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概要

vol_159

2015年(平成27年)1月24日発行第159刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 159Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~19:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部元伊勢と三輪山のレイラインVol.IV倭姫命の先祖ゆかりの地に建立された坂田宮の背景を探る聖なる光と共に神御自身が示されたことから、神を祀る聖地として古代から崇められてきた三輪山を基点として始まった元伊勢の御巡幸は、およそ半世紀を費やして三輪山の北と南、西方向を網羅します。そして倭国に戻られた後、御巡幸の責務は崇神天皇の皇女である豊鋤入姫命より垂仁天皇の皇女、倭姫命に継承され、第2ラウンドに入ります。その後、新たに東方への旅が始まりました。そして宇陀から名張、柘植と南北に繋がる山脈の裾野に広がる野と川に沿って北東方向に進み、そこから甲賀高原と呼ばれる大自然に囲まれた地域を越えて更に北上し、琵琶湖の東、坂田の地に到達したのです。元伊勢の御巡幸という80余年にわたる聖地巡りの旅には、様々な目的があったと考えられます。その内の一つが、三輪山から見て、東西南北の平野部にあたる要所を全て訪ねて回り、神宝の存在とその勢威を庶民に知らしめることだったでしょう。それ故、一見、無防備とも思われるような遠方の地へも堂々と御巡幸を続け、それら地域の人々が天皇に服従し、都への忠誠心が確認できるまで時間をかけて、庶民の啓蒙に努めたのではないでしょうか。だからこそ、人口が集中しやすい平野部をターゲットに御巡幸地が定められ、短期間で大衆の信頼を勝ち得るための施策が検討され、プロパガンダが広められたと思われます。倭姫命御一行の御尽力と想像を絶する御苦労を考えると、なぜか熱い思いが心に溢れてきます。しかしながら古代、琵琶湖の東側にあたる坂田の地周辺は湿地帯に囲まれていたと想定され、これまでの御巡幸地とは異東アジア史を塗り替なり、えたイスラエル集落を形成するには難し民族の五大百箇移御動統の珠から潮生流まれい地域であったと考えられます。た五柱の男神のひとりであるそれだけに、神宝を携えた倭姫天津日子根命に由来すると考え命の御一行が、交通にも不便でられます。その天津日子根命あり、洪水の危険にもさらされやすい湿地帯に坂田宮の場所を見出したということは、常識では考えられません。その史実の背景には何かしら特別な理由があったと推測されます。その答えを、地域の歴史的背景と倭姫命の家系、そして古代レイラインの分析から見出すことができます。由緒ある坂田宮の歴史的背景とは垂仁天皇8年、倭姫命の御一行は甲賀日雲宮を去った後、琵琶湖の東部を北上し、近江国、今日の滋賀県坂田郡へと向かいました。当時、地域一帯は海抜0mに近く、周辺は湿地帯に囲まれていたと想定されます。倭姫命の御一行は、時には徒歩で、時には琵琶湖に繋がる天野川を船で下ってきたことでしょう。そして琵琶湖の北、東側沿岸近くに到達し、そこに坂田宮を特定したのです。その境内には丹波国吉佐宮(真名井神社・籠神社)と同様に真名井と呼ばれる井戸も存在し、御巡幸地における聖水の大切さが改めて思い起こされます。坂田宮の南NCJ109方には日本今とユダヤの日の彦ハーモニーから続く根市があります。その地域周辺は古くからその地名で呼ばれ、江戸時代では彦根藩の領地として知られていました。彦根という名前は、天照大御神の末裔が、息長水依比売を曾祖母とする倭姫命です。つまり坂田宮の周辺は、倭姫命の先祖ゆかりの地だったのです。これらの歴史的背景があるからこそ、琵琶湖の東部は古くから息長とも呼ばれ、そこには古代より、天照大御神の子孫を含む皇族が集落を形成していたようです。その息長水依比売について古事記では、「近淡海の御上の祝が以ちいつく天之御影神の女」と表現しています。