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概要

vol_153

vol. 153条件を考えると、本物の草薙剣をそこに長期間に渡り収蔵し続けるとは考えづらいのです。「草薙剣」の真相は、歴史の渦の中に秘められたままになっています。イスラエルにも存在する三種の神器1981年、「レイダース失われた《聖櫃》(アーク)」という映画が世界的に大ヒットしました。この映画は、シナイ山頂で神がモーセに語った十戒を書き記した石の板が収蔵されている「契約の箱」の行方を探し求めるアドベンチャーの物語です。聖櫃とも呼ばれる「契約の箱」は紀元前7世紀ごろ、北イスラエル王国と南ユダ王国の崩壊とともに姿を消し、未だに発見されていません。歴史の謎に包まれた聖櫃であるだけに、その秘蔵場所を見出す為に、これまで無数の人々が世界中を散策し、多くの物議を醸してきました。それほどまでに聖櫃と神宝はイスラエルの歴史において注視され続け、特にユダヤ教やキリスト教の信者にとっては重要な意味を持っていました。聖櫃は、イスラエルの民が聖地、エルサレムに辿り着くまでは、幕屋と呼ばれる簡易的に移動できる場所の中に置かれていました。そして聖櫃の側面には金属のリングが設けられ、移動する際にはこのリングに2本の長い木の棒を通して運ぶことが義務付けられていました。その外観は日本の御神輿に大変よく似ています。つまり、日本の御神輿を担ぐのと同様に、複数の人々が棒を肩にかけて担いで移動しながら、聖櫃は遠く離れた荒野からエルサレムまで運ばれたのです。そしてエルサレム神殿に設けられた「至聖所」と呼ばれる大祭司しか入ることの許されない最も神聖な場所に一時期、奉安され、イスラエルの民は神を拝し祀っていたのです。聖櫃と呼ばれる契約の箱には、実際に3種類の神宝が収蔵されていたと語り継がれています。新約聖書のヘブライ人への手紙を見ると、「そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナの入っている金のつぼと、芽を出したアロンの杖と、契約の石板が入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。」(9章4-5節)と明記されています。イスラエルの民は遠い昔から、これら3種類の神宝を聖櫃に収蔵し、祭祀活動の基点としていたのです。そして聖櫃のそばにはモーセ五書が常に置かれ、仮庵祭ではその巻物が取り出されて、朗読されました。神の王座の象徴である聖櫃に、契約が彫られた石板と、アロンの杖、金で鋳造されたマナの壺が収蔵されていたことから、イスラエルにも「三種の神器」が存在したと言って、間違いはなさそうです。しかしながら、ダビデ王の子、ソロモン王がエルサレム神殿を建設し、そこに聖櫃を安置した際には、それらのうち、アロンの杖とマナの壺は既に紛失していました。歴代誌下5章に、「箱の中には石の板二枚のほか、何もなかった。」と記載されているとおりです。どこに持って行かれてしまったのでしょうか。巡りめぐって、それらイスラエル神宝が日本に持ち込まれた可能性はあるのでしょうか。果たしてイスラエルの神宝は、皇室のシンボルである「三種の神器」と関連性があるのでしょうか。イスラエル神宝の形状や、それらの存在目的は、「八咫鏡」、「草薙剣」、そして「八尺瓊曲玉」に類似している点が多いことからしても、日本固有の神宝と考えられていた「三種の神器」のルーツは、再考の余地がありそうです。「八咫鏡」と「契約の石板」については、形状や材質は違うものの、薄い板状のものであることには変わらず、また、神の戒めである十戒を彫った石の板は心の指針であり、鏡は自らの姿を見て、心をも映すものであると考えられること等の主旨にも、類似点を見出すことができます。もし本当に「八咫鏡」の裏にヘブライ語で文字が書かれているとするならば、それが何よりも、ユダヤルーツの証拠となります。しかしながら「八咫鏡」に強い関心を持っておられた三笠宮殿下も、今や沈黙を保たれたままであることから、真相を解明することが難しくなりました。