ブックタイトル日本シティジャーナル vol.164

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日本シティジャーナル vol.164

2015年(平成27年)6月27日発行第164刊毎月第3土曜日発行購読無料佐佐牟江宮と斎宮のレイライン(竹佐々夫江神社)剣山室戸岬濱宮の頂点を極めているだけでなく、遠くを見渡すことができるという点において、剣山と同様に地の指標として古代より大切に見守られてきたのです。これらの霊峰は、相互がレイラインによっても結び付けられ、地の力を象徴する霊峰として、古代の民の間で認知されるようになりました。伊吹山はレイライン上、列島最高峰の富士山、出雲の八雲山、そして剣山と結び付いているだけでなく、複数の御巡幸地を特定するためにも用いられた重要な霊峰でした。その伊吹山のレイラインから最終的に、伊勢神宮内宮の場所も、ピンポイントで浮かび上がってくることから、伊吹山も古代の重要な指標であったことがわかります。御在所岳も伊吹山と同等に、霊峰として崇められるだけの存在感に満ちています。レイラインを通じて御在所岳は、剣山、諭鶴羽山、そして石鎚山や伊吹山、富士山、大台ヶ原山など、多くの霊峰を紐付ける存在として、古代から重要視されていたのです。それ故、御在所岳の頂上周辺には、人間の手によって形造られた複数の奇石が存在し、山頂周辺の貴重な目印として今日まで温存されてきました。特に、その頂上からの眺めは特筆に値し、そのほぼ真北には伊吹山、北西方向には琵琶湖、南東方向には伊勢湾、そして南西方向には鈴鹿峠を見渡すことができます。御在所岳頂上その御在所岳から遠く、伊勢湾の向こうに見える島として古代、注目されたのが神島です。古代では防御体制がより安全な離島に神宝が隔離される傾向にあり、命をかけてでも絶対に守らなければならない神宝を確実に守るためには、陸地からのアクセスが難しい離島の存在が不可欠だったのです。それ故、例大宝寺山布気皇館太神社石上神宮竹佐々夫江三与神社輪喜神山天山満瀧神神原社社宮熊野本宮大社大斎原御在所岳野志理神社斎宮神島伊勢神宮伊雑宮えば九州の北方に浮かぶ沖ノ島では多くの神宝が収蔵され、その結果、島自体が神聖化し、古代の海を自由に航海する海人豪族によって守られるようになりました。陸地から遠く離れているだけに海洋技術に長けた海人豪族の力を発揮して、神宝を略奪の危険から守ることができたのです。同様に神島も、陸地から10kmほどしか離れてはいないものの、太平洋に面する大海原に浮かぶ島として古代人の目に留まり、そこに多くの神宝が収蔵されることになります。神島はレイラインの基点としても、極めて重要な位置付けを持っていました。まず、神島は元伊勢の原点となる三輪山と同じ緯度線上にあり、三輪山の真東を守護する離島として、聖地化される地理的要因を兼ね備えていました。それ故、古代より神島は三輪山に結び付く神聖な島として位置付けられ、人々が近づくことを禁じられ、そこに多くの神宝が秘蔵されることになったのです。また、神島と御在所岳を結ぶ線は、琵琶湖の西岸にある大宝寺山を一直線に通りぬけます。富士山と同緯度の線も大宝寺山にあたります。つまり神島のレイラインから台頭した大宝寺山は、富士山と御在所岳に結び付く2本のレイラインが交差する地点にあり、それ故、重要な霊峰として注目されたのです。この大宝寺山は後述するとおり、元伊勢の結末においても、指標として重要な役割を果たすことになります。また、神島は徳島と和歌山の間の紀伊水道の真ん中に浮かぶ伊島と、神奈川の江ノ島を一直線に結んでいます。神島は古代、歌島と呼ばれ、その読みは「かじま」または「うたしま」でした。すると一直線上に「い」の島(伊島)、「う」の島(歌島)、「え」の島(江の島)が並ぶことになり、伊島の北には淡路島、江ノ島の南には大島が存在することから、不思議と「あいうえお」の順で島々が並ぶことになります。これらの島々は、すべて神宝に深く関わりを持ち、一時期、神宝を収蔵する待避所としても用いられた可能性があります。それ故、レイライン上に偶然並んでいるとうよりもむしろ、同一線上にある島々が関連づけられるべく、意図的に命名された可能性があります。伊島では、平安時代に空也上人が観音堂を建立し、島の頂上にある磐座の横には奥の院が建てられ、33か所の遍路までが島内に作られました。また、江ノ島では古代、島の中心部に向けて洞窟が掘られていたことがわかっており、神宝の収蔵に一時期用いられたと考えられます。また、神島に限らず、江ノ島、伊島も古代では、極めて神がかり的な離島として一目置かれた存在であったことがわかります。こうして元伊勢の最終段においては、神宝に関連する重要な指標として霊峰だけでなく、聖なる島々までも特定され、地域の全体像がレイラインの結び付きから把握されたのです。倭姫命御一行が伊勢国に到達し、飯野高宮を旅立つ時点においては、既に最終目的地である五十鈴宮の場所が特定されただけでなく、時に政治情勢が急変し、大陸からの侵略の噂のみならず、国内においても動乱の兆候が見えていました。それ故、御巡幸の旅を終焉させ、神宝をかくまい、盗難の恐れのないところに秘蔵することは急務でした。