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概要

vol_161

vol. 161本拠地を伊勢から西方への播磨へと移動することになります。倭姫命御一行を伊勢まで送迎した後、時を経て船木氏は、住吉大社のある摂津から更に足を伸ばし、播磨の加茂郡や明石、今日の兵庫県へと本拠地を移したのです。東播磨の地は、古くから船木氏の祖、大田田命らが高質な山林を誇る杣山を保有していたこともあり、船木氏にとっては縁の深い地でもありました。播磨の加茂郡はその後、加東郡となり、今日では兵庫県の加東市・小野市に分けられています。地域を流れる加古川の支流となる東条川の上流には「椅鹿谷」という地名が存在し、その近郊の小野市には船木町の地名も見られ、船木氏が根拠地とした形跡を垣間見ることができます。周辺の山々には良質の材木が多く、伐採に適していただけでなく、それらを運搬するための水路についても、加古川水系の舟運を活用することができたのです。船木氏の活動拠点は古代の加茂郡に限らず、神代記によると、瀬戸内により近い明石郡でも船木村が存在しました。その明石郡からも封戸として住吉大社へ寄進され、大社に仕えていました。明石郡の垂水郷ある式内社の「海神社」は、その名残と考えられます。船木氏が明石郡の地を選別した理由は、既に船木氏の一大拠点となっていた播磨の東条川上流に近いだけでなく、船の建造に必要な鉄資材と丹沙の確保に適した地であったからと考えられています。明石川の上流や、その北方の志染川流域一帯は、渡来系の鉄器加工集団が古代、拠点を設けた地域です。その重要性故に、第22代清寧天皇の時代では、近隣に縮見屯倉(しじみみやけ)と呼ばれる朝廷が直接管理した倉庫が作られたほどです。船木氏はこの地域で得られる鉄の重要性に早くから着眼し、それを加工して木造船の船材の一部として役立てることを視野に、地域の覇権を拡大することに早くから着手したのです。船木氏が注目したもう一つの資源は、木製の船体に塗る朱色塗料の素材として不可欠であった辰砂です。弥生時代から産出されたことが知られている辰砂は、古墳や石棺の彩色に使われただけでなく、朱墨の原料としても重宝され、造船する際に船底を塗装するためにも用いられたのです。また、辰砂は加熱することで水銀蒸気から水銀を精製することもできます。播磨国風土記の逸文によると、明石郡と紀伊国伊都郡の式内社である丹生都比女神社では、ニホツヒメが祭神として祀られ、古くから鉱山の採掘者たちが奉じた神といわれています。船木氏は明石地域だけでなく、その後、海を渡り紀ノ川流域の伊都郡にも進出し、辰砂の確保に努めたのです。古代、辰砂は伊勢国、今日の三重県多気町や和歌山県の吉野川上流が特産地として知られていましたが、そのどちらもが船木氏の拠点であることは偶然ではなかったのです。こうして船木氏は元伊勢御巡幸の最終地であり、天照大神が祀られた由緒ある聖地、伊勢を後にし、早々と播磨の地へと向かい、そこに一大拠点を作ったのです。前述した鉄や辰砂などの資源は播磨に限らず、他の地域からも掘削することは可能だったでしょう。しかしながら、船木氏にはどうしても、淡路島に近い播磨の地へと向かわなければならない理由があったようです。そして海人豪族でありながら、新天地においては海辺を離れて内陸へと向かい、カリフォルニアのおいしい水アクアヴィル2ケース税・送料込フィットネスハウス2ケースセット!計48本?携帯でのご注文はこちらTEL500mlボトル24本入2,180円※※一部離島を除く0476-89-3111山地の中に拠点を設けることが少なくなかったのです。播磨に存在する船木氏の拠点の南方には淡路島が目に入り、その先には四国の剣山を遠くに眺めることもできました。辰砂を掘削するために向かった紀伊国伊都郡、吉野川の上流からも同様に淡路島と剣山を見渡すことができます。もしかすると船木氏は、淡路島と剣山に結び付けられた重大な責務を担っていたのかもしれません。元伊勢の御巡幸にはまだ、謎が残されているようです。船木氏はイスラエルの出自か?古事記の記述から、船木氏の祖先は神武天皇の家系に直結し、皇族の流れを汲む一族であることがわかります。神武天皇の先代は、予言者イザヤに導かれてきたイスラエルからの渡来者であり、ダビデ王の血統を継ぐ王族であった可能性が高いのです。よって、その血統を継ぐ船木氏は多臣族とは言え極めて重要な存在であり、大陸で培われた高度な教養と学問に代表される航海術と造船技術を持っていたと考えられます。ここでは、伊弉諾命や、他の日本建国に関わった神々がイスラエル、そしてユダヤの王系に関わった人物であることが名前や歴史的背景からわかるように、船木氏もイスラエル系渡来者の血統を継ぐ家系であったことを、その名前の由来から検証してみたいと思います。船木、「ふなき」は、舟木、布奈木、など様々な書き方がありますが、なぜ「ふなき」と呼ぶのか、その名称がどこからきたのか、言葉のルーツには定説がありません。「船」「舟」という漢字があてられていることから、単に海人豪族のひとつである、と語り継がれているだけであり、古事記や住吉大社神代記の記述についても、家系の繋がりを記しているにすぎません。「ふなき」という名前のルーツは、ヘブライ語で理解すると、その意味が明瞭になります。