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概要

vol_161

2015年(平成27年)3月28日発行第161刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 161Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~19:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部元伊勢と三輪山のレイラインVol.VI伊勢へと船出する倭姫命を陰で支えた船木氏の存在伊勢への船旅の基点となる中嶋宮倭国の笠縫邑から始まった御巡幸の旅は、美濃国の伊久良河宮から尾張国中嶋宮へと向かった時点においては、既に70余年という長い年月が流れていました。伊久良河宮の近郊には長良川や木曽川と呼ばれる一級河川が流れ、濃尾平野の中心を通り抜けて伊勢湾に注がれています。倭姫命御一行は、これらの大河を下って伊勢湾に出た後、海岸沿いを伊勢に向かうことになるため、旅路の様相が一変したのは言うまでもありません。それまでの陸路の旅とは相対して、水路が重要視されることになったのです。伊久良河宮を旅立った倭姫命御一行は、伊勢湾の荒波に至る途中、まず、尾張国の中嶋宮にて一時を過ごしたことが倭姫命世記に記されています。日本書紀には中嶋宮の記述はなく、倭姫命御一行は美濃国を旅立った後、そのまま伊勢国に向かったと伝えられています。当時、中嶋宮の地域は美濃国造の支配下にあった可能性があり、そのため、日本書紀では記述が割愛されたのでしょう。尾張国の本神戸は中島郡にあり、太神宮諸雑事記にも皇大神が「尾張国中島郡に一宿」と記載されていることからしても、御一行は中嶋宮に滞在したと考えられます。尾張国中嶋宮での滞在期間は短く、実際には数日程度のものだったかもしれません。しかしながら、倭姫命世記における中嶋宮に関する記述は、伊勢国を除くと元伊勢の中でも、大和国の宇多秋宮と笠縫邑に次いで3番目に長いのです。それ故、中嶋宮での出来事が重要であったことがわかります。しかもその内容は船の話に尽きています。「時に美濃国造等、舎人市主・地口御田を進る。並びに御船一隻を進りき。同じき美濃の県主、角鏑(つのかぶら)作りて、御船二隻を進る。」これら3隻の船が中嶋宮にて全て用意されたのか、それと東アジア史を塗り替もえたイスラエル伊久良河宮から乗り出した船民族みをそのまま大移動当てることにありまの潮流が、改めて正式に献上されたのか、す。「御都張」は「ミツバ」という詳細は定かではありません。いヘブライ語に漢字を当てたものでずれにしても中嶋宮から伊勢へあると理解することにより、作者向けて3隻の船が出港することになったのです。中嶋宮のレイライン(酒見神社)阿蘇山石鎚山ヘブライ語で解明する倭姫命世記倭姫命世記には献上された船に関して、「捧げて船は天の曾己立、抱船は天の御都張」と記載されています。この文面の意味は不透明であり、「天の曾己立」については船が堅牢なことを意味し、「抱船」は捧ぐる船、抱く船と解釈する説がある程度です。特に「御都張」については全く不詳であり、解説さえ見られません。古文書には倭姫命世記に限らず、記紀なども含め、ヘブライ語が含まれていることがあります。よって難解な箇所についてはヘブライ語をあてて読むと、意味が明らかになることが意外と多いのです。「捧げて船は天の曾己立」は、ヘブライ語で「曾己立」を解釈することにより、文の意味が理解できます。「曾己立」の語源はヘブライ語の(sokhreem、ソコリ)であり、「借りる人」「借家人」、時には「雇用主」を意味します。言葉のルーツには商いをする中、エージェントや代理人、賃貸人となるようなニュアンスが含まれています。すると「天の曾己立」とは、天の神が雇用主となって借りてくださることを意味することになります。よって、「捧げて船は天の曾己立」とは、献剣山三輪山酒見神社伊雑宮上された船を神が雇用主として管理してくださるNCJ109故、日敵本とユダヤのや自然のハーモニーから続く災難から船が守られることを象徴する意味であったと考えられます。次に理解が難しいと言われている「御都張」ですが、その原因は「ミトハリ」という日本語の読の意図が明確になります。イスラエル人なら誰でも知っている「ミツバ」については、旧約聖書のサムエル記上巻7章に記されています。預言者サムエルの時代、敵国からの攻撃にさらされながらも、神から授かった契約の箱は大切に守られ、20年という長い年月が経ちました。