その結果、伊勢国内の残りの御巡幸地を短期間で巡り渡り、五十鈴宮へと向かうことになったのです。倭姫命世記には、飯野高宮を経て「遂に五十鈴宮に向かうことを得たまえり」と記載されています。そのとおり、五十鈴宮がゴールであり、そこに向かって倭姫命は急ぎました。それでも途中の御巡幸地は無視することなく、着実に足を運び、それぞれの場所で神が祀られました。それだけに、飯野高宮の後に続く伊勢国の御巡幸地も重要であり、その理由をレイラインから検証する必要があります。佐佐牟江宮(竹佐々夫江神社)のレイライン倭姫命の御一行は、飯野高宮の比定地として知られる神山神社を出発し、次の御巡幸地である伊勢国の佐佐牟江宮へと向かいました。倭姫命世記によると御一行は伊勢湾沿いを船で旅を続け、「佐佐牟江に御船泊まり給い」と記載され、そこに佐佐牟江宮が造営されたのです。佐佐牟江宮の比定地は延喜式と神名帳によれば、海沿いに建立された竹佐々夫江神社のことです。その場所は斎宮の北東およそ5km、大淀と呼ばれる地域に位置し、周辺一帯は伊勢物-2-語の記述の中に含まれる斎宮説話の舞台でもあります。佐佐牟江宮での滞在は短期間で終わりました。そして佐佐牟江宮を離れる際には、「風浪無くして海の塩大与度に与度美て御船をして行幸」したことを倭姫命がたいそう喜び、その浜に大与度社を建立したことが、倭姫命世記には記録されています。住宅街の一角に佇む竹佐々夫江神社佐佐牟江宮の地が何もない伊勢湾岸の地にてどのように見出されたか、また、佐佐牟江宮と斎宮の場所がどのように結び付けられたかは、レイラインを考察することにより理解することができます。まず、桑名野代宮の比定地である野志里神社に注目です。そこからほぼ真南、179度40分の方向に線を引きます。次に飯野高宮の比定地である神山神社と、元伊勢の時代では地の指標として重要視された室戸岬を結ぶレイラインを引きます。この2つの線が交差する場所に、竹佐々夫江神社が建立されています。また、倭姫命の御一行が佐佐牟江宮に到達した時点では、御在所岳がにわかに注目を浴び、霊峰としての存在感を増していった時でもありました。御在所岳からは伊勢湾の先に神島を眺めることができ、霊峰と神島を結ぶ線は、琵琶湖西岸の大宝寺山に結び付きます。よって三輪山と同緯度に並ぶ神島も、大宝寺山と共にレイラインの指標として極めて重要な役割を果たすことになります。その大宝寺山と奈其波志忍山宮の比定地である布気皇館太神社を結ぶ線も竹佐々夫江神社に繋がっています。さらに神島と石上神宮を結ぶレイライン上に竹佐々夫江神社が存在することは、もはや偶然の域を超えているでしょう。つまり、神島という三輪山に直結する「神の島」に繋がるレイラインを通して、三輪山や石上神宮、大宝寺山、そして複数の御巡幸地が見事に繋がっていたことがわかります。佐佐牟江宮の地は斎宮の中心舞台となったエリアです。その斎宮が造成された場所も、竹佐々夫江神社を指標として特定された可能性があります。まず、三輪山と同緯度にある神島を結ぶレイライン上に長谷寺、与喜天満神社、そして斎宮が並んでいることは、驚きに値します。次に熊野本宮大社の大斎原と竹佐々夫江神社を結ぶ線も斎宮に繋がり、このレイラインから500mほど離れた場所には瀧原宮も存在します。さらに四国の剣山と御巡幸地のひとつである和歌山の濱宮を通るレイラインも斎宮に繋がっています。そして斎宮と伊雑宮を結ぶレイライン上には伊勢神宮内宮が並んでいます。これらの聖地がレイライン上に綺麗に並び、その交差点に斎宮が存在することからしても、レイラインの構築から佐佐牟江宮の立地条件が特定されたと考えられます。伊蘇宮(磯神社)のレイライン倭姫命世記によると、倭姫命御一行は飯野高宮より伊蘇宮に遷幸されたと記載され、その途中にある佐佐牟江宮と伊蘇宮での滞在は大変短かったことがわかります。伊蘇宮の比定地とされる伊勢市磯町にある磯神社は、佐佐牟江宮の比定地である竹佐々夫江神社から伊勢湾岸沿いを南東方向におよそ7km下る宮川の河口付近にあります。その由緒書によると、宮川の氾濫により旧地は流されてしまい、元来の社地を特定することは困難であるものの、「年月不詳移遷し古跡を宝殿の脇又本殿の脇と号す」と記され、倭姫命の御一行が到来して皇太神を奉じられたという伝承が地域に残されていることからしても、今日の磯神社周辺のどこかに伊蘇宮が存在したと考えられます。磯神社の参道しかしながら、前述したとおり、伊蘇宮の比定地を特定する術はなく、一級河川である宮川の河口は今日でも2km以上の距離に及ぶことから、本来の場所が想定よりも大きく異なる可能性があります。また、伊蘇宮の比定地は磯神社の他に、松坂市の神服織機殿神社や、式内社の相鹿上神社等が名を連ねます。それ故、レイラインの検証による比定地の特定は困難です。磯神社本殿元伊勢の集大成となる瀧原宮のレイライン伊勢湾に面した沿岸を南下し、船で行き巡る御巡幸の旅は、伊蘇宮を離れたあと、なぜかしら川を上って紀伊半島の内陸にある瀧原宮へと向かうことになります。瀧原宮は伊勢神宮内宮の遙宮として知られ、伊勢湾より宮川を上り、その中流となる三瀬谷