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2014年(平成26年)12月20日発行第158刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 158Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~19:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部元伊勢と三輪山のレイラインVol.III神宝の行方を示す古代聖地の繋がり倭姫命の御一行は倭国の御室嶺上宮、今日の三輪山、大神神社周辺を離れて東方に向かい、宇陀の地にて4年の年月を経た後、宇陀山地と鈴鹿山脈の間を北東方向に進みました。そして伊賀国名張の市守宮、琵琶湖の東方、近江国の甲賀郡に広がる丘陵の一帯は、のどかで緑が美しく、国内でも有数の自然豊かな景観を誇る場所です。今日では大規模な公園も随所に造成され、人々の憩いの場所になっています。倭国と伊賀国を結ぶ延長線の北方には、近江国を代表する理想の景観地が広がっており、元伊勢の御巡幸の際には、その甲賀の地が目に留まったことでしょう。その一角に甲可日雲宮が建立され、神宝は4年間遷座したのです。倭姫命世記には当時、「淡海の国造、地口御田を進る」と記されています。地口御田と称された田などが倭姫命に献上されたことからしても、御巡幸の旅が地元から祝福されていたことがわかります。甲可日雲宮については皇大神宮儀式帳に記載が見当たらず、倭姫命世記に記されているだけです。よって記述内容の比較検証ができないことが、比定地の選択肢が最多に分かれてしまう原因と言われています。しかも選択肢となる候補地の多くが、遷座地としての要素を十分に兼ね備え、どれも見劣りしないのです。実際、甲可日雲宮の比定地と言われる場所のほとんどは河川沿いにあり、由緒も兼ね備えています。主だった候補地の全てが、レイライン上において日本列島内の重要な拠点と結び付いていることにも注目です。これは古代社会において甲神東戸アジアの穴穂宮、柘史植をの敢塗都美り替賀えたイスラエルの地域が重要視され、その広民族大移動の潮流恵宮に都合8年間滞在した後、大な草原の広がる丘陵地におい近江国、今日の滋賀県の甲賀て、時を経ながら複数の場所が高原へ到達します。御一行は三大切な拠点として厳選され、そ輪山の北方にある琵琶湖の東こで神が祀られていたことを意岸を目指していたのでしょうか。味しています。そのうちのひと山地山脈に挟まれたのどかな緑つが元伊勢であり、その他にもの生い茂る地を北上し、近江国神を祀る大切な社が数々と建立の甲可日雲宮で4年という歳月され、巫女が宿泊された頓宮を経ることになります。や、休息の地も造営されながら、地域全体が発展したのです。こ候補地が連なる甲可日雲宮れらの比定地は、東西に渡り3 0 k mほどに広がって散在していることからしても、地域一帯が古代の聖地として重要視されていたと考えられます。神明社/天護山上乗寺坂田宮若宮神社(甲賀)垂水頓宮都美恵神社(柘植)神戸神社蛭子神社(名張)由緒ある垂水頓宮のレイライン最初に甲可日雲宮の比定地の中でも筆頭候補に挙げられることの多い垂水頓宮を検証してみましょう。柘植の敢都美恵宮から北方へおよそ10km向かうと、滝樹神社の北側にひっそりした自然に囲まれた森が目に入り、そこに垂水頓宮の聖地があります。そばには文字通り垂水の様相を見せる野州川が流れ、周囲には小高い丘が広がり、美しい自然の環境に恵まれた地です。垂水斎王頓宮跡は史蹟として特定され、そこには石碑が建てられています。また、頓宮周辺には高さ1mほどの土塁が正方形に築かれています。垂水頓宮に凛せるする甲可日雲宮(日雲神社)巫女として伊勢神宮に奉仕する未婚の内親王や親王の娘を斎王と呼び、斎王が宿泊された場所を頓宮と言います。皇女から選出された斎王を天照大神の御杖代として神々を祭る斎王制度は、平安時代から始まりました。そして京都から伊勢までの大道を群行するにあたり、勢多、甲賀、垂水、鈴鹿、壱志に滞在したことから、垂水の地においては垂水NCJ109頓宮と日呼本とユダヤのばれるよハーモニーから続くうになったのです。また、垂水頓宮は実際に斎王が群行でお泊りになられたことが実証された唯一の頓宮跡地であり、国史跡にも指定されています。