ブックタイトルvol_157
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vol. 157阿紀神社の優雅な境内で2番目の標高を誇る剣山が聖なる山として認知され、山の周辺に集落が築かれ始めていたのかもしれません。いずれにしても、富士山と剣山を結ぶレイラインは、阿紀神社が重要な存在であったことを証しています。阿紀神社を通るレイラインは、その他にも複数存在します。まず、岡山の伊勢神社と伊雑宮を結ぶ線に注目してみました。伊雑ノ浦に面した伊雑宮は熊野の神倉山と共に太平洋に面した古代のランドマークであり、海を渡って渡来してきた古代の旅人は、そこから紀伊半島に足を踏み入れたと考えられます。国生みの原点にまでも遡る可能性がある伊雑宮であるだけに、古代の重要な拠点の多くは、そこを指標として特定されました。その伊雑宮と、元伊勢の最西端遷座地として豊鍬入姫命が御巡幸された伊勢神社を結ぶと、その線上に阿紀神社が存在します。すると剣山と富士山、そして伊勢神社と伊雑宮を結ぶ2本のレイラインのみで、その交差点に阿紀神社を特定できることがわかります。阿紀神社本殿次に宗像大社と斎宮を結ぶレイラインを検証すると、この線も、阿紀神社と並んで1本の直線になっていることがわかります。斎宮の場所を最終的に特定する際に、阿紀神社を基点として宗像大社に紐付け、そのレイライン上に斎宮が見出されたと想定されます。また、室戸岬と熱田神宮を結ぶレイラインは阿紀神社の東に1kmほど離れた箇所を通り抜けることから、レイラインの誤差の範疇であるとも考えられます。すると、熱田神宮の地を特定した際に、阿紀神社と室戸岬を結ぶ線がレイラインの参考として用いられた可能性があります。最後に、真名井神社と石上神宮も検討の余地があります。真名井神社は既に、籠神社の奥宮として御巡幸地の一つとなっています。そこから阿紀神社に線を引くと、そのレイラインは神宝の宝庫とも言われる石上神宮から500mほど離れた地点を通り抜けることからレイラインとして認知されていた可能性があります。いずれにしても、剣山と富士山、そして伊雑宮と伊勢神社を結ぶ2本のレイラインが交差する地点は地の力を継承する重要な場所となる故、神武天皇はそこで祭祀活動を行い、後世においては阿紀神社が建立されるに至ったと考えられるのです。宇多佐佐波多宮のレイライン(篠畑神社)阿紀神社から北に進み榛原駅を越えた後、更に4kmほど北東方向へ進むと、左側に小高い杜が見えてきます。近年建てられた白色の鳥居をくぐり、長い階段を上っていくと、すぐ左側には、神明造りが際立つ本殿が目に入ってきます。奥まで30m少々しかないような小ぶりな境内ですが、檜皮葺きの末社も建立され、荘厳な雰囲気が漂っています。佐佐波多宮の祭神は天照大神です。そして宇陀秋宮(阿紀神社)と同様に大倭国造が神田と神戸を奉ったことが皇大神宮儀式帳に記されており、宇陀では古代、神戸村があった阿紀神社の周辺と共に地域一帯が伊勢との深い関わり合いを持っていたのです。篠畑神社の場所が宇陀の小山に特定された最も大きな要因は、熊野の聖地、神倉山にありました。神倉山と同じ経度線上、すなわち、南北一直線に並ぶ場所に篠畑神社は建立されています。それは、篠畑神社の真南に神倉山があり、その地の力をしっかりと受け継ぐことの象徴となることから古代では重要視されたことでしょう。また、その後、倭姫命の御巡幸は神倉山の経度線を超えて東方に向かうことになることから、その分岐点を目印となる拠点を設けることも重要であったと考えられます。つまり、宇陀の地、倭国を離れて、東方への長旅に出る基点となる場所でもあったのです。篠畑神社の真新しい鳥居南北5kmほどしかない宇陀の盆地において、神倉山と同経度線に並ぶ場所を見出し、新しい社の場所を見つけることは、天文学の知識が豊富であった古代の学者にとってはさほど難しいことではなかったのかもしれません。宇陀から名張にかけては北東方向に川が流れ、古代宇多佐佐波多宮のレイライン(篠畑神社)高千穂室戸岬日峯山神明作りが美しい篠畑神社本殿から人々が行き来できる野道があったことでしょう。そして、川に沿う道沿いの途中に、篠畑神社の地が選別されたのです。その場所を特定するためには、レイラインの助けも得たのではないかと推測されます。これまで御巡幸されてきた遷座地を特定する際にも指標として用いられた室戸岬が、篠畑神社のレイラインでも再び姿を見せます。室戸岬と、剣の由緒に富む古代聖地、諏訪大社(上社本宮)を結ぶと、その線上に篠畑神社が存在することがわかります。このレイラインと、神倉山の経度線が交差する地点が、篠畑神社の場所です。また、後述するとおり、国生みの原点にはオノゴロ島の存在が記紀に記されています。その比定地を特定することは極めて難しいことですが、場所が徳島県小松島市の日峰神社である可能性があります。