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2015年(平成27年)2月21日発行第160刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 160Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~19:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部元伊勢と三輪山のレイラインVol.V美濃国から伊勢へと向かう船旅の原動力となる船木氏の存在倭姫命による元伊勢御巡幸とは、大切な神宝を携えつつ、多くの従人と伴に列島内の諸国を巡る旅です。付き添い人の大部分は女性であり、当然のことながら、旅の難所は避けなければなりません。それ故、元伊勢の地とは、必然的に水源に恵まれた川沿いの平野部に位置することが多くなり、周辺の地勢からもわかりやすく、なおかつ、複数のレイラインが交差する地点が厳選されたのではないでしょうか。2年に及ぶ坂田宮での滞在を終え、満を持して琵琶湖沿いの拠点を後にした御一行は、東方の美濃国を目指し、北に伊吹山、南には霊仙山を見渡しながら、山間のすそ野を真東に向かいました。そして35kmほど進み、木曽川の支流である長良川沿いに辿り着いたのです。そこで目にしたのは古代の波止場町でした。伊久良河宮の比定地となる安八町古代、岐阜の長良川沿いは巨大なデルタを構成し、大湿地帯を形成していました。そのデルタの接点となる地に、次の元伊勢となる伊久良河宮の聖地が見出されたのです。そこは琵琶湖東岸の坂田宮と同緯度であり、周辺の地勢を見渡すと、西方には伊吹山に連なる山脈が、そして北方全体も巨大な岐阜の山脈が立ちはだかっています。それら山々の北側は日本海であることから、そこから更に北へ移動する理由は、もはやなかったのです。今日では安八町と呼ばれる長良川沿いの地域に、宇波刀神社と名木林神社が1kmほど南北に離れて建立されています。そして、それぞれに伊久良河宮と呼ばれた元伊勢の伝承があります。過去、長良川は木曽川と同じく河川氾濫による被害に再三良川へと重なっています。NCJ109日本とユダヤのハーモニーから続く比定地の有力候補となる宇波刀神社長良川は伊勢湾に繋がる木曽川に合流するだけでなく、そこは美濃国と尾張国の境となる河川沿いの三角地帯であり、川を東アジア史を塗り替えたイスラエル民族大移動の潮流広大な一級河川八雲山石鎚山剣山長良川伊久良河宮のレイライン(宇波刀神社)遭遇したことから、これらの神渡って東西を行き来する交通の社は余儀なく遷座を繰り返して要所でもありました。その陸海、きました。よって、元地がどこに双方の拠点となる河川が合流すあったのか、今日ではわからなくる周辺は、古くから波止場町となってしまったのです。しかしなして発展を遂げ、そこにPart.II伊久良がら、長良川沿いが信仰の宝庫河宮が建立されたのです。倭姫であることは、河川沿いに多くの命の御一行は、その伊久良河神社が残されていることからも宮に4年間滞在した後、長良川わかります。宇波刀神社から名を船で下り、次の係留地である木林神社までは1.8kmほどの距中嶋宮では、船が献上されまし離がありますが、その間だけでも、た。それ故、伊久良河宮の近郊六社神社、大県神社、金峯神社、で、少なくとも一隻の船が倭姫八幡神社、秋葉神社と呼ばれる命の滞在中に造られた可能性が5社の神社が河川沿いに建立さあります。その伊久良河宮の比れています。その枠から外れると、定地として最も有力視されるの北方1.8kmには浅間神社1社しが、宇波刀神社です。かなく、南方には社宮神社と白髭神社、そして1.9km離れている秋葉神社3社しかありません。いかに宇波刀神社と名木林神社に挟まれたエリアが古代から重要視されていたか、神社の建立数からも窺うことができます。最終編宇波刀神社また、伊久良河宮の周辺が水路を活用した交通の要所である地域の歴史に詳しい愛知大ことは、次の巡幸地である中嶋学教授であった安藤氏によると、宮において、船が一隻、献上さ宇波刀という名称は、宇(海)れたことからも察することがでと波刀の複合語であり、「う」はきます。「美濃国造等、舎人市主・大きいこと、「はと」は泊、波止地口御田を進る。並びに御船一場を意味することから、合わせ隻を進りき」と、倭姫命世記にて「大きな波止場」となり、伊久は記されています。つまり、伊久良河宮はその名称からも、河川良河宮から中嶋宮までは船で移沿いに建立された波止場の宮で動し、その出発点となる伊久良あったと理解できます。これらを河宮の波止場では造船が盛んで総合して考えると、長良川沿いあったと想定できるのです。