ブックタイトルvol_153
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vol_153
2014年(平成26年)7月26日発行第153刊毎月第3土曜日発行購読無料真名井遺跡ひすい製勾玉※2来者らが海人であり、大陸からの渡航者であることを象徴しているのかもしれません。その後、第10代崇神天皇が即位した前1世紀、時代が大きく動きます。前95年、都が三輪山の麓に遷都した直後から全国的に疫病が蔓延し、国家が危機に直面したのです。宮中に祀られていた天照大神は「同床共殿」と伝承され、それまでは皇祖神として宮中に祀られていました。ところが、その神威を畏れた天皇は、「八咫鏡」を皇居の外に移す決断をしたのです。そして当初、神宝は皇女である豊鍬入姫命に託され、一時、大和の笠縫邑(現在の檜原神社)に祀られることになりました。その後、理想の鎮座地を求めて各地を転々と遷座することとなり、80年以上の長い年月をかけて最終的に垂仁天皇の時代、倭姫命によって現在の伊勢に鎮座したのです。その結果、多くの元伊勢と呼ばれる、天照大神が一時的に祀られた神社や場所が存在することになりました。そして今日まで「八咫鏡」は、伊勢神宮の内宮に奉安され続けています。「八咫鏡」の名称は、鏡の大きさを示しているのではないかと言われています。日本では一尺は30cm、その十分の1が一寸、すなわち約3cmとなりますが、後漢基準の度量衡によると、一尺は23cm、一寸は2.3cmです。咫とは円周の単位であり、径1尺の円周を4咫としていました。「八咫鏡」の径を文字通り八咫とするならば、その長さは2尺、およそ46cmとなります。また、径1尺の円周は3.14尺であり、それが4咫と等しくなることから、1咫は0.785尺と考えることもできます。すると、一咫はおよそ18 cmとなり、その8倍となる八咫の円周は約144cm、それを円周率で割ると46cmという径になります。もし、「八咫鏡」の直径が46cmもあるとするならば、それはとても大きな鏡を意味します。これまで国内で発掘されてきた銅鏡の面径は20cm前後が一般的で国宝「直刀」金銅黒漆塗平文拵附刀唐櫃※3す。しかし実際、直径が46.5cmもある大型内行花文鏡とよばれる青銅鏡も発見されていることから、「八咫鏡」が同等の大きさであった可能性も否定できません。「八咫鏡」がユダヤルーツであるという噂が絶えない理由は、その大きな円形の鏡の裏にヘブライ語が記されているという証言が複数、言い伝えられてきたからです。文部大臣(現在の文部科学省)のコメントを含め、これまで複数の証言が語り告げられ、実際に見たという人は、鏡のスケッチや文字の詳細までも書き残しています。しかし、誰もが公に名乗り出なかった為、内容を検証する術もなく、信憑性は定かではありません。また、半世紀程前の「東京イブニングニュース」紙には、「八咫鏡」とヘブライ文字の実態について三笠宮殿下が調査すると報じられましたが、その後、殿下からは何ら音沙汰がなかった為、真相は謎に包まれたままです。それらの証言による、「八咫鏡」の裏には「エヘイェ・アシェル・エヘイェ(我は在りて有る者)」という旧約聖書の出エジプト記に書かれているヘブル語が刻まれているということです。今日、その噂を確認することは極めて難しいことです。それを確認できるのは、天皇陛下しかいないのではないでしょうか。そして結論を既に御存知でおられることから、不用意に発言できないのかもしれません。火のない所に煙は立たずと言われるとおり、ユダヤルーツである可能性が残されているのです。「八尺瓊曲玉」がユダヤルーツである理由天岩戸にて天照大神を誘い出す為に作られた「八尺瓊曲玉」も、「三種の神器」のひとつとして極めて重要な役割を果たしてきました。