ブックタイトルvol_155
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vol_155
vol. 155を守ることに重きが置かれたのです。三輪山は広範囲で見るならば、北方には日本海に向けて山が連なり、真南には熊野那智大社の大滝に代表される沢が存在し、東方は伊勢湾から南方へと注がれる海があり、西方は瀬戸内海の湾岸に沿って野道が続いています。よって、三輪山は四神相応に基づく地勢を有しているという前提において、その東西南北に社を築くことが求められたのではないでしょうか。そして御巡幸という名の元に、神宝は各地に祀られ、元伊勢と呼ばれるようになったと考えられます。元伊勢の社となる場所を特定する方法としては、レイラインの手法が用いられることがあり、他の聖地との結び付きから、地の力を結集できる場所が厳選されたケースが少なくありません。その結果、北の端では日本海沿岸にある天橋立のほど近くに吉佐宮と呼ばれる籠神社の地が、そして西の端には瀬戸内海沿いの岡山に、名方浜宮の地が特定されたのです。また、三輪山から見て東方の伊勢湾沿岸にあたる周辺地域も、東方の勢力が脅威となりつつあったことから重要視されました。崇神天皇の1世紀後、景光天皇の時代、日本武尊が東夷の反乱を抑えるために伊勢から駿河へと向かった際、天皇が日本武尊に語った言葉、「東夷は性格が横暴であり、侵犯することを常とし、集落には長も存在せず、境界を奪って略奪をする」が、当時の状況を伝えています。そのような東方の脅威が迫りつつあった時代だったからこそ、多くの元伊勢となる拠点が伊勢湾沿いに設けられたのでしょう。三輪山の四方を聖地で守った後、崇神天皇が最終的に望んだことは、神宝を安全な場所に秘蔵することではなかったでしょうか。その為の究極の策が、豊鍬入姫命から引き継がれた倭姫命の御巡幸であったと考えられます。神宝は御巡幸と共に祀られる場所が転々としたことになっていますが、元伊勢の多くは大和国から遠く離れた無防備の場所にあり、国内での不穏な動きもあることから、本物の神宝を長期間にわたり、そのような場所で祀るとは到底考えられません。よって、神宝が遷座された際にはレ古代の聖地と地の指標沖津宮中津宮宗像大社(辺津宮)高千穂神社佐多岬宇佐神宮日向出雲大社石上布都御魂神社三輪山伊弉諾神宮天香山諭鶴羽山伊雑宮石鎚山八雲山足摺岬剣山-前1世紀-室戸岬プリカが用いられたはずです。つまり崇神天皇の「壮大な計略」とは、どれが本物かわからないようにレプリカを製造することだけでなく、神宝を遷幸させる場所を複数、選りすぐり、頻繁に移動しているように見せかけるも、実際にはレプリカを用いていたというパフォーマンスであった可能性が見えてくるのです。では、本物の神宝は御巡幸の当時、どこに秘蔵されていたのでしょうか。今日では知る由もありませんが、一時期、四国の山奥に移設された可能性があります。四国については何故かしら史書の記述が限定され、話題にのぼることが殆どないのです。また、人が近づくことのできない急斜面の際立つ山岳地帯に囲まれ、石鎚山や剣山のように西日本最高峰の聖山が存在することからしても、神宝を秘蔵する場所として、早くから崇神天皇も注目していた可能性があります。元伊勢の中には、列島内の聖地や大事な拠点がレイライン上で紐付けられように厳選された場所も存在することから、元伊勢と四国の聖地との結び付きがレイラインで認められるとするならば、神宝が四国にも運ばれていた可能性がより高くなります。倭姫命の御巡幸とは、三輪山を始点として、朝廷の影響力が及ぶ遠隔地を巡り渡り、最終的に伊勢の地まで辿り着くことにありました。そして神宝は転々と場所を遷されながら、最終的には本物の神宝は、人里離れた地に遷されて温存されるべく、綿密な計画が練られたと考えられます。