次に「八尺瓊曲玉」と、イスラエルの民が40年もの間、荒野で旅をしていた時に、神が天から与えたマナという甘いパンのような食べ物を入れる「金のつぼ」とを比較検討してみました。まず、「八尺瓊曲玉」の形状については、「金のつぼ」よりもむしろ、モーセがアロンに胸掛けを羽織らせた際、その中にいれたウリムとトンミムという小さな石に類似していると考えられます。それはイスラエルの祭司が神に近付き、神の答えを必要とするときに身に纏うようになったものです。ところが、北イスラエル王国と南ユダ王国が滅びた後、イスラエルの伝承によると、ちょうど時を同じくしてウリムとトンミムは用いられなくなりました。もしかして、それらは国外に持ち出され、日本において「八尺瓊曲玉」の基になった可能性があります。また、「金のつぼ」はマナを収納する容器ですが、それは神の救いの象徴という点において「八尺瓊曲玉」と共通しています。イスラエルの民は、神からマナを与えられることにより、飢えから救われ、生き延びることができたのです。よって、マナは神の救い、そのものであり、それを収納する「金のつぼ」は、神の御加護を象徴します。その意味において、曲玉を連ねた「八尺瓊曲玉」も同様に、神の救いにより頼む御守りの象徴であることは、注目に値します。アロンの杖と草薙の剣の関連性契約の箱の中には十戒が刻まれた「契約の石板」と「金のつぼ」以外に、イスラエルの民がエジプトを脱出する際にモーセが海を分けて、民が逃げ伸びる道を作った時に掲げた奇跡の杖が秘蔵されていました。この神の杖をもってモーセはエジプト王の前で、それを一瞬にして蛇に様変わりさせるような奇跡を起こしたのです。その後、杖はアロンに手渡されたことから、「アロンの杖」と呼ばれるようになりました。西アジアで放牧民であったイスラエルの民にとって、家畜を養うために日々、使用する杖は権威の象徴もありました。その杖に神の力と権威が付加されたのが「アロンの杖」だったのです。どの時点で、「アロンの杖」が聖櫃の中に納められるようになったかは定かではありません。聖櫃がエルサレム神殿に正式に収蔵されたのは、ダビデ王の子であるソロモン王の時代であることから、アロンの杖が聖櫃の中に納められるようになったのは、その時代からとも考えられます。イスラエルの過越祭で読まれるハッガーダーの伝説によると、「アロンの杖」のルーツは創生記の時代まで遡り、アダムからエノク、アブラハム、イサクそしてヤコブへと手渡されたということです。そしてエジプトにてヨセフが宰相の地位を得て国家を統治した後、モーセの義父エテロがその杖を地に差し、誰もその杖を地の岩から抜くことができませんでした。その後、モーセは杖に書いてある神の名を唱えて杖を地から抜き取り、神の命に従ってイスラエルの民をエジプトから脱出させ、約束の地へと導きました。そして「アロンの杖」は聖櫃と共に移動し、最終的に前7世紀、南ユダ王国のヨシヤ王の時代に国家の滅亡を察知した王により、聖櫃と、その中に奉納されていた神宝はどこかに移設され、メシヤが到来して預言者エリヤが公開するまでは、秘められることになったと言われています。聖書解釈の権威でもあるミドラーシュでも、ヤコブの杖とユダがタマルに与えた杖は同一であり、-3-尚かつ、それがモーセの杖であり、「アロンの杖」となったことが証されています。その後、杖はダビデに引き継がれ、ダビデはその杖をもってゴリアテと呼ばれた巨人を斬ったと語り継がれてきました。そして「アロンの杖」は王権を象徴する王笏として、ダビデ王の時代以降、代々の王によって重宝されたと記載されています。ここでまず注目したいことは、南ユダ王国が滅亡する直前に、「アロンの杖」がどこかに隠されたという伝説が存在したことです。日本の国生みは、南ユダ王国が崩壊する時期と重なり、当時、西アジアを脱出して列島まで渡来した民が少なからず存在したと考えられることから、「アロンの杖」が日本に持ち込まれた可能性が見えてきます。また、「アロンの杖」は、実際にはゴリアテを斬ることができるほどの鋭い剣であり、多くの奇跡を成し遂げたことからしても、「草薙の剣」の働きと類似しています。