ブックタイトルvol_154
- ページ
- 1/4
このページは vol_154 の電子ブックに掲載されている1ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは vol_154 の電子ブックに掲載されている1ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
vol_154
2014年(平成26年)8月16日発行第154刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 154Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~19:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部伊勢神宮のレイライン列島の重要拠点を網羅する屈指の古代聖地2013年、伊勢神宮は20年ごとに到来する式年遷宮の祭りに沸きました。式年とは定められた年のことであり、遷宮とは神社の正殿を造営・修理するために御神体を遷すことを意味します。よって、式年遷宮は社殿を造り替えるために執り行われる、20年に一度の大祭を指します。式年遷宮のしきたりは飛鳥時代に天武天皇が定め、7世紀後半、持統天皇の時代から始められました。そして古来より伊勢神宮では、内宮や外宮の正殿だけでなく、別宮も含む全ての社殿を造り替えてきたのです。その際、建物だけでなく、鳥居や御垣、殿内の装束や宇治橋、そして日用の調度品も含め、全てを新しくした上で、御神体を新宮へ遷してきました。その式年遷宮の年を迎えた2013年は、正に伊勢神宮の年であり、一生に幾度と見ることができない遷宮の優雅な式典を満喫できる天与の機会として、多くの参拝者で賑わいました。日本国民に愛され、皇族が最重要視する神社のひとつとして名高い伊勢神宮の歴史は古く、日本書紀や古事記に含まれる様々な記述から、その由緒や造営された背景、場所などを知ることができます。そして地理的な事柄や史実に注視しながら、列島内に見出された重要な古代拠点の地理的な相互関係を確認し、できるだけ古代人の目線に立って列島の地勢を見渡すと、ふと、古代のレイラインが伊勢を中心として構成されていることに気が付きます。そこには思いのほか、伊勢神宮と、その遙宮である伊雑宮を中心とする複数のレイラインの存在が確認され、それに結び付く古代の聖地や列島内の目印となる大自然の指標との関連性が手に取るように見えてくるのです。これらの指標や拠点は、偶然一直線上に繋がっているとは到底思えず、むしろ意図的に選別された山々や岬との繋がりを大切にして厳選された拠点だからこそ、結果として地理的に一直線上の繋がりを持つようになったと考えられます。伊勢神宮に絡む古代のレイライン上には、伊勢神宮と伊雑宮に紐付けられた列島内の指標や拠点となる聖地が複数存在します。それらの位置付けや意義を検証することにより、どのようにして伊勢の聖地が見出され、国内屈指の聖地として台頭することになったのか、その経緯が少しずつ理解できるようになります。レイラインの考察から、古代史海沿いに厳選された古代の聖地古事記や日本書紀に記載されている国生み神話には、現存する多くの地名が登場します。伊耶那岐命に導かれた一行は、列島の隅々まで航海しながら島々の名前と位置を特定しました。その後、人々が集落を形成した海沿いの地名だけでなく、海峡の名前までも明記されています。例えば日本書紀の神代では、伊耶那岐命が葬られた場所である紀伊の熊野だけでなく、伊耶那岐命が穢れをすすいで禊をするために訪れた筑紫日向の地名も記されています。また、粟門と速吸名門を船で渡る記述も含まれています。潮流の速いことで知られるこれらの海峡は、前者は淡路島と阿波国の間にある鳴門海峡、後者は佐田岬と佐賀関の間の豊予海峡、もしくは明石海峡と言われています。つまり、瀬戸内海を中心に船で行き来していた地域が神代の舞台の中心であり、それだけに、古代社会は海人文化が主流であったと言えるのです。そのため、記紀の神代に関わる記述には、海峡をはじめ、海に関わる内容が複数含まれています。また、韓国(からくに)や新羅という朝鮮半島の地名も登場し、出雲との行き来も古代より頻繁にあったと想定され、大陸との交流も無視できません。古代の歴史は海人が立役者であったと言っても過言ではない理由を、記紀の記述から理解することができます。その後、実際に神々が鎮められた場所として、沖津宮、中津宮、辺津宮からなる宗像、宇佐、紀伊の日前、出雲、尾張などの聖地の名前が記紀に名を連ねます。これらの地名は全て実存するだけでなく、海沿いや島に存在することに注目です。