元伊勢の存在は、神宝が上手にオブラートに包み隠された証とも言えます。それでも神宝が秘蔵された場所は、神が選ばれた三輪山の聖地に紐付けられていることに違いはなく、日本列島内の聖地を結び付けるレイラインを考察していくうちに、ふと、その場所が浮かび上がってくるのかもしれません。神宝の行方を示す元伊勢のレイライン古代の聖地と地の指標を結び付けるレイラインを考察することにより、倭姫命が御巡幸された元伊勢の聖地が見出された方法を推測することができます。国生みは元来、淡路島から始まり、熊野本宮大社花窟神社大斎原熊野速玉大社那智大滝神倉山諏訪大社前宮富士山鹿島神宮古代聖地の多くは淡路島の神籬石や、伊弉諾命が葬られた伊弉諾神宮を基点としたレイライン上に見出されました。ところがその後、神が三輪山で祀られるという啓示があったことから、レイラインの中心も淡路島から東方へとシフトして、三輪山に移り変わったと考えられます。日本の中心は大和国の三輪山と考えられるようになったのです。崇神天皇の御代、その三輪山を中心とする地勢観に基づき、列島各地に三輪山と結び付けることができる朝廷の拠点を見出すことが目論まれました。朝廷の権力を誇示できる範囲を限りなく広げるだけでなく、全国いたる所で神が祀られることが望まれたのです。そして、レイラインのコンセプトに基づいて遷座の地が見出された結果、元伊勢として知られるようになる神社の多くは、それらレイラインが交差する場所に、ピンポイントで造営されることになります。元伊勢と呼ばれる神宝の遷座地は、複数の聖地をレイライン上に絡めた上で見出されていることから、それらの地の利や歴史的背景を検証することにより、時には古代史の流れや、歴史の謎さえも理解する糸口を、掴むことができるようになります。紙面の都合上、本稿では元伊勢の中でも、三輪山より距離が離れた場所に造営された、吉佐宮、奈久佐浜宮、名方浜宮、そして坂田宮に絞って解説します。崇神天皇の御代、日本列島には既に多くの聖地や、地の指標が存在していました。それらは人が建立した神社、聖山、そして岬の3種に分けられます。神社が建立された聖地として、伊弉諾神宮、花窟神社、宗像大社(沖津宮、中津宮、辺津宮)、宇佐神宮、日前神宮、伊雑ノ浦に隣接する伊雑宮、熊野本宮大社の大斎原、熊野速玉大社、鹿島神宮、諏訪大社前宮と石上布都御霊神社、海神神社が、聖山としては、出雲の八雲山、熊野の神倉山、高千穂、三輪山、天香山、諭鶴羽山が挙げられます。また、列島の最高峰として富士山と、西日本最高峰の石鎚山、そして淡路島から見える西日本で2番目の標高を誇る剣山も含まれます。岬については佐多岬、足摺岬、室戸岬が太平洋側の指標として際立つ存在感を示しています。これらの拠点となる神社や聖地を落とし込んだ地図を見ると、列島内でも広範囲に広がりを見せており、レイラインを構成する基盤として不可欠な存在となっていたのです。元伊勢の歴史は笠縫邑から始まります。笠縫邑の比定地としては檜原神社や穴師坐兵主神社など、これまで複数の候補が挙げられていますが、レイ-3-元伊勢海神神社吉佐宮と奈久佐浜宮のレイライン(籠神社)(日前神宮)沖ノ島高千穂神社宇佐神宮八雲山出雲大社石鎚山ラインの検証から、檜原神社である可能性が高いことがわかります。古代聖地のひとつ、出雲の御神体とも言われる八雲山と、三輪山を結ぶレイライン上に並んで、檜原神社が建立されているからです。単純なレイラインの見方ではありますが、後に続く複数のレイラインの存在と絡めて検証すると、意外にも信憑性が高いことがわかります。さて、笠縫邑における3 3年という長い遷座の期間、神宝について様々な情報が収集され、次の遷座場所が協議されたことでしょう。遷座の対象となる神宝のひとつは草薙剣であり、不思議な力を持つ比類なき神剣であったことから、当初からその扱いには細心の注意が払われたのです。