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vol. 151神剣が宝蔵されていたと考えられる石棺5000年から6500年も遡る時代に発展した集落の規模は極めて大きく、本州の奥地ではありながら、諏訪湖の近郊に古代から集落が造成されたのです。また、阿久遺跡のそばには諏訪大社が存在し、遠い昔から祭祀活動が執り行われていました。その背後には守屋山が聳え立ち、山の中腹には守屋神社があります。守屋山は諏訪大社の御神体という噂も絶えず、諏訪大社と守屋山、及び守屋神社は、その由緒からも、「神剣」と深い関わりを持っていることがわかります。守屋神社については、「復刻諏訪史料叢書」に含まれる「諏訪かのこ」に、「守矢が嶽には守矢大臣の宮あり。石匣に神劍を納む。」と記載されています。つまり、守屋神社では古代、神剣が納められていた時代があったことが記されているのです。その神剣は今日、守屋神社からどこかへ持ち去られてしまったようです。しかしながら、守屋神社の境内裏、階段の最上段には竪穴式石室のような細長い収納場所が残されており、その周囲は造作物によって守られています。この場所に遠い昔、神剣が保存されていた時代があったからこそ、それが持ち去られた後も、守屋神社では祭祀活動が続けられてきたのではないかと推測されます。その守屋山の麓に諏訪大社の本宮と前宮が存在します。「諏訪上社物忌令」によると、本宮と前宮の周辺には諏訪七石が存在し、それらは御座石、御沓石、硯石、楽器・音響機器のネット通販業界トップ※の安定企業![正]月給17.6万円?23.0万円[パ]時給1,050円国内最大規模の楽器・音響機器販売会社株式会社蛙石、小袋石、小玉石、亀石と呼ばれています。その御沓石のすぐそばにある石棒が、天逆鉾です。そこには「諏訪明神を尊崇した琉球国王」とも記載され、諏訪大社と沖縄とは古くから交流を持っていたことがわかります。天逆鉾と言えば、前述したとおり、国譲りの時代において武甕槌神が出雲国五十田狭の小浜に到来した際に、十握剣を地に突き立てた話を想い浮かべるのではないでしょうか。諏訪大社には、まさに剣が地面を突き刺しているような石棒が御沓石の前に存在し、天逆鉾と呼ばれているのです。これらの伝承から諏訪大社と出雲が神剣と言う共通のモチーフによって結び付いていることがわかります。また、諏訪湖で誅伐を終え、国を平定した武甕槌神は、その後、更に東方へと向かい、鹿島を本拠地とします。遠い昔から、鹿島は[日本の国の東の果て」と言われていたのも、武甕槌神が西は出雲から東は関東の地域までを網羅して、国を平定しようと目論んだからではないでしょうか。鹿島は日の登る最東端の地でもあり、事始めの地でもあることから、「1日の始まりは鹿島から」とも言われ、前途を幸わう言葉として「鹿島立ち」という言葉も知られるようになりました。そして鹿島は太平洋に面していることから、そこには民衆を救う「弥勒の船」が着く港としても語られてきたのです。鹿島を制することは、日本の未来を制し、救うことを意味していたのです。よって、武甕槌神の足取りを辿ると、出雲から諏訪、そして最終的に鹿島へと移動したことがわかります。鹿島神宮は諏訪湖、及び近郊に聳え立つ守屋山と同緯度に存在ネット通販電話オペレーターお客様からの電話・メール・FAXによる注文や問い合わせに対応します経理・総務アシスタント電話対応・伝票入力・ファイリング等、経理スタッフの補助業務を行います[時間]正社員…平日9:00~19:00、土曜11:00~17:00/パート…左記時間内で週4日、1日4時間以上[休日]日祝日、隔週土曜、年末年始休暇、有給休暇[待遇]社会保険完備、年2回賞与、天然温泉無料優待、T O E IC受験支援制度、海外研修、駐車場完備、車通勤可、社宅完備(独身・家族用、正社員のみ)etc.