ヘブライ語には(hunak、フナッ(ク))という言葉があり、「与えられた」「授けられた」という意味があります。古代の民にとって、人間が海を渡る、ということは神の恵みがなければできないことであり、ちょっとした判断のミスからでも、海流の難所や荒れた海で船が難破したり座礁し、命を落とすことが多かったのです。よって、船は自然を司る神から守護されるという象徴でもあり、命が守られ、天与の恵みが授けられる象徴となったことでしょう。その意味を含めたうえで「ふね」という名称は、洪水神話で有名なノアの箱舟のストーリーにも由来していたと考えられるのです。古代、日本へ渡来したイスラエル系の民族は、様々な状況下においてヘブライ語を用いて日本列島という新天地での生活に順応し、同化していきました。その際、ヘブライ語そのものを用いることが多々あり、それらの文字は後世においてカナ文字やひらがなのベースになっただけでなく、様々な名称や日本語そのものの語源にもなったのです。また、ヘブライ語では文字を右から左に書きますが、ヘブライ語自体、子音と母音に分かれているだけでなく、往々にして子音のみで記述されることが多く、左から右に読むこともできるのです。よって日本に到来した古代のイスラエル系民族は、様々な名称を検討する際に、時には左から右、という逆さ読みをすることがありました。そこで、海上交通に不可欠な乗り物の名称を定める際に、天与の恵みに関連する言葉として、何らかの形でノアの箱舟と結び付ける工夫がされたと推測されるのです。箱舟は命と恵みの象徴であり、海上に浮かび続け、最後には再び陸地に足を踏むことができるという証でもあります。それ故、海に浮かぶ乗り物の名称を、ノアの箱舟に関連付けたと考えられるのです。その結果、その乗り物の名前を「ノア」という名前そのもので呼ぶことにしたのです。「ノア」という名前はヘブライ語では、安息、平穏、平静を意味し、(n o a h、ノア)、または(n o a h、ノア)と書きます。このヘブライ語を左から右に読むと子音だけでは、HUN、H Nとなり、その読みは「フナ」とも、「フネ」ともなります。船木氏は海人豪族として最高峰の航海技術と造船技術を持つ、古代の優れた民族でした。そして日本に渡来した暁には、自らの部族をその象徴となる「船」「舟」という漢字に結び付け、その読みをノアの箱舟という古典的な神の救いに繋がる聖書の話に紐付けたと考えられます。そのために、「ノア」とい名前そのものを用い、それを逆さ読みにして、なおかつ、「フナッ(ク)」という天与の恵みが授けられる意味を持つ言葉に関連づけて、自らを「フナク」「フナキ」と称し、そこに「船木」「舟木」という漢字をあてたのではないでしょうか。船木氏の存在はイスラエル人が古代、日本列島に到来した証でもあり、それはまた、箱舟に乗って大陸から逃れ、日本という新天地において大地に足を踏み入れ、生き延びるという、神の恵みに授かる証でもあったのです。(文・中島尚彦)引き続き、他の元伊勢御巡幸地のレイラインについても、Ahttp://www.historyjp.com/で紹介しています。是非、ご覧下さい。天然温泉のフロント受付スタッフ募集[業務]静かな温泉施設、フロントでの受付業務[資格]車通勤可(大駐車場完備)、未経験者も歓迎[時間]土日祝日、平日16:00?22:00、1日3時間以上で応相談。主婦・学生歓迎。[給与]時給900円※正社員登用制度あり[待遇]社保完備、従業員家族を当館へ無料優待[応募]下記へ電話連絡の上、履歴書を持参ください0476-28-8111お問合せ〒286-0841千葉県成田市大竹1630 e-mail:info@yamatonoyu.com(担当:採用係)WEBサイト案内日本シティジャーナルをご覧いただきありがとうございます。本紙のバックナンバーはWEBサイトにてすべてご覧頂けます。連載中の歴史に関するコラムは最新情報に随時更新してスペシャルサイト「日本とユダヤのハーモニー」にまとめてあります。ご意見・ご要望等をお待ちしております、FAXやホームページからお寄せ下さい。日本シティジャーナル:http://www.nihoncity.com/日本とユダヤのハーモニー:http://www.historyjp.com/編集後記-3-先日、栃木の丸沼高原に8年ぶりにスキーに行ってきました。東京から車で2時間少々で登れる山ですが、何と3m以上の雪が積もっていました。幸いにも天気は良く、風もなく、降ったばかりのパウダー雪が残っており、とても楽しい時を過ごすことができました。そして翌週、アメリカの東海岸に行ってみると数十年ぶりの大雪の直後で、住宅街が見事に1m以上の雪で埋もれていました。これほど多くの雪でも、春が来るとあっという間に雪解けとなります。暖かい春が心地良いこの頃です。NCJ編集長中島尚彦1957年東京生まれ。14歳で米国に単身テニス留学。ウォートンビジネススクール卒業後、ロスアンジェルスにて不動産デベロッパーとして起業、ビジネス最前線で活躍する。1990年に帰国後、成田にサウンドハウスを立ち上げる。現在ハウスホールディングス代表、日本シティジャーナル編集長を兼務。趣味はアイスホッケーと読書、ここ数年は「日本とユダヤのハーモニー」の執筆に勤しむ。