この記述から、息長水依比売の父は琵琶湖東部の坂田にて祭司を務めていたことがわかります。その息長水依比売を娶られたのが、10代崇神天皇と腹違いの兄弟にあたる彦最坐終王です。編彦坐王が一目置かれた理由彦坐王と複数の妃からは多くの子が生まれ、中でも狭穂姫命(さほひめ)は垂仁天皇の前皇后になられました。また、彦坐王と息長水依比売との間には、丹波国の祖である丹波道主命が生まれ、その娘、つまり彦坐王の元伊勢坂田宮のレイライン諏訪大社前宮宇佐神宮日向(宮崎)剣山室戸岬蒲生田岬坂田宮-1-富士山Part.II孫にあたる比婆須比売命は、後に垂仁天皇の後皇后となります。その系譜から垂仁天皇には皇子として日本武尊の父となる第12代景行天皇が、また、皇女として倭姫命が生まれます。よって倭姫命とは、息長水依比売命の直系として祭司という聖職者の流れを汲む家系を継ぐお方であり、なおかつ、垂仁天皇の皇女でもあったのです。また、彦坐王と袁祁都姫命(おけつひめ)との子孫の中からは、2世紀、坂田の地域を支配した息長宿禰王が登場します。息長宿禰王は神功皇后の父王となったお方であることから注目です。彦坐王御自身は、異母兄弟の崇神天皇が第10代天皇として即位したため、天皇の直系からは外れることとなりました。しかしながら、第11代垂仁天皇の皇后は彦坐王の子孫から輩出され、そこから景行天皇と倭姫命が生まれ、その家系から日本武尊や第13代成務天皇以降の天皇が輩出されています。垂仁天皇以降の皇族の歴史は言うまでもなく、その皇后となった彦坐王の孫娘の存在により育まれたのです。また、彦坐王の曾孫である息長宿禰王は神功皇后の父王です。つまり第14代仲哀天皇と、その皇后となる神功皇后は、双方が彦坐王の家系から輩出されていたことになります。それ故、古事記において彦坐王の系譜は、孫から曾孫、更には玄孫に至るまで記載され、開化天皇記の半分以上が彦坐王に関する記述となるほど、彦坐王が天皇に準ずるレベルで大切に取り扱われています。また、彦坐王の名前には記紀において初めて、「王」という名称が用いられていることも注目に値します。近淡海に隣接する坂田の地にて神を祀る祭司の家系と、彦坐王の系譜を汲む比婆須比売命を母とする倭姫命は、父である11代垂仁天皇の命に従って、元伊勢御巡幸の任務を全うするために生涯を捧げられました。そして天皇家にとって最も大切な神宝を授かり、それを携えながら、なつかしき親族ゆかりの地である坂田の地へと旅を続けたのです。長い年月をかけた御巡幸の中でも倭姫命にとって、坂田宮への旅は一味違うものであり、その御巡幸地に向かうことに心を弾ませたことでしょう。そして魂を潤す大切な故郷の地にて、2袁祁都山姫代之大筒木真若王迦祢米雷王息長宿禰王神功皇后彦坐王丹波道主命比婆須比売命天津日子根命息長水依比売倭姫命成13務天皇応15神天皇開9化天皇豊城入彦命景12行天皇日本武尊仲14哀天皇崇10神天皇垂11仁天皇鐸石別命豊鍬入姫命年にわたる大切な日々を過ごされたのです。皇室の歴史とも絡む由緒に満ちた坂田宮ではありますが、その大切な聖地が今日、無造作に分断されていることに驚きを隠せません。明治23年、当時の国鉄と行政による横暴な判断により、坂田宮の境内を横切る形で北陸本線のレールが敷かれてしまったのです。そして坂田宮社殿はやむを得ず、同一敷地内を移転せざるをえなくなりました。何故、この大切な歴史的遺産を守ることができなかったのか、悔いが残ります。坂田宮のルーツに潜むユダヤの可能性迦具夜姫境内を分断する北陸本線の踏切坂田宮は坂田神明宮、坂田大神宮とも呼ばれています。古くから元伊勢の伝承地として天照大御神を祀る坂田宮と、豊受毘売命を祀る岡神社の2社を、伊勢神宮のように内宮と外宮に分けて人々が参拝したことから、いつしか坂田宮岡神社とも呼ばれるようになりました。岡神社で祀られている豊受毘売命は、古事記によると伊弉冉命の孫にあたり、天孫降臨された後、外宮の度相(わたらい)に鎮座されました。それ故、伊勢神宮の外宮では豊受毘売命が豊受大御神とし次頁に続く