同時募集中広告制作スタッフWEB制作スタッフ商品発注・入荷管理システム設計・管理※米国Music Trade誌2013年8月号より最新の情報/応募方法はWEBサイトをご覧くださいwww.soundhouse.co.jp/recruit【お問合せ】担当:サウンドハウス採用係0476-89-1777e-mail : job@soundhouse.co.jp〒286-0825千葉県成田市新泉14-3(野毛平工業団地内)しますが、これは偶然ではなく、古代集落の名所であった諏訪湖周辺にて誅伐を終えた武甕槌神が、その場所に紐づく東の聖地、自身の新しい拠点となる場所を、真東の方向にある鹿島にて見出した結果ではないでしょうか。武甕槌神は刀剣神であるが故、鹿島の聖地でも必然的に神剣の存在が古代より大切に扱われ、今日まで至っています。鹿島(カグシマ)神宮の意味ここで今一度、鹿島という名前の由来について考察してみましょう。奈良時代に編纂された「常陸国風土記」には、武甕槌神が香嶋天之大神と記され、古くから「鹿島」は「香島」と記載されていたことがわかります。そして8世紀以降は「鹿嶋」と書き改められるようになりました。江戸時代以前までは、鹿島は山鳥の鹿嶋と書かれていましたが、その後、近代では「鹿島」という漢字表記が定着するようになりました。鹿島の名前の由来には定説がありません。それ故、香しい島という意味で香島の香が鹿に転化したという説、武甕槌神の甕という字から甕島(みかしま)が鹿島になったという説、神が鎮まる場所ということで神島が鹿島になったという説、そして神の住む所の意でカスミが転訛したという説等、様々です。また、船を停泊させるための杭が打たれている島はカシシマと呼ばれ、それが常陸国ではカシマに転訛したという説もあり、鹿島周辺には現実的に良港が存在し、杭を打てる場所が多いことから注目されています。鹿島の読みにも注視する必要があります。鹿島は元来、「かしま」ではなく、「かぐしま」と呼んでいた可能性が高いのです。常陸国風土記に記載されている高天原より降臨した香嶋天の神をあげ、その香島という名前は、元来「かぐしま」という読みが正しく、常陸国でも同様に読まれたと考えられることが挙げられています。また、古事記では鹿の神を天迦久神(あまの「かく」のかみ)と呼び、鹿の愛称は「かご」であったこと、武甕槌神が天香山近郊の出身であること、また、鹿嶋は香しい島であることから「かぐしま」と呼ばれるようになった可能性があることも考慮する必要があります。もしかすると鹿児島という読みの由来も、元来は香島という綴りに関連し、いつしか香の読みに鹿児があてられたのかもしれません。また、「かぐしま」という読みの語源が、ヘブライ語であるという説にも注目です。「カグ」という言葉はヘブライ語で、(khagur、カグー)、体に巻く、身にまとう、締める、用意をする、等を意味します。次に「シマ」は(shi m u r、シムー)は、保護、管理、保存を意味する言葉です。それ故、2つの言葉を合わせると、「カグシムー」となり、直訳では「保護を身にまとう」、つまり「保護管理体制を敷く」という意味になります。日本列島の東海岸沿いにある最重要拠点として、列島の保護管理体制を固めるための監視塔となる拠点が鹿島でした。それ故、古代の民は鹿島を当初、「カグシムー」と呼び、その名前に香島という漢字が当てられ、「かぐしま」と読まれるようになった可能性があります。レイラインから見出された鹿島の聖地古代の民は日本列島の島々を見いだし、そこに拠点を築くためにレイラインと呼ばれる拠点同士を結ぶ線を複数、活用しました。天体を主な指標としながら自らの位置付けと地勢の在り方を理解したと考えられる古代の民は、いつしか、一定の緯度間にその行動範囲を留めることになります。