そして大勢の民が神を慕い求めたことを機に、サムエルは「ミツバ」に民を結集させ、共に断食をもって神の御前にて祈りを捧げ、神の助けを叫び求めたのです。その後、イスラエルは敵国に圧勝し、平穏な日々を過ごすことができるようになりました。「ミツバ」とは、契約の箱の最終編存在と共に、神に祈り求めて平安を得ることができる聖地の象徴だったのです。それ故、「抱船は天の御都張」とは、神宝を抱く船とその民が、「ミツバ」にて契約の箱とイスラエルの民が天の神によって守護されたように、敵から守られ平安に過ごすことができる、という祈りの言葉であったのです。その後、イスラエルの民は契約の箱を担ぎながら各地を移動し、最終的に神から約束された聖地であるエルサレムに神殿を建立し、そこに聖櫃を収めました。エルサレムはヘブライ語で平安の都を意味し、聖櫃が宝蔵されたその神殿にて日々、大勢の民は諏訪大社上社前宮守屋山富士山-1-Part.II祈りを捧げたのです。一方、倭姫命御一行は大切な神宝を携えながら各地を巡り回り、最終地点である伊勢にて神宝を祀り、その伊勢の森にて壮大なスケールの神社を建立し、そこで日々、祈りを捧げることになったのです。伊勢とはヘブライ語で「神の救い」を意味しています。双方の史実を照らし合わせると、多くの類似点があることに気づかされます。中嶋宮の比定地となる酒見神社倭姫命御一行が滞在し、3隻の船が献上されたという伝承が残る中嶋宮の比定地の中でも、圧倒的に有力視されているのが酒見神社です。尾張国中島郡神戸郷に位置する酒見神社は、古代、北大門大明神とも呼ばれていました。その名称は、美濃国より来られた倭姫命御一行をお迎えするための大きな門が神戸郷の北側に作られたことに由来すると伝えられています。また、酒見と呼ばれる所以は、近郊で良質の米が収穫されたことから、酒造師が伊勢より来られて伊勢の祭りにて供える酒を造ったことにあると、文徳録に記されています。それが国内における清酒醸造の始まりとも言われ、酒見神社の名前が広く知れ渡った所以です。境内の中には醸造の際に使用された聖地の古泉とも言われる栄水の井(さかみのいど)があり、古くから禊のためにも大切に用いられていたことが社伝に記されています。酒見神社正面にある皇大神宮御聖蹟の標識酒見神社の御祭神は天照大神、酒弥豆男神、酒湯弥豆姫神です。広い境内の正面、鳥居の横には「皇大神宮御聖蹟」と記された標識が立ち、境内の中には皇大神宮遥拝所があります。本殿裏には倭姫神社があり、その奥には磐船と呼ばれる一対の石が垣根の中に聖別されています。また、造酒用の石槽もあり、中嶋宮が醸造と深い関係があったことがわかります。そして本殿の東側には高さ1mほどの石があり、倭姫命の御姿石であると伝えられています。倭姫命御一行が短期間しか滞在しなかったにも関わらず、倭姫命世記における中嶋宮の記述は、酒見神社内の皇大神宮遥拝所他の元伊勢と比較しても内容が長いだけでなく、船が3隻も献上されるという特異な内容が含まれていることに、今一度注目してみました。それら史実の背景には、どうやら皇族の血縁関係が潜んでいるようです。日本書紀によると、美濃国造は日子坐王の子である神大根王(かむのおおねのみこ)の子孫です。また、倭姫命の母である比婆須比売命の伯父君は神大根王であることから、倭姫命と美濃国造とは深い血縁関係によって結ばれていたことがわかります。磐船の石姿倭姫命が美濃国伊久良河宮を訪れた際、もしかすると御一行をお迎えしたのは神大根王御自身であったかもしれません。そして倭姫命御一行が安心して神宝を搭載し、水上の旅に出ることができるよう美濃国造に働きかけたのではないでしょうか。その結果、造船技術を極めた海人豪族の船木氏が美濃国に召集され、短期間で船が造られたのです。そして新しく手掛けられた船は、長良川、木曽川を中嶋宮まで下り、正式に献上されることになったと考えられるのです。こうして美濃国造をはじめとし、神大根王の呼びかけに応えた大勢の民が祝福する中、倭姫命御一行は伊勢に向けて旅立ったのです。中嶋宮(酒見神社)のレイライン美濃国伊久良河宮から伊勢に向かう途中の中嶋宮(酒見神社)は、地図上では一見、孤立した場所にも見えますが、他の元伊勢の例にもれず、レイラインの観点から検証すると、大変重要な位置づけにあったことがわかります。まず、四国剣山と諏訪大社前宮の裏山にあたる守屋山を結ぶレイラインに注目してみました。この線が酒見神社を通り抜けます。剣山は元伊勢に紐付けられた最重要拠点であり、元伊勢の御巡幸という計画に秘められた次頁に続く