ブックタイトル日本シティジャーナル vol.165

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日本シティジャーナル vol.165

2015年(平成27年)7月19日発行第165刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 165Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~19:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部元伊勢と三輪山のレイラインVol. X不思議な出会いの連続により五十鈴河へと導かれた倭姫命元伊勢の御巡幸が大和国から始まった当初、最終目的地が伊勢国であることは、豊鋤入姫命をはじめ、おそらく誰も理解していなかったことでしょう。しかしながら、長い年月をかけて見出された多くの御巡幸地は、NCJ109日本とユダヤのハーモニーから続く東アジア史を塗り替きます。そこでえたイスラエル今一度、「世記民」族大移動の潮流大和国の三輪山を中心として広範囲にわたるだけでなく、そのほとんどが不思議と四国剣山とレイライン上で結び付いていることが確認できます。それ故、当初から御巡幸地は三輪山と剣山を指標として特定され、長年にわたり神宝が遷座され続けていくうちに、鎮座地の最終的な候補地として伊勢国の名前が台頭してきたと考えられます。御巡幸の責務は途中、豊鋤入姫命から倭姫命へと引き継がれます。その時点で伊勢国が最終目的地であることを倭姫命が御存じであったかは定かではありません。しかしながら倭姫命による御巡幸の後半、それまでの陸路の旅から一転して船を用い、美濃国の伊久良河宮、尾張国の中嶋宮から伊勢湾に向かって河を下り、伊勢国北方の桑名野代宮に御遷行する時点では、最終目的地が伊勢国にあることは理解されていたことでしょう。そして倭姫命御一行が伊勢国の領域に到達した後、情報収集は一層活発になり、伊勢国を巡りながら神宝を鎮座する場所が徐々に絞り込まれていくことになります。矢田宮のレイライン(神宮新田)剣山室戸岬伊弉諾神宮伊島今からおよそ20世紀前、90年近くの月日が費やされた元伊勢御巡幸こそ、伊勢神宮のルーツであり、倭姫命が伊勢国の五十鈴宮へと導かれたいきさつについては「倭姫命世記」(世記)の記述から察することがでの内容から、御一行がどのように伊勢国へと導かれたかを振り返ってみましょう。倭姫命姫が伊勢国を目指した経緯「世記」では大和国の笠縫邑から始まった御巡幸地が順番に説明されています。そして倭姫命の代における伊賀国隠市守宮の記述に至ると、その分注に伊勢国という文字が初めて登場します。そこには伊賀国が伊勢国の4郡から分けられて成り立ったと記載され、伊賀国が元来、伊勢国の一部であったことが説明されています。この分注は、先代旧事本紀の巻十の国造本紀、伊賀国造の項に由来するとも言われています。その伊賀国から淡海国、美濃国、尾張国と御巡幸の旅は続き、その後、伊勢国の桑名野代宮へと向かいます。それが「世記」に見られる2番目の伊勢という地名です。桑名野代宮に到達してからの倭姫命世記の記述は一変し、それまでの簡単な概略と年代だけの記述とは異なり、出来事の詳細までも綴られるようになりま竹生島瀧原宮紀伊大島(神宮新田)矢田宮伊雑宮神島(歌島)す。最終目的地である伊勢国に到達したということで、史実をきめ細かに確認しながら編纂する必要があったのかもしれません。また、元伊勢の御巡幸が始まってから既に80年近い年月が過ぎ去っていたこともあり、時代が新しくなるにつれて、より多くの史料を集めることができたことから、詳細まで言及しやすかったとも考えられます。最終編-1-Part.II特筆すべきは、桑名野代宮へ到達した時点から多くの県主が自らの国を紹介するために倭姫命を訪問されたことが、繰り返し記されていることです。例えば伊勢からの最初の訪問者である建日方命は桑名野代宮で参上し、「汝が国の名は何ぞ」と尋ねられると、「神風の伊勢国」と申し上げたことが記載されています。