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概要

vol_155

2014年(平成26年)9月20日発行第155刊毎月第3土曜日発行購読無料元伊勢の御巡幸ルート図5に反する行いとして受け止められたはずです。更なる疑問は、八咫鏡と草薙剣のレプリカを造るために、大掛かりな集団が結成されたことです。崇神天皇は斎部氏に命じて2氏族を統率し、八咫鏡と草薙剣の模造品を鋳造させたのです。鏡と剣を一つずつ鋳るために、大勢の製造者が必要になるとは考えづらいことから、複数のレプリカを造るという指示により、2氏族が任命されたのではないかと考えられます。つまり、多くの模造品を早急に造る必要があったことから、それらの製造に必要な職人が大勢集められたのです。次の垂仁天皇の御代では、垂仁天皇の皇子により、剣が1000本も製造され、石上神宮に納められたことも特筆に値します。そこまでして、何故、神宝のレプリカを造る必要があったのでしょうか。また、本物の神宝を長い年月をかけて、転々と広範囲の地域を移動させた理由も不可解です。神威を畏れたとするならば、見知らぬ土地にとりあえず鎮座させるのではなく、むしろ、新しい鎮座の地が示されるまで、神が住まわれる三輪山に神宝を奉納するべきでした。それどころか、崇神天皇は神宝を豊鍬入姫命に託した後、自らは八十万の群神を祀るという理由で、国々に社や神地、神戸を定めるのです。神威を畏れるあまりに神宝を手放し、それらを祀る聖地が定まらずに転々としているというのに、天皇自らが神地、神戸を定めて八十万の群神を祀るということは、理に適いません。神宝が宮中から遷され、元伊勢となる場所を転々とした理由は、崇神天皇が神宝を畏れる余り、恐怖感から手放してしまったからではなく、むしろ、天皇の畏れという言葉には、神威を誇る大切な神宝が盗まれてしまうことを危惧する意味が秘められていると考えられます。神宝に秘められた神威の噂は海外にも伝わっていたと考えられ、それを欲する者は国内外に複数存在したことでしょう。そして国内情勢が不安定になってきたことを機に、神宝が略奪される可24那智大滝10三輪山176 3 8 9121113 1422能性が高まってきたのです。皇居が攻め込まれ、神宝が強奪されるという最悪の事態までも懸念した天皇は、神宝を安全な場所に保全するため、早急に対策を講じなければなりませんでした。その結果、多くのレプリカが製造されただけでなく、神宝は転々と各地を移動することとなり、いつの間にか、本物の神宝がどこにあるのか、わからないようにしてしまったのです。これらの背景には、崇神天皇の「雄大な計略」が存在し、念密な策が事前に練られていたと考えられます。そして、本物の神宝を上手く歴史のオブラートに包み込み、安全な場所に秘蔵することが目論まれたのではないでしょうか。その謎を解明するために、まず、崇神天皇の時代背景を振り返ってみましょう。神宝が元伊勢を遷座した時代背景天照大神と草薙剣が宮中から遷され、豊鍬入姫命、そして倭姫命へと託されたのは、崇神天皇から垂仁天皇の時代、紀元前1世紀頃の話です。その時代の日本列島を取り巻くマクロの環境が、どのように変化していたかを知ることは、神宝が宮中から遷されたきっかけや、それに伴う元伊勢誕生の背景を理解するうえで重要です。そしてレイラインの考察という、地域ごとの拠点を結ぶ線の繋がりを検証することにより、元伊勢となる地がどのように特定され、それらの拠点を転々としながら最終的に伊勢へと向かわなければならなかったのか、その理由が少しずつ見えてきます。神宝が宮中から遷され、元伊勢の誕生するきっかけとなった要因は、国内情勢が不安定になったことにつきます。