日本建国の民は大陸より海を渡って列島を訪れた訳ですから、最初に船を着岸させるに相応しい港の候補地を見つけることが重要でNCJ109日本とユダヤのした。よって、神代に特定されハーモニーから続くた古代拠点の中でも歴史の古い聖地の殆どが、海岸から近い場所に位置しているのです。例えば熊野においては複数の聖地が存在しますが、その中でも東アジア史を塗り替の謎えたイスラエルが解き明かされていきます。民族最も大古い移拠点動は神の倉山潮です。そ流こは古代、海岸線が隣接し、すぐそばに船を着岸させることができました。宗像や鹿島、出雲、日向などの拠点も、全て海沿いです。古代の渡来者は日本列島の海岸線沿いに拠点を見出した後、その拠点から徐々に、内陸に向けて足を運び始め、集落を形成したと考えられます。同様に古代における伊勢の発展は、神代における最古の港のひとつである伊雑宮の周辺の伊雑ノ浦から始まり、その後、長い年月を経て伊勢神宮が造営されたと考えられます。伊雑宮は伊勢神宮の内宮より11km程離れており、古代では伊雑ノ浦の海岸沿いに面したと推測されます。伊雑宮の創設に関する歴史的背景は不透明ではあるもの、最終編後述するレイラインが証するように、列島内で際立つ自然の地勢のみを指標として結ばれるレイラインから見出された拠点であることから、その歴史は大変古いことがわかります。最古の拠点のひとつであるが故に、レイラインを構成する指標の中には人の手で造営された聖地が含まれず、自然界の地勢だけを頼りに、伊雑宮の場所が特定されたことは明らかだからです。伊雑宮の歴史は伊勢神宮をは伊雑宮のレイライン佐多岬日向(宮崎)-1-Part.II出雲大社29°37′八雲山石鎚山石上布都御魂神社足摺岬るかに遡り、熊野と共に紀伊半島における最古の聖地のひとつとして重要な位置を占めました。その伊雑宮の存在を背景に、複数の聖地と結びつく特別な場所が伊雑宮に隣接する伊勢に特定され、伊勢神宮は造営されました。そして伊勢神宮は伊雑宮にとって代わり、後世においてその名を知らしめることになります。そこでまず、伊勢という場所がなぜ、古代にて注視されたか、その背景に潜む伊雑宮の重要性と、その場所に紐付けられた地の力の意味を、レイラインから検証してみることにします。その上で、伊勢神宮の聖地が特定された根拠を、伊勢神宮を中心とするレイラインから考察してみましょう。伊雑宮のレイライン伊勢神宮のレイラインを考察するにあたり、まずその基となる古代の聖地、伊雑宮の地が、どのようにして見出されたかを理解することが不可欠です。そのためにまず、伊雑宮のレイラインを検証する必要があります。伊雑宮が位置する伊勢志摩の地域が重大な聖地として歴史の流れの中に台頭した理由は、レイラインの実態を見極めることにより、明確になります。古代、南西諸島から九州、四国を経由して北上してきた渡来者の一行は、船を着岸させるために相応しい港の候補地を特定する必要がありました。その際、岬や山など、誰が見てもわかりやすい自然の地勢を見出し、渡航者の指標として定めながら、船を着岸させるための港を築いたのです。その結果、伊勢周辺の玄関として、伊雑ノ浦の沿岸が注目され、そこでは港が造られただけでなく、古代の祭祀活動も執り行われ、剣山六甲山石宝殿伊弉諾神宮神籬石小松島(日峰)室戸岬石上神宮大神神社熊野本宮大社大斎原三輪山神倉山紀伊大島熱田神宮(尾張)神島伊勢神宮伊雑宮時代を経て近隣には伊雑宮が造営されました。こうして伊雑宮は、伊勢神宮の聖地が特定される為の基となったためと考えられるのです。では、レイラインをどのように用いて、伊勢の原点となる伊雑宮の地を見出したのでしょうか。南西諸島から船に乗って北上してきた古代の渡来者は、屋久島を超え、九州の南に到達した際、まず、九州の最南端に姿を現した佐多岬に注目したことでしょう。そこから日本最高峰、富士山に向かって進む道、すなわち佐多岬の先端より富士山に向けて一直線を引いた線上が、旅の指標として重要な役割を果たすことになります。その線は、紀伊半島の白浜から尾鷲、志摩を通り抜けて、富士山の頂上南側へ到達するからです。白浜、尾鷲と志摩は、どれも入江を含む自然の地形に恵まれていたことから、港を構築するに相応しい立地条件を備えていました。よって、これらの場所には人が早くから住み着き、集落を形成しながら発展していくことになります。中でも真っ先に注目されたのが、佐多岬と富士山を結ぶレイライン上に存在する志摩の伊雑ノ浦でした。そこは複数の重大なレイラインが交差する中心地点でもあり、列島の地の力を結集する聖地として、古くから祭祀活動が執り行われ、伊雑宮が造営されるに至ったと考えられます。その伊雑宮の場所を特定するために用いられたのが、四国富士山古代の聖地である伊雑宮鹿島神宮鹿島次頁に続く