を鹿島神宮に捧げ、それらの神宝を奉持した中臣神聞勝命は、鹿島神宮の祭祀を司ることとなりました。奈良時代に編纂された「常陸国風土記」香島郡の条に記載されている「香島の天の大神」からは、中臣部がそれまで祭祀に深く関わり、占部氏が香島の大神の社の周囲に居住していたこともわかります。香島の社の実権は中臣部が握り、その祭祀活動においては中臣部が禰宜、そして占部が祝(ほふり)として職務を分担していたのです。こうして鹿島神宮の大宮司家は、その後も中臣鹿島氏が引き次頁に続く