当時、アジア大陸の政変と、民族移動による大陸からの渡来者の急増により、集落の基となる人口構成が激変したのです。その結果、国内の社会情勢が不安定になったことは、想像に難しくありません。特に大和国の東方には、朝廷に従わない勢力が拡大し始めている兆しがあり、対策を考える必要が生じていました。さらに同時期、大和国の17181920161521232425 2627西方では、海を隔てた四国の地において、邪馬台国の芽が息吹き始めていた可能性があることも、覚えておく必要があります。まず、アジア大陸の政変を発端とする民族移動を考えてみましょう。紀元前210年、秦の始皇帝による統治が終焉を迎え、その後、多くの難民がアジア大陸を東方に向かって移動したと考えられます。中には、朝鮮半島にまで到来し、そこから海を渡り、日本列島まで到来してきた人々も少なくありませんでした。歴史人口学の見地からしても、弥生時代後期の日本列島における人口の急増は、アジア大陸からの渡来者なくては説明することができません。その渡来者の数は、弥生後期の数世紀にかけて累計150万人、もしくはそれよりも多くの群衆が、大陸から日本まで到来したと推定されるのです。その移民の流れの原動力となったのが、秦の時代において、始皇帝の治世を陰で支えた知識層を含む大勢の民であり、その背景には西アジアから大陸を東方に向けて移住を繰り返してきたイスラエル系の民の存在が見え隠れしています。記紀にも当時、大勢の移民が大陸より到来したことが明記されており、秦氏のように、中国の魏志倭人伝に、名前まで記された一族もあります(「秦氏の正体」参照)。渡来者の大半は朝鮮半島から海を渡ってきました。中でも秦氏は、高度な教養と優れた文化、そして多くの富や財産を携えて列島に到来し、日本文化の発展に大きく貢献したのです。秦氏らは列島の随所に拠点を設けながらも、山城国周辺(今日の京都)を最も重要視し、そこを本拠地としました。秦氏はイスラエルのユダヤ系渡来者であった可能性が高く、その前提で考えるならば、朝廷と対立するのではなく、むしろその働きを擁護する立場をとりながら、短期間で国内の政治経済に大きな影響力を与える存在になったと考えられます。これら渡来者の流入と時代の変化を崇神天皇も察知していただけでなく、時には大陸系異国民の存在を脅威に感じることもあったことでしょう。渡来者の中には権力者も存在し、その人脈と財力を用いて短期間に拠点を列島内に設けただけでなく、中には各地で権力闘争を巻き起こし、謀反を起こすような勢力にまで発展した部族も存在しました。日本書紀には崇神10年、天皇の詔に、「然遠荒人等猶不受正朔」というメッセージが含まれています。「広雅」と呼ばれる3世紀中国の訓詁書には、「遠荒」は「荒、遠也」と記され、それは天皇が天下を治めようとすることに従わない遠方からの人々を意味します。-2-そのような反勢力が台頭し始め、各地で謀反の兆候が見られる最中、武埴安彦の乱のように都を襲撃する群れもあり、官軍との激戦が繰り広げられたのです。渡来者の急増による人口構成の激変により、国内情勢は不安定になったことは言うまでもありません。その後、畿内はおよそ平穏となるものの、遠方の地域では騒動が止まらず、四道将軍と呼ばれる皇族の将校が、北陸、東海、西道、丹波の地を制するために出兵しました。騒動を起こした民は、日本書紀では戎夷(ひな、じゅうい)と呼ばれ、周辺の野蛮な民族を意味していました。古代中国では異国民を蔑視する意味で用いられていた言葉であることから、戎夷とは、単に朝廷に従わずに反旗を翻した住民を指すだけでなく、大陸より渡来してきた異国民の集団の意味も含んでいました。日本列島各地に様々な緊張を生み出す要因をもたらした戎夷は、崇神11年に平定されます。そして、「異俗多帰国内安寧」と日本書紀に記されているとおり、大勢の渡来者が朝廷に帰順して、国内にやっと平穏が訪れたのです。