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概要

vol_154

2014年(平成26年)8月16日発行第154刊毎月第3土曜日発行購読無料多気度会郡斎宮斎王宮跡多気郡伊勢神宮の周辺図の南方に際立つ足摺岬と室戸岬を結ぶ、2本目のレイラインです。太平洋沿岸を航海する民にとって、長く大きな岬は、重要な海の指標でした。ふたつの岬の頂点を結んだ延長線を九州方面、南東方向に伸ばすと、古代の日向、宮崎市の北方にあたります。そしてこの線を真っすぐ北東に伸ばすと、紀伊半島の伊雑ノ浦周辺で佐多岬と富士山を結ぶレイラインと交差し、それから鹿島を通り抜けます。これら2本のレイラインが交差する場所に伊雑宮が造営されているのは、単なる偶然ではないでしょう。その証として、伊雑宮が聖地化された背景には、さらに2本のレイラインが存在します。まず、注目すべきは、紀伊半島最南端の紀伊大島の存在です。南方から航海すると、必ずその近海を通り抜けますが、その紀伊大島の最東端が重要であることは、その真北に大神神社と石上神宮が並ぶことからしても理解できます。その紀伊大島の拠点から、伊勢志摩の東方に浮かぶ神島を結ぶと、伊雑宮を通り抜けることがわかります。つまり、伊雑宮の聖地には、九州の最南端である佐多岬からも、四国の最南端である足摺岬からも、そして紀伊半島の最南端である紀伊大島からも、先の指標となる富士山や神島宮川伊勢市内宮五十鈴川伊勢市外宮神倉山猿田彦神社を視野に入れるだけで、ピンポイントで伊雑宮の場所に到達す鳥羽市ることができたのです。鳥羽港ナビゲーションのない時代だけに、この地理的な繋がりによるアクセスのわかりやすさ志摩市伊雑宮が、古代においては極めて重要であったに伊雑ノ浦違いありません。さらに伊雑宮の聖地化を後押しするもう一つのレイラインが存在します。国生みの原点となる淡路島に伊耶那岐命ら一行が到達する直前、広大な湿地帯の中に浮かぶ重要な島が目に留まり、そこに一時期滞在した可能性があります。この島の頂上からは、北は淡路島、西方は四国の剣山を眺めることができるだけでなく、阿波国も広範囲に見下ろし、東方には大阪から和歌山、そして南東方向には熊野の山々までも見渡すことができます。国生みの働きに携わった神々は、周辺の島々全てを眺めることのできるこの島を重宝し、そこから島々の位置や地勢を見極めた上で、淡路島へと渡ったのではないでしょうか。その島とは、徳島県小松島市の北方に位置する日峰山であり、今日、陸続きではありますが、元来、山全体が島であり、古代では周辺一帯が海に囲まれていたと想定されます。その山の頂上と、西日本最高峰の石鎚山の頂上である天狗岳を結ぶ線を東方に伸ばすと、ぴたりと伊雑宮を通り抜けるのです。つまり伊雑宮とは、最高峰富士山と、九州、四国最南端の岬を一直線上に紐付けただけでなく、紀伊半島最南端の紀伊大島と伊勢湾の神島を結び、西日本最高峰の石鎚山をもレイライン朝熊岳鸚鵡石磯部町上に並べ、それらレイラインが全て交差する中心点に造営されたのです。数多く存在するレイラインの中でも、これだけの自然の地勢を、ありのままに用いて見出された拠点は他に例がないだけに、いかに伊雑宮が重要な聖地であったかを知ることができます。伊雑宮が古代の聖地である理由これまでのレイラインの検証から、伊雑宮が造営された場所の歴史は大変古く、国内最古の聖地のひとつであったことがわかります。また、その歴史はおそらく伊勢神宮のものを遥かに遡ると推測されます。それは一体、何を意味するのでしょうか。創始の順番からすると、伊雑宮が伊勢神宮の本宮と考えるべきでしょうか。実際問題として、伊雑宮と伊勢神宮との関係において、どちらが本宮であるかという激論が、江戸時代より宗教界に生じていたのです。