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概要

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vol. 160墓ではなく、新たに地域に流入した人々のものと考えられています。船来山の円墳は横穴式石室に代表されるように、その大半は6世紀前半以降に造られています。石室には特徴があり、片袖式と床面の段差が多く見られることが注目されています。また、古墳時代後期6世紀頃に造られたベンガラと呼ばれる石室の中が赤い、赤彩古墳も複数発見されています。そして、これらの古墳は朝鮮半島、九州北部、畿内の百済系の横穴式石室と類似点があることから、一須賀古墳群と同じく、船来山を拠点とした氏は渡来系の集団に属していた可能性が高いと考えられています。縄文時代から弥生時代にかけて、特に前1世紀以降は多くの渡来人が大陸から列島に渡ってきたと推測されています。渡来系の豪族として著名な秦氏に限らず、その後も移民の波は続きました。例えば7世紀には百済人700余名が琵琶湖の南東部に居住し、既に渡来者が居住していた地域に、新たに参入しています。続日本紀(715年)によると、尾張国から新羅人74家が船来山南方の本巣郡東部に移住し、席田郡を新設したことも記録に残っています。船来山や伊久良河宮の周辺では古代でも河川の氾濫が生じていたことから、海洋技術を携えてきた渡来系の部族が率先して移植され、古くから渡来人の集落が形成されたことでしょう。その傾向は特に5~6世紀以降に強まり、その結果、船来山では多くの古墳が造成されるようになったと考えられます。船来山の古墳も渡来系ルーツである可能性が高いことがわかります。船来山からは多くの遺物が発掘されていることにも注目です。カリフォルニアのおいしい水アクアヴィル2ケース※税・送料込フィットネスハウス昭和42年には24号墳が発見され、大きな刀や鏡5枚、そして副葬品も多数出土し、大きな話題を呼びました。また、97号墳からは方形革綴短甲と呼ばれる鎧もほぼ原形をとどめた形で発掘されています。遺物の多くは小河川沿いに広く分布しており、周辺一帯が湿地帯であったことから、徐々に農耕生産に携わる集落が平野部に向けて形成されていくようになったと推測されます。伊久良河宮の方角にあたる山の南麓からは、縄文時代早期から弥生時代に至るまでの土器や石器など、多数の遺物が出土していることからしても、船来山の歴史は、古墳時代や、元伊勢御巡幸の時代である1世紀前後を遥かに遡ります。船来山は河川に囲まれた湿地帯であり、船を使ってアクセスする必要がありました。それ故、海上交通を取り仕切る船木一族は、地域を統治するには相応しい背景と技術を兼ね備えていました。そしていつしか、大湿地帯の中に浮かぶ船来山へも船で行き来し、元伊勢御巡幸の時代には、そこに一大拠点を築いていたと考えられます。アクセスが不便であった船来山は、当初、船木氏の拠点として、大切なものを収蔵するための領地として用いられたのではないでしょうか。よって、元伊勢御巡幸の際には、船木山が神宝の秘蔵場所として用いられた可能性も否定できません。そして長良川の河川に浮かぶその小山は、いつしか船来山と呼ばれるようになったのです。倭姫命の御一行が伊久良河宮を離れて中嶋宮に向けて南下した際、共に神宝も船で移動されることになりました。その護衛を務めたのが船木氏であり、最終的に船木氏は船来山を去ること2ケースセット!計48本?携帯でのご注文はこちらTEL500mlボトル24本入1,858円※一部離島を除く0476-89-3111になります。そして船木氏が残した遺跡を継いで、古墳時代では主に渡来系の人々により、墳墓が造られるようになったと推測されます。その結果、多くの石室が造られることとなり、今日、遺跡としてその姿を現しています。これらの背景を考慮すると、伊久良河宮の比定地が宇波刀神社や名木林神社の周辺地域に存在したと推定するに十分であるだけでなく、元伊勢御巡幸の背景には、船木氏の貢献が多大であったことがわかります。そして、倭姫命が訪れた際には新しい船が造られただけでなく、その後、船木氏に護衛される形で倭姫命は船で伊久良河宮から南下し、伊勢へと向かうことになります。後述するとおり、この船木氏こそ、神宝の行方を示す鍵を握る一族です。元伊勢御巡幸の意義と、その結末が見えてきます。伊久良河宮(宇波刀神社)のレイライン伊久良河宮のレイライン(天神神社)沖ノ島伊久良河宮の比定地を宇波刀神社とするならば、これまで辿ってきた数々の元伊勢と同様に、伊久良河宮が剣山を指標に特定された聖地であったと理解することができます。まず、宇波刀神社が富士山頂の南側と同緯度の35度20分にあることに注目です。