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2014年(平成26年)9月20日発行第155刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 155Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~19:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部元伊勢と三輪山のレイライン神宝の行方を示す古代聖地の繋がり日本全国には8万以上の神社が存在します。その信仰対象は、記紀神話などに登場する国生みに関わる神々を中心とし、自然界、食物、大陸系の神など様々です。それら神社の中には皇大神宮とも呼ばれる伊勢神宮内宮のように、今日でも皇族をはじめ、大勢の人々が参拝に訪れる神社も少なくありません。そのような由緒ある神社の中でも、一際、目立つ存在が、奈良県の大神神社です。静粛で美しい境内と、隣接する三輪山の存在は、言葉では説明しがたい神聖な空間を演出し、訪れる人、誰もが感動を覚えることでしょう。日本書紀や古事記、古語拾遺などの史書には、三輪山がどのようにして、神より特別に選ばれ、古代の聖地として知られるようになったのか、その経緯が記されています。それらの記述を単なる神話として受け止めるか、それとも史実に基づいた不可思議な出来事として捉えるかによって、歴史の解釈は大きく異なります。いずれにしても、何かしらとてつもなく重要な事件が生じたからこそ、今日まで三輪山は、神が宿る特別な場所として聖別され、人々から崇め祀られてきたことに違いはありません。歴史の流れの中で三輪山は、いつの日も聖なる山として、不動の位置を占めることになります。神が選ばれた三輪山の聖地「三諸山」とも呼ばれる三輪山は、奈良盆地の南東部に位置する標高467mの小さな山です。一見、何の変哲もない、ごく普通の小高い山にしか見えない三輪山ですが、古代より神が宿る神聖な山として、特別視されてきました。ことの発端は、国造りが完成する直前、大己貴神(大国主神)が出雲国に着かれた際、神が海を照らしながら現れて、「私は日本国の三諸山に住みたい」と語ったことにあります。そして、「自分を倭の青垣、東の山の上に斎きまつれ」と語られ、神の宮が建てられることになりました。古代、神が「ミワ」と呼ばれることがあった理由は、「大三輪の神」が真の神と考えられていたからに他なりません。三輪山が聖山となる背景には、生ける神が直接、人間に語りかけ、神殿が造営されるべき場所が特定されたという重大な事件が潜んでいたのです。神の鎮座する聖山として知られるようになった三輪山は、山そのものが御神体であると考えられたことから、古くから何人も踏み入れることのできない禁足地とされてきました。それ故、三輪山の麓には大神大物主神社が建立され、後に大神神社と呼ばれるようになります。そこでは当初から本殿は設けず、三輪山を拝してきたのです。今日でも、拝殿の奥にある三ツ鳥居を通して三輪山を拝するという、原始的な礼拝のしきたりが守られています。三輪山の禁足地にも三ツ鳥居が存在し、重要文化財に指定NCJ109日本とユダヤのされていますが、その形式ができハーモニーから続くた年代や由来については誰も知る由がないようです。また、三輪山の祭祀遺跡としては、辺津磐座、中津磐座、奥津磐座と呼ばれる巨石群や、山ノ神遺跡、そし東アジア史を塗り替えたイスラエル民族て狭大井神移社西動方のの新境潮内地流遺跡1笠縫邑21伊蘓宮2吉佐宮22滝原宮3伊豆加志本宮23矢田宮4奈久佐浜宮24家田田上宮5名方浜宮25奈尾之根宮6御室嶺上宮26五十鈴宮7宇多秋宮27伊雑宮8佐佐波多宮9市守宮10穴穂宮11敢都美恵宮12甲可日雲宮13坂田宮14伊久良河宮15中島宮16桑名野代宮17奈其波志忍山宮18藤方片樋宮19飯野高宮20佐佐牟江宮52410三輪山176 3 8 9121113 14元伊勢御巡幸地2217181920161521232425 2627などが知られています。これら磐座の名称は、宗像三宮との繋がりを示唆しているようです。三輪山は神が選ばれた聖地として、古代より磐座を中心に祭祀活動が執り行われていたこともあり、古くから山の周辺では集落が形成されました。そして初代神武天皇の時代では、既に地域の有力者が三輪山周辺に拠点を有していたのです。そのため、同じ三輪山の周辺を目指した天皇は、大和を平定して橿原宮を造営するまで、地元権力者との抗争に巻き込まれることになります。神武天皇は熊野の天磐盾(神倉山)から北上した際に、まず三輪山の東方に位置する菟田や、南方の吉野を訪れます。その後、菟田の高倉山を訪ね、そこで神武天皇は神と出会うのです。そして最終天編香山の社の土を用いて土器の皿を造り、神を祀ることが、磐余邑(いわれむら、桜井市南西部)に広がる磯城の軍勢を打ち負かす鍵であることを悟り、それを実行します。