次に、「草薙剣」という言葉に注視してみました。「くさなぎ」という言葉は一見、日本語のように聞こえますが、草を薙倒したことから「草薙」と命名されたというのは、こじつけのようであり、いささか不自然です。もしかして「草薙」は(Cush Nagid、クシュナギッド)というヘブライ語に由来している可能性があります。するとヘブライ語での意味は、「クシュの王子」となります。「クシュ」とは古代、エジプト南方からエチオピア周辺の地域に存在し、クシュ人はそこからアラビア、バビロン、ペルシャへと移動したと言われる、いわゆる人類祖先の地です。通説によると、東北アフリカにて人類の祖先は誕生したと言われ、それはエチオピア周辺の大湿地帯の周辺であった可能性が指摘されています。既に15万年前と推定される最古のサピエンス人骨がエチオピアで発掘され、また、昨今のミトコンドリアDNA解析においても同時期、アフリカにおいて現代人の共通祖先が存在したということがわかってきました。更に、最も古いと言われるヒト科の化石もエチオピアで発見され、類人猿から直立歩行した猿人への進化が500-600万年前頃ではなかったかとも推定されるようになりました。その人類最古の人々が存在した東北アフリカの地域に移住したのが、旧約聖書に登場するハムの息子、クシュであり、ノアの孫にあたります。よって、エジプトの南部からエチオピア周辺の地域は「クシュ」と呼ばれるようになったのです。もし「アロンの杖」が「クシュナギッド」(草薙)であったとするならば、イスラエルで語り継がれてきたハッガーダーの伝説の通り、「アロンの杖」のルーツが人類の創生にまで遡り、「クシュナギッド」として元来、人類最古の民が住まう地に由来する王子の剣であったと考えることができます。その後の歴史において、「クシュナギッド」とも呼ばれた最古の神剣は、モーセ、ヨシュア、ダビデ王らに引き継がれ、奇跡的に日本にまで運ばれた後、スサノオが手にして、天照大神に献上したと想定してみてはどうでしょうか。草薙剣はユダヤルーツとの関わり合いがあるだけでなく、イスラエルの伝承が証するように、人類の最古の霊剣として、世界で最も由緒ある、偉大な神宝であった可能性を秘めています。イスラエルの神器は「契約の箱」と呼ばれる聖櫃に収納されて移動しましたが、その契約の箱と酷似した形状である神輿が日本全土に普及している事実からして、遠い昔、大陸より何かしらの神器が日本列島に持ち込まれ、神輿によって担がれながら移動した可能性があります。「契約の箱」はイスラエル神宝と深く関わっているだけに、「八咫鏡」を含む「三種の神器」とイスラエル神宝が関連しているという指摘は絶えません。失われた「契約の箱」は2600年以上、行方がわからないままになっています。イスラエルの10部族からなる北の王国が紀元前722年に、そして2部族からなる南ユダ王国が紀元前586年に滅亡するまでの間、国家が崩壊していくプロセスの中で、聖櫃がいつの間にか姿を消してしまったのです。ちょうど時期を同じくして紀元前7世紀ごろ、日本列島においては神武天皇を初代天皇とする新しい時代が始まりました。そして天孫降臨と共にもたらされた神器をもって皇位が保証され、国の歴史が育まれていったのです。また「契約の箱」は、ヘブライ語の原語において「船」という意味を持っていますが、日本でも神器を収める御器を「御船代」と呼ぶのは、偶然とは思えません。そしていつしか日本の島々では、各地で人々が神を祀り、お祝いをする際には神輿が担がれるようになり、群集が大声で「ヨイショ」と掛け声をかけながら、力の限り大地を巡り回ったのです。その神輿こそ、聖櫃を基にデザインされたものに他なりません。イスラエルが崩壊した直後、突如として神宝を携え、神を祀ることを常とする人々による新しい国の歴史が、アジア大陸の東のはずれに浮かぶ島々で始まりました。この見事なリズムの背景には、「日本とユダヤのハーモニー」のメロディーが込められているように思えてなりません。(文・中島尚彦)