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vol_157
2014年(平成26年)11月15日発行第157刊毎月第3土曜日発行購読無料元伊勢と三輪山のレイラインVol.Ⅱ神宝の行方を示す元伊勢の繋がり歴史のミステリーに包まれてきた元伊勢の謎に迫る連載の第2弾です。三輪山の麓、笠縫邑から豊鍬入姫命に託されて始まり、80余年という長い年月をかけた御巡幸の旅路には、およそ28か所の遷座地が含まれています。それらの全てがレイライン上に位置することは、地図上に線引きするだけで、簡単に理解することができ、転々と聖地が遷り変わったのには、意外にも重要な意味が含まれていたのです。古代の謎が今、レイラインにより解き明かされようとしています。伊豆加志本宮のレイライン(与喜天満神社)吉佐宮に御巡幸されて4年を経過した後、北方への長い御巡幸の旅を経て、神宝は再び大和国の伊豆加志本宮に戻ってきます。倭姫命世記には崇神天皇43年、「倭国に遷りたまい」と記載されています。伊豆加志本宮の比定地については笠縫とする説もありますが、長谷寺周辺の初瀬である可能性が高いようです。初瀬は三方を山に囲まれ、初瀬川も流れる景勝地であり、東西の交通の要所でもあります。また、神の籠る聖地として名高く、古代より長谷寺を筆頭に、与喜天満神社、滝蔵神社、長谷山口坐神社などの著名な神社が存在します。さらに後述するレイラインが、初瀬の長谷寺に隣接する与喜天満神社の真裏を三輪山と同緯度で通り抜けることなども、初瀬を有力視する根拠のひとつです。「御巡幸図説」には、長谷寺の近郊に伊豆加志本宮があったことが窺え、長谷寺へ向かう参道と県道の交差点には大小二つの鳥居の礎石が並んでいます。この鳥居跡の周辺に伊豆加志本宮があったという言い伝えが残されていることに注目です。長谷勘奏記裏書には、天照大神が最初に降臨した地が初瀬の山であると伝えられていることから、この鳥居跡伊豆加志本宮のレイライン(与喜天満神社)剣山から山へと向かう参道が、古代でも存在していたのでしょう。聖なる三輪山を守護するために笠縫邑から始まった御巡幸は、その東西南北を守り固めるという主旨に則り、三輪山の真東にあたる初瀬周辺を御巡幸の地と定め、そこを伊豆加志本宮と呼ぶようになったと考えられます。三輪山の北方は既に吉佐宮によって守られていることから、次は東方の伊豆加志本宮を守護することにありました。その後、南方の紀伊国、そして西方の名方浜宮(岡山)に向かうことになります。よって、まず三輪山東方の御巡幸地が探し求められ、その拠点として初瀬川の渓流沿いにある長谷寺周辺の山が特定されたのではないでしょうか。古代、大和国から東方へ向かう際には、初瀬の伊勢辻と呼ばれる通りを抜けて、伊勢や東海道へと向かっていたことから、初瀬は大事な旅の拠点でした。しかも初瀬川沿いの山は、三輪山と同緯度にあたることから、レイラインの視点からもわかりやすい位置にあったのです。長谷寺の東400mほどの所には、神山として守られてきた与喜山の中腹に与喜天満神社が建立されています。長谷寺へ向かう参道のつきあたりに見える与喜天満神社の鳥居をくぐると長い階段が続き、左手に境内が見えてきます。そして境内の奥には鵞形石(がぎょういし)、沓形石(くつがたいし)、掌石(たなごころいし)と呼ばれる三つの磐座があります。平安末期に書かれた「長谷寺縁起文」には、この鵞形石に天照大神が降臨されたことが記載されています。それ故、古くから山そのものが天照大神の御神体として拝され、与喜天満神社は長谷寺の管轄下に置かれてきました。これらの背景から、与喜天満神社の周辺こそ、伊豆加志本宮の比定地である可能性が高いと考えられるのです。琵琶湖最南端二三(石山寺)上輪山山与喜天満神社(長谷寺)神島伊豆加志本宮の遷座地が見出された際に用いられたとNCJ109日本考とユダヤのえられハーモニーから続くるレイラインは、3本の線によって構成されています。まず、三輪山を通り抜ける同緯度の線を引きます。その線は東方に向かって伊勢湾では神島に至り、西方は二上山を指していきます。聖なる神山として不動の位置を占めていた三輪山と同緯度にあるということ自体、今昔もって重大な意味を持っています。その緯度線は、三輪山から東方に向かうと、最初の水源である初瀬川を越え、川沿いの与喜山に建立された与喜天満神社境内の真裏を通り抜けていきます。与喜天満神社は、三輪山のレイライン上にあったのです。東アジア史を塗り替えたイスラエル民族大移動の潮流伊豆加志本宮の近隣にあったと伝承される鳥居跡鳥居の前後に長い階段が続く与喜天満神社与喜天満神社の美しい境内Part.II伊豆加志本宮の拠点を定めるためには、その緯度線上に東西の経度を特定する必要がありました。指標として用いられたのが、まず、琵琶湖ではなかったかと最終編推測されます。古代の琵琶湖岸を特定することは難しいですが、瀬田川が流れ出る地点周辺が、最南端に該当するのではないでしょうか。そのほど近くには今日、石山寺が建立されています。琵琶湖最南端から真南に向かって線を引くと、ちょうど与喜天満神社にあたります。