実の大規模な船着場周辺に存在し際、美濃国では古代、周辺の湿た伊久良河宮が、いつしか宇波地帯に大きな河川が流れ、船を刀神社と呼ばれるようになったと用いて川を行き来していたことで推測されます。その交通の要所しょう。その川は古くから合流・である波止場の集落に、倭姫命分流を繰り返しながら、今日でが到来したのです。は木曽川に連なる一級河川、長長良川沿いに建立された宇波刀神社が元伊勢の聖地である理由は、その地域が交通の要所で諏訪大社あるだけでなく、その歴史的背船来山景からも理解することができま宇波刀神社富士山す。倭姫命が安八町の宇波刀神社に立ち寄られた伝承について三輪山は、宇波刀神社の由緒に、「倭姫命は、天照大神を奉戴し近江国から美濃国の伊久良河宮に四年間御滞在になり、尾張国にお-1-移りになる途中お立寄になった由緒深いお社」と記されています。他社への配慮でしょうか、伊久良河宮の比定地として明記するのではなく、「お立寄になった」という言葉をもって、安八町の史跡と認定しています。由緒によれば、昔の本殿は瓦葺屋根丸柱造りという伊勢神宮の社殿造りを堅持する神明造りです。そして江戸時代初期には境内近くの堤外に「皇太神宮」と呼ばれた木製の燈明と大檜があったと言われ、元来は内宮と外宮とに分かれていました。宇波刀神社の祭神は、天照大御神、豊受大神、気津御子神、そして倭姫命も含まれています。また、本殿に保存されている二面神鏡には、その中央に「宇波刀神社」、右に「伊久良河宮」、左に「内宮」と記されています。現存する棟札に「伊久良河宮」という記述が見られ、「美濃国古蹟考」「美濃明細記」「安八町史」でも宇波刀神社を伊久良河宮の比定地としています。神社の近隣は古代の物部郷であり、物部明神を祀る神社や、物部氏を祖神として祀る大縣神社も存在し、地域一帯において物部氏が多大なる影響力を持っていたことがわかります。さらには宇波刀神社の周辺からは多くの弥生土器と土錘が発掘されています。物部氏のルーツは、西アジア、イスラエルからの移民の中でも、祭司の役目を担う宗教色の濃いレビ族と関連していた可能性があります。よって、その物部氏が名実ともに取り仕切っていた安八町、宇波刀神社周辺の地は、まさに神宝を守護する責務をひたすら背負っていた倭姫命の御一行にとって、心の拠り所となる聖地に見えたことでしょう。また、宇波刀神社が坂田宮のほぼ真東に位置していることも見逃せません。つまり、坂田宮から真東に進むと、長良川の浜辺と突き当たる地点の近隣に宇波刀神社を見出すことができることから、旅の指標としても絶妙の位置付けと考えられたのではないでしょうか。厳密には、坂田宮から真東の地点は宇波刀神社と名木林神社、2社のちょうど中間にあたりますが、古代より遷座を繰り返していることもあり、その近郊に伊久良河宮の拠点があったという推測が現実味を帯びてきます。名木林神社と天神神社も比定地か?宇波刀神社の下流に建立された名木林神社は、元来、神明社とも呼ばれ、宇波刀神社と並ぶ、伊久良河宮の有力な比定地候補として知られています。名木林神社の歴史は造船と絡んでいることから注視する必要があります。垂仁天皇の時代、船が献上された史実については名木林神社の由緒にも記載され、今日まで伝承されています。そこには当時のいきさつが具体的に記されています。内容は以下のとおりです。『皇女倭姫命が天照大御神をお祀りする良い場所を探して各地を御巡幸され、美濃国へもお越しになりました。この際、県主から船二隻が献上されましたが、その船は港近くにあった大木の生えた林の木にて造られました。倭姫命は、その船にて尾張へと行かれ、最終的に伊勢の地に天照大御神をお祀りになられましたが、船の木を調達した林には、倭姫命の御安全を祈願して神社が祀られました。当時、この地は波打ち際を表す「ナギハヤ」と呼ばれており、船にする良い木の林があったことに因んで、「名木林」の字が当てられ、「名木林明神」と呼ばれるようになった』この記述から名木林神社は、船の献上という歴史的な事業に大きく貢献した神社であり、その近隣にて船が造られた可能性が高いことがわかります。それ故、伊久良河宮の比定地候補として掲げることができます。名木林神社の境内伝承地の中には、天神宮とも呼ばれる天神神社も瑞穂市居倉に存在します。そこでは神世七代の神々が祀られ、主神は伊弉諾命、伊弉冉命とされています。その小祠のひとつに倭姫命が祀られています。また、境内には椅子のような形をした幅1mほどの石が一対、向かい合って並んでいます。天照大神の御舟代として祀られているとされるこの「みふな石」は、倭姫命の御腰掛であり、神石の前に茂る榊は倭姫命自身が植えられたものであるという伝承もあります。さらに境内の東方には倭姫命が汲まれた井戸の伝承も残されているのです。天神神社がある地は古くから居倉と呼ばれ、その「いくら」と次頁に続く