四道将軍が国内を制圧するために出兵した地域は北陸以南の本州に限られ、四国と九州は含まれていないことにも注目です。同時期、邪馬台国が日本のどこかで産声を上げ、その後、2世紀もかけずに日本を統治する巨大国家となり、海外にまでその名を知らしめることになります。四道将軍が派遣されず、彼らの目が行きとどかなかった四国については、記紀にも殆どコメントがないだけに、誰も気がつかぬうちに、長い年月をかけて邪馬台国の前身が四国にて息吹いていた可能性があります。そして四道将軍が戎夷を平定する5年前、不穏な空気がまだ国内に漂う最中、崇神天皇は重大な決断を迫られていたのです。神隠しを演出した古代人の知恵前2世紀頃から急増した大陸からの渡来者の波は衰えを知らず、渡来者の中には朝廷に対抗して反旗を翻す有力者も少なくありませんでした。その結果、国内では動乱の兆しが各地で見られるようになり、さらに国民の多くが伝染病で亡くなり、人口が急減するという危機的状況に陥りました。また、宮中で祀られていた神宝は皇位継承の証であり、国を治める権利の象徴でもあったことから、それを欲する反勢力による強奪事件がいつ発生するかもしれず、内政の舵取りが極めて難しい局面を崇神天皇は迎えていたのです。社会情勢の激変を察知し、神宝の安否を危惧した崇神天皇は、神宝が盗難されるという最悪の事態を避けるための秘策を練ったと考えられます。まず、神宝の模造品を製造することを決めました。そして宮中では神宝のレプリカが祀られるようになり、本物の神宝は皇居から遷された後、三輪山の麓にある大和国の笠縫邑で祀られ、その後33年という長い年月の間に、三輪山の山頂に埋蔵された神宝が多少なりとも掘り起こされた可能性があります。笠縫邑の比定地候補である檜原神社や穴師坐兵主神社は、三輪山の山頂へのアクセスが大変良い山の麓にあることから頻繁に行き来があったに違いなく、三輪山でさえも不信心な掠奪者による攻略の危機に迫られていたと考えられるからです。いずれにしても、崇神天皇は大切な神宝を守るための「計略」を実行に移し、レプリカの製造により、本物の神宝との見分けを難しくしたのです。神宝を守る次なる手段は、朝廷の権力が行き届くエリアの中で、神宝を遷し続けながら、朝廷の勢力範囲を誇示すると同時に、神宝の行方をくらましてしまうことです。今日の航空地図に、神宝が遷座されたという元伊勢の場所を落とし込むと、三輪山を中心として南北に約150km、東西には約270kmも離れた広いエリアに拡散していることが一目でわかります。そしておよそ27か所存在するとも言われる元伊勢の内、7か所は三輪山から半径25km以内に存在するものの、残りの大半は遠方に広がっています。また、元伊勢の殆どは平坦地にあり、さらに半数近くは、三輪山の東方を盾で守るかのごとく、琵琶湖の東岸から濃尾平野、そして松坂、伊勢に向けて南北に並んでいます。また、吉佐宮、奈久佐浜宮、そして名方浜宮は、北方や西方の海沿いの地に孤立していることにも注視する必要があります。海岸沿いの地で、しかも都から遠く離れること自体、神宝の防御という視点から見ると極めて脆弱であり、ましてや外来の渡来者がいつ襲撃してくるかもわからないような場所に宮を建て、果たして大切な神宝を守ることができるのか疑問です。元伊勢と呼ばれる地の殆どが、神宝を守護するには不向きな、無防備な場所に位置しているのです。そのような無防備な場所であったにも関わらず、元伊勢となるべく、聖地化された理由は、中国にて古代より伝承されてきた四神相応の思想が影響していたのではないかと推測されます。四神相応による理想の地とは、北に山あり、南に沢あり、東に南流する水あり、西に野あり、と解釈できます。よって、三輪山を守護するためには、まず、その四方