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vol_159
2015年(平成27年)1月24日発行第159刊毎月第3土曜日発行購読無料坂田宮の太鼓橋て祀られ、同様に坂田宮岡神社の外宮にあたる岡神社でも豊受毘売命が祀られるようになったと考えられます。豊受毘売命は穀物、農耕、御食津を含む衣食住に纏わる神として古代より崇められ、天照大御神の神饌の神としても知られています。神名では「ウケ」という言葉は食物を言い表します。それは、「受」という名前を含む豊受毘売命が、食物を司る女神として崇められていたことに起因しているようです。坂田宮の社伝には岡神社の創始が、宇賀野魂命の降臨による五穀豊穣の守護から始まったことが記載され、地域に広まった宇賀野という地名のルーツも、その神の名に因んだものです。また、岡神社で祀られている豊受毘売命と宇賀野魂命は、「同性格の五穀の神」であると明記されていることからしても、「ウケ」「ウカ」という名称がどちらも食物に関連づけられていたと考えられます。倭姫命が坂田の地を訪れた際、神田を献上し、後世において伊勢神宮の神饌が坂田にて調進されるきっかけにもなったのも、岡神社の神が食物の守護神とみなされていたからではないでしょうか。今日、岡神社は坂田宮の境内にて祀られ、坂田宮に合祀されています。岡神社の名称についてはその由来がはっきりとしませんが、岡神社の創始が宇賀野魂命の降臨と絡んでいたという内容の社伝から察するに、古来、「受」「宇賀」「岡」の読みは同一であった可能性があります。豊受姫命と同一視された宇賀野魂命が降臨されたことを機に神社がまず建立されました。そしていつしかその近隣に坂田宮が建立され、宇賀魂野命を祀る神社は外宮として位置付けられ、天照御大神を祀る坂田宮は、その内宮となったのです。そして時を経て、「宇賀」という言葉が多少訛って「オカ」と発音され、「岡」とも記載されるようになるうちに、宇賀魂神社のことを岡神社とも呼ぶようになったのかもしれません。豊受姫命は神楽歌の中では止与遠加比と記されることもあり、「受」の読みが「ヲカ」となっているだけでなく、尾張国風土記では豊受姫と豊岡姫が同一視されています。また、大殿祭の祝詞では豊宇気姫命が宇賀能美多麻とも記載され、「ウケ」と「ウガ」、「オカ」という読みが随所に混在して用いられています。つまり「岡」と「宇賀」「受」は、元来、同一の神に由来する名称であった可能性が高いのです。一般的には神名の「ウケ」は食物を指しています。そして坂田に降臨した神名には「ウケ」という名前が含まれることから、坂田宮岡神社の神は、食物を司る女神であると考えられています。その可能性は否定できないものの、これら神社の由緒ある背景を振り返るならば、そこに降臨される神の名前を「食物」とすることに疑問を感じないではいられません。ましてや岡神社の語源が「食物神社」では、例え食が大切な古代社会であっても、神社の名前としては不適切かもしれません。「受」、「ウケ」という言葉は元来、ヘブライ語であったと考えると、一連の神社名をすっきりした意味で捉えることができます。ヘブライ語には(u h k h a、ウカ/ウガ)という言葉があり、統一、一体、一つとなることを意味します。すると宇賀魂とは、一つの魂となることを意味し、宗教上の考え方からしても大切な意味を持つ言葉となります。また、岡の読みが宇賀、「ウカ」に由来すると仮定するならば、岡神社の意味も同様に、統一された神社、一つの神社、または唯一神の神社という意味になります。すると、外見上は内宮、外宮とに分かれている神社が、実はそれらが一つとなって全体を成す、統一神社であることを意味することになります。岡神社の「岡」、「ウカ」という名称は、ヘブライ語に由来しているのではないでしょうか。さらに、坂田の地を古くから治めていた息長宿禰王の名前もユダヤ系であり、「宿禰」がヘブライ語に由来している可能性もあります。宿禰(すくね)の語源は一般的には古代の姓(かばね)のひとつであると言われている程度であり、その意味についてはほとんど言及されてきませんでした。日本語では意味の無い言葉でも、「すくね」をヘブライ語で読むと、その言葉の意味が明確に浮かび上がってきます。宿禰は、ヘブライ語の(sokhenet、ソケネ)に宿禰の漢字を当てた言葉だったのです。「すくね」とも聞こえる「そけね」の意味は、管理者、エージェント、使いの者、を指します。よって上からの命により、その土地を管理するために遣わされた者、地域の管理者、領主をも意味するヘブライ語の言葉だったのです。それ故、古代では、様々な功績をもって人の上に立つ管理者に対し、「宿禰」という尊称が与えられたのではないでしょうか。うかんむり(宀)に象徴される屋根の下に「百人の人」が存在することを示しているのが「宿」という漢字です。古代、ローマ帝国の影響下にあった西アジアでは、「百人隊長」という言葉が用いられていたように、人のグループを100人ごとに編成する考え方が普及していました。新訳聖書にも百人隊長、百卒長という言葉が頻繁に使われています。よって、10 0人の集団、大勢の人々を管理して守るリーダーを象徴する「スクネ」という言葉に対し、まず「宿」の漢字をあてたのです。そして「禰」は、神の依代、すなわち神が依りつく物や地域を言い表します。すると「宿禰」という漢字は、「神が依りつく地域に住む人々を統治する」という意味になります。つまり、大勢の人々が居住する集落において人々を管理することを命じられた使者が、sokhenet、すなわち宿禰なのです。宿禰という言葉は1世紀前後では、竹内宿禰のように大勢の人を従えていた権力者や貴人を言い表す尊称として知られるようになりました。そして後には、連(むらじ)の姓を持つ天神、天津系の子孫を指す神別氏族に与えられるようになります。後述するとおり、天津系の子孫は元来、イスラエルの祭司一族であったレビ族の血統を継いでいる可能性があります。レビ族は宗教儀式に熱心であり、神事に携わることが許された唯一のイスラエルの部族です。それ故、日本に移住した後も、日本列島各地において宗教的儀式を広めていくことに熱心であったに違いありません。そのレビ族の末裔が天津系の民として知られるようになり、宿禰という尊称が与えられるようになったと考えられます。古代聖地を結ぶ坂田宮のレイライン皇族の歴史と深く関わる由緒ある土地柄でありながら、琵琶湖の東部にある湿地帯という、立地条件では恵まれない地域の一角に建立された坂田宮だからこそ、その場所がわざわざ特定された背景には重要な意味が含まれているに違いありません。日本列島の重要な聖地を結ぶレイラインが交差する地点が、もし、坂田宮の地と一致するならば、例え湿地帯の真ん中であっても、古代、神社が建立された理由が見えてきます。その推理を裏付けるように、正にピンポイントで坂田宮の聖地は見出されていたのです。坂田宮本殿特筆すべきは、琵琶湖の東岸近くに建立された坂田宮の緯度が35度20分であることです。この緯度は、富士山の頂上でも、今日の宝永山に近い頂上の南側の際を指します。つまり坂田宮を建立する場所を特定する際、まず、富士山頂と同緯度の場所であることが求められたのです。次に、この富士山頂を通り抜ける緯度線に交差するレイラインとして検討されたのが、日向と四国剣山を結ぶ線です。古代の日向は前述したとおり、宮崎市の北部周辺にあったと考えられます。そして日向と剣山を結ぶレイラインが富士山頂の緯度線と交差する地点に坂田宮が存在します。また、四国の2つの岬も、坂田宮のレイラインに絡-2-