つまり、三輪山の緯度線と琵琶湖の最南端を通る経度線が交差する地点に、伊豆加志本宮が建立されたと考えられるのです。更にもう1本のレイラインが存在します。天孫降臨の聖地として名高い高千穂神社と剣山を結ぶ線が、与喜天満神社境内の北側において、ちょうど三輪山の緯度線と交差しているのです。伊豆加志本宮に至る直前の遷座地は籠神社と真名井神社に比定される吉佐宮であり、剣山が重要な指標として用いられた可能性が高いことは前述したとおりです。その吉佐宮に結び付けられていた剣山が、次の遷座地である伊豆加志本宮の地を特定する際にもレイラインの指標として用いられていたことに注視する必要があります。剣山が当時、突如として重要な存在になってきたことの証と言えるでしょう。もし、初瀬の地、与喜天満神社周辺に伊豆加志本宮があったという推測が正しいと仮定するならば、その場所は三輪山に直結する聖地であり、様々な神宝が埋蔵されていることで知られる神島と、聖山として崇められている二上山、日本最大の水源である琵琶湖だけでなく、四国の聖山である剣山と天孫降臨の地、高千穂にも紐付けられていたことになります。特に、吉佐宮のレイラインで初めて浮上した剣山が、与喜天満神社のレイラインでも同じく名を連ねていることには大切な意味が隠されていると考えられます。また、神島が三輪山と与喜天満神社を結ぶレイライン上に存在することも重要です。何故なら、沖ノ島と同様に、人々が近づきづらい離島に神宝を秘蔵することは古代の常道手段であったからです。よって、神島と同様に与喜天満神社と紐付いている摩耶山や剣山にも、神宝が隠された可能性が見えてきます。レイラインの考察から、伊豆加志本宮も神宝に関わる重要な拠点のひとつであったことがわかります。宇多秋宮のレイライン(阿紀神社)倭姫命が倭国にて豊鍬入姫命より御巡幸を引き継がれた後、満を持して御室嶺上宮(大神神社)を離れ、最初に到達した東方の遷座地が、宇多秋宮に比定される阿紀神社です。奈良県の大宇陀町にある神社の周辺一帯は阿紀とも呼ばれ、古代宇陀の中心地でした。JR榛原駅から南へ7kmほどの場所に阿紀神社は建立されています。榛原からタクシーに乗って阿紀神社へ向かうと、途中、道路に沿って本郷川が流れる美しい光景が目に入り、阿紀神社が水源の豊かな地に建立されたことがわかります。また、宇陀は万葉集に、その地名が記されていることでも有名です。タクシーの運転手が自慢げに、「軽皇子安騎野に宿りたまひし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」と口ずさんでいたほどです。阿紀神社では天照大神が本殿に、相殿には秋姫命、八重思兼命、天手刀男命が祀られています。天照大神社殿は神明造りであり、堅魚木を10本用いて伊勢神宮と同じ建て方を踏襲しています。阿紀神社が古くから重要視されたのは、単にその場所が三輪山に近く、交通の要所であったか宇多秋宮のレイライン(阿紀神社)真名井神社籠神社阿紀神社鳥居らだけでなく、倭姫命が到来する以前、そこに神武天皇も訪れ、宇陀の一角に瓊瓊杵尊の母にあたる秋津姫命と天照大神を祀ったからではないでしょうか。「阿紀神社御鎮座口訣之事」には、神武天皇が天の香山の土を用いて器を作らせ、酒を注いで供え、天神地祇を祀ったことが記載されています。また、「皇大神宮はじめて天降り坐す本所なり」と明記されていることからしても、阿紀神社は伊勢神宮と同様に、天照大神と秋津姫命を祀る重要な場所として古代から認知されていたことがわかります。阿紀神社の周辺は、元来、宇陀の中心であり、そこは皇大神宮の神戸でもありました。太神宮緒雑事記には、「時に国造り、神戸等を進る」とも記され、境内の石燈籠には「神戸大神宮」と刻まれています。1,000戸以上にも及ぶ神宮の神戸は、そのほとんどが伊勢周辺に散在し、畿内の大和国においては「宇陀神戸」の15戸が、唯一の神戸だったのです。それ故、宇陀の地が重要な役割を果たしていたことに、違いはありません。では何故、宇陀の阿紀神社周辺に古代の民が目を留めたのでしょうか。もし、神武天皇が本当に天神地祇を祀るために宇陀の地に目を留めたとするならば、それなりの特別な理由や根拠があるはずです。阿紀神社の地が極めて重要であった理由は、その場所を通り抜けるレイラインを検証することによって理解することができます。特筆すべきは、富士山頂と剣山を結ぶレイラインです。このレイライン上に阿紀神社が建立され、東の太平洋側では香取神宮にあたります。香取神宮では主祭神として経津主大神が祀られており、鹿島神宮と同様に、神剣の由緒に富む古代聖地の代表格です。その香取神宮を結ぶレイラインの西側には、富士山をはじめ、阿紀神社と剣山が並んでいます。つまり、阿紀神社は日本最高峰の地の力だけでなく、神宝の由緒とも紐付けられ、それがレイライン上に並ぶ剣山という山の名称にも象徴されていたのです。神武天皇の時代では既に、西日本熱田神宮富士山香取神宮伊勢神社石上神宮三輪山宇多秋宮(阿紀神社)斎宮伊雑宮高千穂宗像大社石鎚山剣山室戸岬与喜天満神社内の盤座鵞形石-2-