「八尺瓊曲玉」は神の御魂を象徴し、天皇が保持することにより皇位の証となる神宝でもあることから、今日まで宮中にて祀られてきたのです。「神璽」とも呼ばれる「八尺瓊曲玉」の歴史は古く、天岩戸の事件以前にも「八尺瓊曲玉」と呼ばれる曲玉は既に存在しました。スサノオが高天原に住む姉の天照を訪ねた際、スサノオを恐れた天照は「八尺瓊の五百箇御統」(イオツミスマル)と呼ばれる曲玉を、みづらや鬘、そして両手に巻きつけ、千本の矢を背負ってスサノオを迎え討とうとした、という記述が日本書紀にあります。天照大神にとって「八尺瓊曲玉」は、自らを守護するための御守りだったのです。2神の出会いの後、天照大神の首にかけられていた「八尺瓊曲玉」は、スサノオが剣の代わりに取得して噛み砕いてしまいますが、スサノオが再度、天上に昇ろうとした時には、羽明玉の神が別の曲玉をスサノオに献上しています。そして天岩戸事件の際には天照大神を岩屋から誘い出す為に、玉造りの遠祖である伊弉諾尊の子、天明玉を中心とする職人集団が新たに「八尺瓊曲玉」を作り、それが「三種の神器」のひとつとなったのです。「曲玉」は石を磨いて作った装身具のことです。天岩戸の物語においては「曲玉」は、護身用として複数が紐で結ばれ、複数の曲玉からなる宝であったことから、「八尺瓊の五百箇御統」と呼ばれました。「三種の神器」のひとつに数えられる極めて重要な宝であるだけに、その名前の意味は極めて重要です。「八尺瓊曲玉」の「ヤサカ」は、長さの単位を意味する「咫」(あた、さか)を語源として、「八尺」「八坂」という漢字があてられたのではないかと言う説があります。前述したとおり、「八尺」はおよそ144cmです。よって「八尺瓊曲玉」は、とても大きな曲玉を意味することになります。しかし、「八咫鏡」の円周が144cmであることは理解できても、首飾りや手首周りにつける装身具としては考えられないサイズです。よって、「八尺」とは「五百箇御統」の緒の長さであると解釈したり、単に大きい曲玉という意味に捉えたり、更には「弥栄」(いやさか)が転じたものであるという説もあります。また、「五百箇」は数の多いことを意味し、「御統」は、それらを緒に貫き、まとめて紐で環状に繋いで首や腕に巻くことができるようにしたものであるという説があります。そして首飾り状のように統一することから「スマル」と呼ぶようになり、そこに神宝としての敬語である「御」をつけて、「ミスマル」と呼ぶようになったというのが、ごく一般的な解釈のようです。「八尺瓊」と「五百箇御統」という言葉は、実はヘブライ語の名称であることから、原語での意味を知ることにより、神宝の大切な働きを理解することができます。「ヤサカ」はヘブライ語で「神を見る」、「神に期待する」を意味する言葉です。また、ヘブライ語で数字の5は、(heh、へ)、「飾り物」は、(ot、オッ)、そして「御守り」、「守護」を意味する言葉は、(mishmar、ミシュマル)です。この3つのヘブライ語を合成すると、(ヘオツミシュマル)となり、その発音は「イオツミスマル」とほぼ同一です。「五百箇御統」という名前には、ヘブライ語で「五連飾りの御守り」という意味が込められていたのです。そして、それとほぼ同一の意味を持つ漢字があてられ、「五百箇御統」と書かれるようになったのです。「五百箇御統」とは、外敵から身を守るための5連の曲玉からなる御守りの意味です。そして神の救いに大きな期待を込め、神の御加護を信じた結果、「ヤサカ」という言葉で曲玉を形容し、「八尺瓊の五百箇御統」という名称が生まれました。大きな5個の「八尺瓊曲玉」を紐に通して輪にし、敵から身を守るために身につけた御守りが「八尺瓊の五百箇御統」です。天照大神自ら護身用として、その御守りを身に纏いました。身の安全を守る約束の印が「八尺瓊の五百箇御統」であることを、ヘブライ語から察することができます。