垂水頓宮に隣接する滝樹神社の由緒には、倭姫命が甲可日雲宮に滞在された間、御饌(みけ)が調進されたことが記載されています。それが事実とするならば、滝樹神社は甲可日雲宮の近隣に存在したと推定され、すぐそばにある垂水頓宮が候補地として有力視されることになります。しかしながら御饌の調進については隣接するほど近距離である必要はなく、他の候補地である若宮神社でも滝樹神社から8km弱の距離しかないことから、確実視することはできません。また、頓宮に定められる最終編条件としては元伊勢である必要はなく、あくまで群行の経路に位置し、立地条件に優れていることが大事です。また、よって頓宮であることや、滝樹神社の由緒は、比定地を判断する際の参考程度に留めておく必要があります。垂水頓宮は、レイライン上においても重要な位置を占めています。その基本となる線は、諏訪大社と四国の足摺岬を結ぶ線です。諏訪大社は古代の聖地の中で大切な位置を占めています。その大社の下宮と足摺岬を結ぶ線上に垂水頓宮が存在宗像大社(辺津宮)-1-Part.II垂水頓宮跡に建立された石碑甲可日雲宮のレイライン(垂水頓宮)足摺岬します。驚くほどの精度で、3つの拠点がぴたりと一列に並んでいることは単なる偶然ではなく、南方から船で訪れる渡航者の視点から、足摺岬が地の指標として重要視され、そこから諏訪大社に向かう途中の拠点として垂水頓宮の地が一直線上に見出されたと推測できます。諏訪大社の周辺には縄文時代から大規模な集落が形成されました。古代、イスラエルから移住してきた民も、ヒラバイ山と神籬石を結ぶレイライン上にあり、しかも同緯度線の太平洋沿岸に鹿島神宮を見出すことのできる諏訪大社の地域を重要視していたと考えられます。それ故、諏訪大社の裏山も族長アブラハムが我が子を神に捧げようとしたモリヤの地名にちなんで守屋山と名付けられ、地域周辺では旧約聖書の記述に類似した子供に纏わるミシャクジの伝説が、諏訪地方には今日まで伝承されてきています。毎年、神官が決まると、男児が人身御供として殺されるという伝説は、守屋の地名と共に、イスラエルの古代信仰に由来していることは間違いないでしょう。また、鹿島神宮と宇佐神宮を結ぶレイラインも垂水頓宮のそばを通りぬけることにも注目です。神剣、布都御魂が宝蔵される鹿島神宮は、諏訪大社と共に、古代から神宝に纏わる由緒が伝えられている社です。そして宇佐神宮は八幡宮の総本山として、その創始には秦氏が深く関わっていたことで知られる由緒ある古代の社です。これら東西にまたがる2つの聖地を結ぶ線上に垂水頓宮が存在するということには、何かしら、重要な意味があるのではないでしょうか。さらに富士山と宗像大社の辺津宮を結ぶレイラインも、垂水頓宮のそばを通っていることにも注目です。日本列島の東西の最重要拠点を象徴するレイラインでもあ六甲山甲可日雲宮(垂水頓宮)三輪山り、その線上に並ぶ拠点は、富士山と宗像大社の地の力に紐付けられることになります。垂水頓宮はその線から2kmほど離れた位置に建立されています。垂水頓宮は、諏訪大社、鹿島神宮、宇佐神宮、そして宗像大社という古代聖地に紐付けられる位置に建立されていたことを、複数のレイラインから確認することができます。その立地条件は由緒ある頓宮として申し分なく、垂水頓宮の名は後世にまで残されることになります。見事なレイラインを構成する若宮神社垂水頓宮に勝るとも劣らない甲可日雲宮の比定地が、野洲川ダム近くの大河原と呼ばれる山地の中腹に広がる丘陵の一角に建立され、大自然の中でもひと際目立つ若宮神社です。周辺は自然の恵みに囲まれ、今日では大規模な自然公園や天然温泉施設までもが整備されています。また、境内社には皇大神宮もあり、その真裏には野洲川の上流となる松尾川が流れ、北は山、西は野が続く、四神相応の地となっていることにも注目です。若宮神社を過ぎて東方に向かい、湯の山峠を越えると伊勢国に至ることから、古代から周辺地域は陸路の要所となっていました。若宮神社の背後に流れる野洲川(松尾川)若宮神社は、市守宮(蛭子神社)、穴穂宮(神戸神社)と敢都美恵宮(都美恵神社)を、ほぼ一直線に結ぶ線上に位置しています。元伊勢の遷座地を特定する際に、市守宮から北方に向けて順次、拠点を見出し続けた結果、その延長線に若宮神社の地が候補地として浮かびあがった可能諏訪大社下宮富士山次頁に続く