天皇家の歴史は当初から三輪山の存在と深く関わり、奈良盆地中東部一帯が、大和平定の舞台であったことがわかります。神武天皇の御代からおよそ5世紀以上経った後、日本国は大きな危機を迎えます。前1世紀、崇神天皇5年、疫病により国の人口が半減する程の緊急事態に陥り、しかも、その直後から百姓が離散して国に背く者が急増し、統治のしようがなくなるという状況に直面したのです。そして神宝を宮中で祀り、殿社を同じくすることに不安を感じて畏れをいだいた天皇は、神行程地図-1-Part.II宝を宮から遷すことを決断したのです。宮中では護身用の御璽として代わりに、天皇が斎部氏に命じて造らせた新しい鏡と剣を祀り、本物の神宝は豊鍬入姫命に託され、倭の笠縫邑に暫くの間、祀られることになりました。これが元伊勢の始まりです。ちょうどその頃、三輪山に祀られていた大物主神は、崇神天皇をはじめ多くの人々の祈りに応えられ、夢を通して天皇に、「もし私を敬い祀れば、かならず国内は平穏になるであろう」と語り告げられました。そして、三輪君の始祖であり、大物主神の子孫と言われた大田田根子を神主とし、八十万の神々を祀って天社、国社、神地、神戸を定めることにより、国家に平穏が訪れたことが日本書紀に記されています。その後、崇神天皇は国として初めての戸籍調査を行い、また、船舶を建造する詔も発し、天下は大いに平穏となりました。崇神天皇は神の声を聞くことができた数少ない天皇の一人であっただけでなく、信仰に富み、思慮深く、また、新規事業にも熱心であり、多くの人から崇められた偉大な天皇だったと言えます。そして三輪山を背景に天照大神が「宝鏡を視まさむこと、吾を視るがごとくすべし」と語った八咫鏡と草薙剣は、後世において元伊勢と呼ばれる場所を転々と遷されることになり、謎めいた歴史の展開を繰り広げるのです。信心深い崇神天皇であっただけに、大切な神宝を宮中から手放すとは信じがたく、その背景には何かしら重大な理由が秘められていたと推測されます。崇神天皇が神宝を手放した理由崇神天皇の時代、皇位継承のシンボルであった神宝は、豊鍬入姫命に託されて宮中の正殿を離れ、当初、三輪山にほど近い笠縫邑に祀られました。遷された神宝とは古語拾遺によると、天照大神、すなわち八咫鏡だけでなく、草薙剣も含まれていました。その際、天皇の命に従って新たに鏡と剣が鋳造され、これらレプリカが本物に代わり、護身用の御璽として宮中に置かれるようになったことも記されています。それから33年間、神宝は大和国の笠縫邑を離れることはありませんでした。その後、神宝の管理は倭姫命に託され、更に半世紀ほどの間、理想の鎮座地を探し求めるように各地を転々とします。そして最終的に八咫鏡は伊雑宮にもたらされ、そこから伊勢の地に遷されて安置されたことが、神道五部書のひとつである「倭姫命世記」に記載されています。こうして伊勢神宮に鎮座される前に神宝が一時的に祀られた多くの場は、元伊勢と呼ばれるようになったのです。しかしながら、何故、伊勢神宮の聖地に辿り着くまで、皇位継承の印である神宝が宮中を離れ、多くの地を巡り渡らなければならなかったのでしょうか。その理由は歴史の謎となっています。確かに、史書に記載されている倭姫命の御巡幸に伴う神宝の遷座に関する内容には、多くの不可解な点が含まれています。まず、神宝は元来、皇位継承の印として貴重な存在であり、古来より天皇がお住まいになられる宮中に安置されてきたことから、皇室の大切な御璽として不動の位置を占めていたのです。よって、信心深いことで知られた崇神天皇が、突然のごとく神宝の神威を畏れ、神宝を手放してしまうとは考えづらいのです。日本書紀によると崇神天皇は幼少の頃、「雄大な計略を好まれ」、壮年に及んでは「御心廣く慎み深く、天神地祇を崇敬され、常に天子の天つ日継の大業を治めようとする御心をお持ちであった」と記載される程、聡明かつ信心深い天皇でした。生まれながらに善悪正邪をよく識別され、神を崇め奉ることを常としていたのが、崇神天皇の御姿のようです。そして天皇は詔をもって、天皇の存在意義を「人と神とを統御し、天下を治めるため」と自ら語り、日本国の平定を望みながら、真摯に国の統治に取り組んだのです。そのような敬虔かつ、優れた才能に溢れた崇神天皇が、果たして神宝を宮中に保管することを畏れ、先祖代々の教えを無視して宮中から遷してしまうでしょうか。次の疑問は、神宝の神威を畏れたはずの崇神天皇が、神宝の模造品、すなわちレプリカの製造に着手したことです。神宝が皇居の外で祀られるようになった際、天皇の指示によりレプリカが製造されましたが、それはあくまでも模造品にすぎません。つまり、レプリカを祀ること自体、偽物を祀ることと同じであると考えられ、信心深い崇神天皇が決断するような所業とは思えないのです。レプリカは所詮、本物ではないことから、元来の天照大神の教え次頁に続く