すると、天孫降臨の地として名高い高千穂と日の峰山を結ぶレイラインがぴたりと篠畑神社と繋がることがわかります。市守宮のレイライン(蛭子神社)倭国から始まった豊鍬入姫命による御巡幸は、当初、北方の丹波国、吉佐宮(真名井神社)に向かい、一旦倭国の伊豆加志本宮に戻った後、南方の紀伊国奈久佐浜国(日前神宮)を目指します。その後、神宝は西方の吉備国名方浜宮(伊勢神社)に遷座されます。これは、三輪山の聖地を中心として、北、南、西の3方向に、天皇の実権と神宝の存在と神威が流布されることを目論んだ結果とも考えられ、残るは東方へ向けての御巡幸のみとなりました。その後、豊鍬入姫命の御一行は再び三輪山の麓に戻り、倭国の御室嶺上宮(大神神社)に神宝を遷座して、半世紀以上に及ぶ御巡幸の旅を終えられます。そして高齢を迎えられた豊鍬入姫命は、「吾日足りぬ」と語られ、その時点から神宝の行く末の鍵を握る東方への御巡幸は、妹の三輪山篠畑神社神倉山-3-諏訪大社(上社本宮)富士山市守宮のレイライン(蛭子神社)八雲山剣山倭姫命に委ねられたのです。倭姫命に託された神宝は6年の年月をかけて、過御室嶺上宮、宇多秋宮、佐佐波多宮の3か所に遷座され、倭国に留まりました。そして満を持して神宝は再び倭国を離れ、残された三輪山の東方へと向かいます。最初の拠点が伊賀国、今日の三重県名張市にある市守宮でした。市守宮の比定地は幾つかあるものの、「隠市守宮」と刻まれた真新しい石柱が建てられている蛭子神社の周辺である可能性が一番高いようです。大型台風の際には名張市が一面、湖沼化し、川が氾濫することも頻繁にあり、蛭子神社の場所もかつては1kmほど離れた宮ノ木にあったという伝承も残されていることから、御遷幸地を特定することは難しいでしょう。しかしながら、そのような災害の歴史を繰り返したが故に、市守という名があてられるようになったのかもしれません。社伝には皇大御神が遷られた際に、一ノ瀬の鮎が神饌として祀られたことも記載されています。そして蛭子神社の祭礼エビス市が盛んになるにつれて、蛭子神社周辺は栄えたのです。市守宮は、倭姫命の御一行が東方へと旅立った後の最初の拠点であることから、その位置決めについては事前に、十分な協議がなされていたはずです。そしてレイラインの検証が綿密に行われた結果、市守宮がレイラインの交差点に特定されたのです。その場所に建立された蛭子神社は、複数の線が神宝に関わる拠点を結ぶレイライン上に存在するだけでなく、元伊勢の御巡幸となる次の遷座地、穴穂宮とも結び付く要因を秘めていたのです。蛭子神社の鳥居室戸岬市守宮(蛭子神社)のレイラインにおける中心線は、剣山と三輪山を結ぶ線です。この一直線上に蛭子神社も見事に並んでいます。そのレイライン上に神宝の遷座地が求められたということは、聖地三輪山に関わる神宝の拠点として、古代の民は剣山を重要視していたことがわかります。蛭子神社三輪山伊勢神宮蛭子神社本殿諏訪大社前宮富士山もう一つのレイラインは、剣の由緒を持つ諏訪大社前宮と室戸岬を結ぶ線です。この2本のレイラインの交差点に蛭子神社が建立されています。また、その場所は、出雲の八雲山と伊勢神宮を結ぶレイラインにも重なっています。それは、伊勢神宮の地を最終的に特定する際に、八雲山と市守宮を通り抜けるレイラインも検討され、その線上に伊勢神宮内宮が見出された可能性を示唆しています。こうして、倭国を離れた後、東方に向かう最初の遷座地となった市守宮は、レイラインを介して三輪山や神宝に絡む大事な聖地である諏訪大社と結び付いていただけでなく、それまで遷座地と同様に、再び剣山に紐付けられることになりました。これだけの由緒ある聖地が見事に結び付けられたレイラインの交差地点に蛭子神社が建立されたということは、古代の識者がレイラインの原則に則り、熟考を重ねた上で、その場所を見出したという背景があったことに他なりません。蛭子神社が発行する案内書には、蛭子神社が古来より「市守宮(いちきのみや)」という別称で呼ばれていたことが記されてはいるものの、残念なことに、「倭姫命世紀」を伊勢遷宮伝説と称し、「架空の物語」としています。しかしながら、古代の英知は計り知れず、蛭子神社の創始と御鎮座の由来についても、レイラインの考察なくしては説明がつきません。そして「倭姫命世紀」の記述が史実であるという前提において、元伊勢の遷宮地に関わるレイラインを全て検証すると、後述するとおり、意外な真実が浮かび上がってくるのです。「倭姫命世紀」には、辺境の各地を巡歴された倭姫命の功績が記載されていますが、その背景には多大な苦労の積み重ねがあったことを市守宮のレイラインからも垣間見ることができます。(文・中島尚彦)引き続き、他の元伊勢御巡幸地のレイラインについても、http://www.historyjp.com/で紹介しています。是非、ご覧下さい。