それは、単に新天地における気候に適応するだけでなく、天体観測をするにあたり、慣れという課題もあったからではないでしょうか。特に古代の民は9緯度を重視していました。西アジアから渡来したイスラエルの民にとって、その緯度の範囲に収まる日本列島の場所は、最南端が九州の鹿児島、北の境界は関東北部の群馬や茨城、そして長野県などです。数多く存在する列島内の拠点の中でも、鹿島神宮の存在は緯度の北限に近く、しかも列島の最北端にあたることから、極めて重要です。では、その場所をどのように特定できたのでしょうか。日本列島には縄文時代前期には諏訪湖周辺に大きな集落が造成されていました。列島の中心にある淡路島から見て、夏至の太陽が昇る方向にピタリと位置し、諏訪湖という水源と温暖な盆地の気候から察するに、古代の民はその場所を好んだと考えられます。その後、伊弉諾尊による国生みの時代では、列島の島々が特定され、淡路島がその中心の置かれました。伊弉諾尊が自らの墓地として厳選した伊弉諾神宮の場所は、レイラインを理解する上で、最も重要な拠点の1つです。また、イスラエルの民は、エルサレム神殿と同緯度の場所を重要な指標としたのではではないでしょうか。それが、中甑島のヒラバイ山です。本州の太平洋側に船を着岸させて、港町を構築するための拠点を見つける為に用いた指標となる拠点が、このヒラバイ山と、日本最高峰の富士山です。その2つの拠点を結ぶ線を北東方向-3-に伸ばすと、鹿島を通り過ぎます。そのレイラインと鹿島の沿岸がぶつかる場所が、特定されたのです。これも偶然なのでしょうか。その場所は、古代集落が造成されていた阿久遺跡に隣接する諏訪大社前宮と全く同じ緯度に存在します。また、伊弉諾神宮から見て、夏至の太陽が沈む方向の先にある出雲の地も重要でした。何故なら、伊弉諾神宮を中心として、出雲大社と諏訪大社が夏至の太陽によって結び付けられるだけでなく、諏訪大社と同緯度にある鹿島神宮も、そのレイラインの仲間に入れることができるからです。実際、鹿島神宮、諏訪大社、出雲大社の著名な神社は、神剣という深い歴史の絆を共有していたのです。また、石上布都魂神社の拠点も重要です。武甕槌神が天皇に献上した神剣霊剣は、鹿島に戻ることなく久しく宮中に保存され、その後、石上神宮に移設されます。石上布都魂神社と石上神宮を結ぶレイラインは、伊勢の猿田彦神社の上をピタリと通り抜けることから、これらの拠点同士が重要な意味を持っていると考えられます。石上神宮の境内には摂社の1つとして猿田彦神社が祀られているのも偶然ではありません。猿田彦の背長は7尺と言われ、巨人でした。武甕槌神の神剣霊剣は実物こそ行方はわかりませんが、鹿島神宮に保存されているレプリカの国宝は3m近くもの長さになります。もしかすると、猿田彦が一度は手にした剣であったかもしれません。また、石上布都魂神社は、四国剣山ともレイラインで結び付き、剣山は伊弉諾神宮を通じて神宝と深い関わりのある六甲山と繋がっています。日本の中心地とされた淡路島や、イスラエルの首都、エルサレムに結び付くレイライン上に位置する諏訪大社や守屋山、阿久遺跡と同じ緯度に鹿島が存在することは、偶然とは言えません。古代の民は海を渡って諏訪湖周辺に到達する為に、内地への入り口となる港を必要とし、目的地と同じ緯度にある海岸沿いに、島の入り口となる岬を見出したのです。天体を観測しながら旅をしていた古代の民にとって、同緯度の場所を行き来することはわかりやすく、鹿島に到達し、そこから真西に進むことにより、迷うことなく諏訪湖周辺の集落に辿り着くことができたのです。こうして鹿島は、内地へと繋がる列島の港玄関として発展し続け、武甕槌神の本拠地として、そこに鹿島神宮が建立されるに至りました。(文・中島尚彦)連載中の歴史コラムは随時更新してhttp://www.historyjp.com/に掲載しています。是非、ご覧下さい。