つまり、富士山と同緯度に宇波刀神社が存在し、それが富士山のレイラインとなります。それと交差するのが、剣山と諏訪大社下宮を結ぶレイラインです。この富士山と剣山という日本を代表する聖山を通り抜ける2本のレイラインが交差する地点に八雲山石鎚山宇波刀神社があります。こうして宇波刀神社は、富士山と剣山の地の力を受け継ぐことになったのです。それは、伊久良河宮が剣山に紐付けられ、元伊勢の一つとなるべくその指標を共有することを意味しているのではないでしょうか。更に大事なことは、宇波刀神社の真北に船来山の頂上が存在することです。船木山は前述したとおり、船木一族によって統治されていたと考えられます。その山と宇波刀神社がレイラインによって結び付けられていたということは、伊久良河宮の創設後、船木一族がその真北に浮かぶ船来山を、伊久良河宮に紐付けることのできる大切な場所として特定したからに他ならず、偶然の一致ではないようです。伊久良河宮の比定地を見極めるためには、元伊勢の地に共通する剣山との繋がりだけでなく、坂田宮からのアクセス、及び、河川を船で渡る航海技術の有無なども検討する必要があります。宇波刀神社の近郊には古代の重要な波止場があり、造船が行われ、地域と船木一族との関連性も認められます。よって宇波刀神社は、伊久良河宮の比定地となる条件を満たしており、宇波刀神社のレイラインもそれを証しています。伊久良河宮(天神神社)のレイライン伊久良河宮の比定地として候補に挙げられる天神神社のレイラインも、重要な指標をベースにして形成されています。富士山と出雲の八雲山を結ぶレイラインに対し、鹿島神宮と宗像大社の沖ノ島を結ぶレイラインが交差する地点に、天神神社が位置します。また、この場所は、石鎚山と諏訪大社を結ぶ線上にもあります。これは、天神神社が富士山と石鎚山だけでなく、剣などの神宝と深い関わりのある出雲の八雲山、鹿島神宮、沖ノ島に紐付けられていることを意味しています。前述した宇波刀神社にひけをとらない名所の数々が名乗りを上げていることに注目です。しかしながら、剣山が含まれてないことや、坂田宮の緯度線より更に北に位置することなどを考えると、伊久良河宮の比定地としては、あくまで宇波刀神社の次点ということになります。(文・中島尚彦)引き続き、他の元伊勢御巡幸地のレイラインについても、Ahttp://www.historyjp.com/で紹介しています。是非、ご覧下さい。天然温泉の配膳スタッフ募集[業務]静かな温泉施設内、レストランの配膳業務[資格]車通勤可(大駐車場完備)、未経験者も歓迎[時間]9:30?21:30、1日3時間以上で応相談。土日祝日、夜(16:00~21:30)できる方、主婦・学生歓迎します。[給与]時給900円※正社員登用制度あり[待遇]社保完備、従業員家族を当館へ無料優待[応募]下記へ電話連絡の上、履歴書を持参ください同時募集中剣山《フロント受付》温泉施設の受付にてお客様のご案内《クリーンスタッフ》施設内の清掃、アメニティの補充三輪山宇波刀神社本殿天神神社諏訪大社富士山鹿島神宮0476-28-8111お問合せ〒286-0841千葉県成田市大竹1630 e-mail:info@yamatonoyu.com(担当:採用係)WEBサイト案内日本シティジャーナルをご覧いただきありがとうございます。本紙のバックナンバーはWEBサイトにてすべてご覧頂けます。連載中の歴史に関するコラムは最新情報に随時更新してスペシャルサイト「日本とユダヤのハーモニー」にまとめてあります。ご意見・ご要望等をお待ちしております、FAXやホームページからお寄せ下さい。日本シティジャーナル:http://www.nihoncity.com/日本とユダヤのハーモニー:http://www.historyjp.com/編集後記-3-NCJの発行は京都の印刷会社に依頼していることから時折、京都を訪ねています。日本で今、一番活気のある街が京都。それもそのはず。Trip&Advisorのランキングでは京都が世界一の観光スポット、世界遺産の数も群を抜いて多いのです。安全で、食事もおいしく、円安の助けもあり、外国人観光客が以前の数倍にも増えました。中でも伏見稲荷大社の人気は高く、連日、大勢の参拝客でにぎわっています。1000本鳥居をくぐりながら山頂を目指して参拝する山歩きは日本文化の誇りです。是非、お出かけください!NCJ編集長中島尚彦1957年東京生まれ。14歳で米国に単身テニス留学。ウォートンビジネススクール卒業後、ロスアンジェルスにて不動産デベロッパーとして起業、ビジネス最前線で活躍する。1990年に帰国後、成田にサウンドハウスを立ち上げる。現在ハウスホールディングス代表、日本シティジャーナル編集長を兼務。趣味はアイスホッケーと読書、ここ数年は「日本とユダヤのハーモニー」の執筆に勤しむ。