「草薙剣」と十握剣のルーツ「草薙剣」は「三種の神器」のひとつとして有名ですが、その他にも、神剣に関する記述が記紀には多数見受けられます。神剣の種類は草薙剣の他に、十握剣と、それよりも短い剣に分けられます。十握剣については国生みの時代まで遡り、剣を身に帯びた伊弉諾尊は、その剣を振り下ろして火の神として知られる軻遇突智(かぐつち)を3つに斬り、そこから神々が新たに生まれたとされています。伊弉諾尊は高天原から降臨された神であることから、十握剣とは高天原、もしくは神々が高天原へ到来する以前に、大陸にて作られたことになります。十握剣とは、元来、神の力の象徴となる聖剣でした。それ故、スサノオが到来した際、天照大神ご自身も「八尺瓊曲玉」を身に纏うだけでなく、更に十握剣、九握剣、八握剣などを身に帯びて、剣の柄を堅く握りながらスサノオと対面したのです。スサノオ自身もその際、十握剣を所有していました。そして、それを見た天照大神より求め取られることになります。もしかしてスサノオの十握剣は、父、伊弉諾尊から譲り受けた、由緒ある剣であったかもしれません。そして最終的には八岐大蛇を退治する際に、スサノオは身につけていた十握剣をもって大蛇を斬ったのです。そのスサノオの十握剣は、神の力を極めた神剣であり、布都御魂剣とも呼ばれています。その神剣は当初、石上布都魂神社に奉納され、その後、奈良の石上神宮に奉斎されました。十握剣とは異なり、「草薙剣」はスサノオが大蛇の尾から取り志谷奥出土銅剣集合※2出した剣であることから、その出自は一線を画しています。出雲国の川の上流にて八岐大蛇と一騎打ちしたスサノオは十握剣をもって大蛇を斬り、その尾から見つけたのが「草薙剣」です。そしてスサノオはその剣の素晴らしさに感動し、「是、神しき剣なり」と語り、天照大神に献上しました。前述したとおり、八岐大蛇とは大陸から到来した巨船を象徴している可能性があります。その前提で歴史を見直すならば、八岐大蛇と呼ばれた巨船の中から見出された「草薙剣」こそ、大陸より船によって運ばれてきた由緒ある神聖な宝物ではないでしょうか。「草薙剣」については、大蛇の尾に秘められていたということから、その起源を知る由がありません。しかしながら、大陸より人々が渡来して、日本の古代史が大きく展開し始めたと仮定するならば、「草薙剣」の出所も、アジア大陸に由来すると考えて何ら不思議はありません。更には歴史を遡り、古代イスラエルの族長時代、アブラハムらが所有していた杖、もしくはモーセやアロンが用いた神の不思議を実現する「アロンの杖」であった可能性も残されているのではないでしょうか。何故なら、イスラエルの神宝として一目置かれていた「アロンの杖」は、歴史に埋もれてしまい、その所在がわからなくなってしまったからです。「草薙剣」は一時、「八咫鏡」と一緒に伊勢にて宝蔵されていました。そしてヤマトタケルが東国を平定するために旅立つ際、伊勢神宮のヤマトヒメが、その剣をヤマトタケルに授けています。ヤマトタケルが亡くなった後、「草薙剣」は尾張の地へもたらされ、熱田神宮にて祀られました。今日でも「草薙剣」はそこで祀られているとういう説もありますが、熱田神宮では668年に草薙剣盗難事件が勃発し、新羅の僧により一度、「草薙剣」が盗難されてしまったという史実が記録されています。その後、宮中で一時期保管され、686年に一旦は熱田神宮に戻ってきたことになっています。しかしながら、それ以降、同じ場所に収蔵され続けたかどうかは疑問です。宮中では「草薙剣」や「八咫鏡」に分身、つまりレプリカが祀られているように、盗難を避けるために熱田神宮でも、レプリカが奉納された可能性があります。外的からの攻撃に対して、ほぼ無防備に近い熱田神宮周辺の立地※2画像提供島根県立古代出雲歴史博物館※3画像提供鹿島神宮-2-