古代の聖地の中でも、剣に結び付く聖地と紐付けることが目論まれたのではないでしょうか。剣の由緒を誇る古代の神社は、出雲大社(八雲山)、諏訪大社(前宮)、鹿島神宮などが挙げられます。そして、四神相応に基づき、まず北方の遷座地が探し求められ、その結果、吉佐宮、今日の籠神社が特定されたのです。では、三輪山から130km以上も離れた日本海沿岸の籠神社の場所が、どのようにして見出されたのでしょうか。レイラインを地図上に落とし込むことにより、その根拠が見えてきます。まず、レイラインの基点を、八咫鏡の由緒に富む日前神宮と定めました。三輪山へは距離的にも70 k mと近いだけでなく、日前神宮は宗像大社の沖津宮(沖ノ島)、及び諭鶴羽山とほぼ同緯度にあり、ぴたりと一直線上に並ぶことから、きれいなレイラインを構成していることがわかります。また、諭鶴羽山は熊野神が石鎚山から熊野の神倉山へ渡られる途中に登られた山であることから、熊野とも結び付くことになります。さらに富士山と剣山、高千穂という重要な聖地を結ぶ一直線のレイライン上にも、日前神宮は存在するのです。よって、列島最高峰と剣山、天孫降臨の由緒深い高千穂、さらには沖津宮と熊野の地の力を引き継ぐ日前神宮の聖地が重要視されたことは、言うまでもありません。その日前神宮から見て、真北でも一番遠い日本海側に遷座の拠点を設けるには、その線上の緯度を決めることになるわけです。そこで、神剣の由眞名井神社吉佐宮(籠神社)摩耶山六甲山檜原神社斎宮伊弉諾神宮三輪山伊勢神宮神籬石伊雑宮諭鶴羽山奈久佐浜宮(日前神宮)剣山熊野那智大社諏訪大社守屋山富士山緒を持つ諏訪大社と、大陸への西の玄関である海神神社を結ぶレイラインと、その南北線が交差する場所が特定され、そこに籠神社が建立されたのです。何故、遠く北に離れた籠神社が遷座の地として選ばれたのでしょうか。前述した通り、四神相応に基づき、日本海沿岸にて三輪山の北方を守る拠点として、籠神社の地が定められたことに違いはないでしょう。しかしながら、レイラインの繋がりを検証すると、籠神社が特定された背景には、さらに深い意味が込められていたことがわかります。その基点となった日前神宮のレイラインには、三輪山と剣山、高千穂を結ぶ線も含まれていることに注目です。すると、聖山としても名高い剣山も、神宝の遷座という重大な神事に関わっていた可能性が見えてくるのです。そして剣山と、古代の聖地、淡路島の伊弉諾神宮を結んで北東方向に線を引くと、それは日前神宮を通る南北のレイラインと、ちょうど麻耶山で交差した後、六甲山を通り抜けていくのです。また、日前神宮の南北線を中心として東西の向きが逆になる三輪山と出雲の八雲山を結ぶレイラインは、檜原神社だけでなく、これまた、麻耶山を通り抜けていくのです。つまり、日前神宮を基点として定められたと考えられた籠神社の背景には、麻耶山が、レイラインの隠れた中心点として存在していたのです。麻耶山を中心とするレイラインには、日前神宮や籠神社だけでなく、八雲山、三輪山、剣山、高千穂、伊弉諾神宮までもが名を連ねるだけに、麻耶山の存在をもはや無視することはできません。当初、笠縫邑に滞在した期間が33年と長かったこと、神宝のレプリカを複数造るには十分な時間があったこと、そして何にも増して、神宝と関わる聖地である三輪山をはじめ、八雲山(出雲)、諏訪大社、日前神宮、伊弉諾神宮など、極めて重要な聖地に結び付く複数のレイラインが交差する中心点にあったことから、麻耶山こそ、元伊勢が発祥した当時、神宝が一時的に秘蔵された可能性が高い、由緒ある聖山であったと考えられるのです。(文・中島尚彦)引き続き、他の元伊勢御巡幸地のレイラインについても、http://www.historyjp.com/で紹介しています。是非、ご覧下さい。