その後、伊勢国界隈を御巡幸された際にも、各地の県主や有力者が同様に倭姫命を訪問され、自らの国を紹介したのです。こうして伊勢国に到達した後は来訪者が後を絶たないようになり、倭姫命の周辺は、にわかに慌ただしくなります。特に伊勢国の飯野高宮にて4年間奉諏訪大社前宮本殿伊賀国一守宮蛭子神社富士山江ノ島斎した際は、多くの県主の祖や伊勢国の有力者が倭姫命の元に訪れます。そして未知の国々や地域が倭姫命に紹介された結果、櫛田社、兵名胡神社など、神を祀る新しい社が各地に建立されたのです。多くの県主の祖らが訪れた理由は単に、倭姫命に御挨拶をするだけなく、中には御巡幸地の最終地点となる遷座地として自らの国を提案した権力者もいたと考えられます。こうして多くの識者や県主など、神宝の行く末と祀りごとに関心を持つ人々との情報交換に時間をかけながら最終目的地の探索は進められたのです。そして飯野高宮を離れる時点では、「遂に五十鈴宮に向うことを得たまえり」と記載されているとおり、倭姫命は五十鈴河の上流が最終目的地であり、そこが五十鈴宮と呼ばれることを知ることとなりました。伊勢国の桑名野代宮そして次の御巡幸地である佐々牟江宮にて短期間滞在した後、伊蘇宮と瀧原宮に向けて伊勢湾から宮川を上流へと上り始めた際、どこからともなく現れた天照大神が倭姫命に、「神風の伊勢国は、即ち常世の浪の重浪帰する国なり…是の国に居らむ欲す」と告げられます。倭姫命は改めて、伊勢国が最終の鎮座地であることを確認し、御巡幸の旅は続けられたのです。そして最終的に倭姫命は、元伊勢御巡幸の最終地点、五十鈴河上流に斎宮と伊勢皇大神宮を建てることとなります。「その祠を建てたまう。因りて斎宮を五十鈴河上に興し立つ。是を礒宮と謂う。天照太神始めて天自り降ります所也。」と「世記」に書かれているとおりです。礒宮とは伊勢皇大神宮の古名です。この倭姫命世記に含まれる伊勢神宮の成り立ちに関わる分注は垂仁記25年3月10日条文と同一であり、天照大神の御神託に従って倭姫命が五十鈴宮を建立されたという歴史の結末を知らしめるために、垂仁記からそのまま引用されています。しかしながら倭姫命が佐々牟江宮から伊蘇宮と瀧原宮へと向かう時点では、最終の鎮座地が伊勢国の五十鈴河上流沿いにあることは理解されていても、まだ、その場所が明確ではなかったと推測されます。瀧原宮は宮川の上流沿いにあり、その河口は現在の五十鈴河の北に3kmほど離れているだけでなく、五十鈴河とは上流で交差していません。また、五十鈴河の河口から5kmほど伊勢湾沿いを南東に向かうと五十鈴河の支流が伊勢湾へと放流していることから、古代、五十鈴河の河口周辺は広大なデルタを形成していた可能性があります。よって、五十鈴河の位置を確かめること自体が難しく、ましてや、その上流にあると言われた聖地を特定することは、困難を極めたに違いありません。それ故、倭姫命が宮川を船で上流方向へと上り、瀧原宮に向かった時点では、その河が五十鈴河であるかどうかさえ倭姫命姫は知らなかったようです。それでも倭姫命は瀧原宮の場所を重要視するあまり、例えその河の名前を特定することができなくとも、そこが最終目的地である可能性を見据えていたようです。それほどまでに瀧原宮の聖地はレイライン上、極めて重要な位置付けを占めていることは前述したとおりです。結果として倭姫命は、「この地は皇太神の欲給う地にはあらず」と悟られたことが「世記」に記されています。つまり、瀧原宮に到達した時点でも、まだ、倭姫命姫は五十鈴河沿いの最終目的地を探し求めていたことがわかります。皇大神宮別宮瀧原宮では、いつ、どの時点で倭姫命は、五十鈴河沿いの皇大神宮の聖地を見出したのでしょうか。その答えも「世記」に記されています。瀧原宮が最終聖地ではないと悟られた倭姫命は、あきらめることなく各地を転々と移動しながら、地元有力者との出会いがあるたびに、「吉き宮処あるや」と声をかけ、聖地を探し求めていくのです。そして徐々に御巡幸の移動が加速することになります。まず瀧原宮から「大河の南へ宮処を求めて幸行」され、そこに見つけた美しい野原次頁に続く