そして伊雑宮を伊勢の内宮、外宮と並べて伊勢三宮とし、天照大神は元来、伊雑宮にて祀られていたとする「伊勢三宮説」が流布され、大きな論争を呼び起こしました。伊雑宮の再興を目論んだ伊雑の神人や宮人の働きはその後も続きますが、やがて偽作であるというレッテルを貼られ、一蹴されることになります。しかしながら、伊雑宮こそ伊勢神宮の本宮であるという説は今日でも根強く残っているだけに、レイラインの考察から推測できる見解も含め、今一度、見直しの必要に迫られています。志摩国一宮である伊雑宮は、その由緒によると、垂仁天皇の時代に倭姫命が志摩国を巡行した際、出迎えた伊佐波登美命により創建されたと伝えられています。以来、伊雑宮では海人に纏わる信仰が篤く、今日まで漁師や海女らが伊雑宮から磯守を受け、それを身につけて海へ出る風習が続いています。また、伊雑宮は伊勢神宮の内宮である皇大神宮の別宮としても知られています。特筆すべきは伊勢神宮の別宮14社のうち、伊雑宮が唯一、伊勢以外の場所に存在するということです。伊勢から離れていても伊勢神宮の別宮になりうるということは、伊雑宮が伊勢神宮と何かしら深い絆で結び付いていることの証と言えます。また、「皇大神宮儀式帳」(804年)には伊雑宮が「称天照大神遙宮」と記され、皇大神宮から離れた志摩に存在する天照大神の遙宮として、大神宮の管轄下にて大切に取り計らわれていたことがわかります。伊雑宮で祭祀を執り行う神官の多くは磯部氏を名乗る地方豪族の出であり、伊雑宮が文献上に初めて登場する「志摩国輪庸帳」(7 2 9年)によると、伊雑宮には既に伊雑神戸が置かれていました。また、「皇大神宮年中行事」には、伊雑宮に関わる伊雑浦七ヶ所が神領とされていることが明記され、大神宮の神戸が多数存在したことがわかります。こうして「伊雑神戸」という名称は、いつしか大神宮神戸の意味を持つ言葉としても使われるようになり、古代から伊雑宮は、別格の待遇を受けていたことがわかります。さらに、伊雑宮では20年に一度、式年遷宮のための、お木曳行事も伊勢神宮に準じて執り行われ、志摩一国の大社として多くの神財が調進されてきました。よって、遙宮でありながらも実際には大神宮と密接に繋がる祭祀活動の場として、三節祭と呼ばれる月次祭(つきなみさい)や神嘗祭では、朝廷の幣帛(へいはく)を献じ、本宮と同じ蓑笠を供える祭も執り行ってきたのです。伊雑宮の祭祀活動は元来、皇大神宮と類似点が多かったようです。そして伊雑宮が隣接する伊雑ノ浦は、古代の海上交通における要所であり、神嘗祭などの伊勢神宮で執り行われる年中行事に必須な物品の供給源となっていたことから、伊勢神宮にとって伊雑宮は陸海を通じた大切なアクセスポイントに造営された遙宮と考えられていたのです。また、伊雑宮周辺は志摩国でも水田耕作が可能だった数少ない土地のひとつとしても知られています。これらの史実から察するに、伊勢神宮にとって伊雑宮の存在そのものが、極めて重大な意味を持っていたに違いないことがわかります。「伊雑宮」は「いぞうぐう」と読まれることもありますが、元来の正しい読み方は、「いざわぐう」です。なぜ「いざわ」と呼ばれるようになり、「伊雑」という漢字が当てられるようになったのか、定かではありません。しかしながら、古代の渡来者が日本列島の聖地のひとつとして古くから見極めた場所であり、初代の一行にはイスラエルからの預言者イザヤが関わっていた可能性があることから、その渡来者の群れのリーダーである「イザヤ」の名前にちなんで「イザワ」という地名になったと推測することも可能ではないでしょうか。伊雑宮の紋は今日まで、イスラエルのダビデの星を象っているだけでなく、伊勢神宮の参道沿いにも、同じ形の紋が石灯篭に彫られています。それ故、伊雑宮と深く結ばれる伊勢神宮の背景にも、イザヤと-2-