ブックタイトル日本シティジャーナル vol.166

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日本シティジャーナル vol.166

2015年(平成27年)8月22日発行第166刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 166Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~19:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部元伊勢と三輪山のレイラインVol. XI伊雑宮にて完結する元伊勢御巡幸の真相とは豊鍬入姫命より倭姫命へと引き継がれた元伊勢の御巡幸は、その後、34年という長い年月をかけて垂仁天皇26年、神宝の御鎮座地となる五十鈴河上に到達し、そこに五十鈴宮と呼ばれる伊勢神宮の内宮が造営されます。NCJ109日本とユダヤのハーモニーから続く東アジア史を塗り替言えたイスラエル葉が語り告げられ、倭姫命を民族大移動の潮流御巡幸の目的とは「大神の教に随ひて、国々処々に大宮処を求め給へり」と倭姫命世記(世記)に記載されているとおり、神宝の御鎮座地を大神の導きに従って捜し求めることでした。その結果、元伊勢の旅は大勢の人々の協力を得ながら、神の不思議なる導きによる空前の長旅となったのです。振り返れば、元伊勢の旅路は三輪山を原点として笠縫邑から始まり、東西南北を網羅すべく各地を巡り渡りながら、重要地点に宮を造営して神を祀るという大変な労力を伴う旅でした。また、行く先々の場所は、何故かしらそれまでに訪れた場所や列島内の聖地と地理的な繋がりを持ち、レイライン上において分かりやすい場所に位置していました。その流れは御巡幸の最終段となる伊勢国に辿り着いた後も変わらず、飯野高宮以降の旅路においても、短期間に佐佐牟江宮、伊蘓宮、大河之滝原之国(瀧原宮)、矢田宮、奈尾之根宮などが、列島内の指標となる聖地同士を結ぶレイライン上に見出され、次々と新しい宮が建立されました。そして地域の協力者から様々な情報を得ているうちに最終の鎮座地が徐々に煮詰まり、遂に度会の五十鈴河上に、天照大神を遷し奉る場所が特定されたのです。五十鈴河沿いの広大な野原は整地され、そこに天照大神が遷伊勢神宮のレイライン海神神社和多都美神社中津宮宗像大社(辺津宮)甑島ヒラバイ山沖津宮高千穂神社日向し奉られるための宮が建てられました。そして大勢の有力者らが五十鈴の河上に、神宮の造営を祝福するために船で到来したのです。その後、皇太神が倭姫命の夢の中に現れ、昔見て求めた国の宮処は「是の処にある」というおはじめ、大勢の民が大いに喜んだことが「世記」に記されています。元伊勢御巡幸は、この五十鈴宮の建立により完結すると思われがちですが、「世記」によると、倭姫命はそこからさらに伊雑宮へと向かうことになり、その道のりについても詳細が記されています。つまり、倭姫命の旅路は伊勢で終焉するのではなく、そこを越えて志摩まで続いていたのです。その後、倭姫命の引退声明があり、斎宮の造営、そして日本武尊による東征へと「世記」の記述は展開していきます。その歴史の流れを理解するためにも今一度、「世記」の記述内容全体を、振り返ってみることにします。「世記」から学ぶ五十鈴河上への道のり「世記」とも呼ばれる「倭姫命世記」は、五十鈴宮が創祀された背景となる元伊勢の御巡幸について記載されている大切な史書です。そこには、伊勢神宮の内宮である五十鈴宮の聖地がいかにして特定されたか、その聖地に至るまでの長い年月にわたる御巡幸の道筋や様々な出来事について、詳細が記されています。その内容は天孫降臨から始まり、高天原についての簡単な記述が最初に見られます。その後すぐに、経津主尊と健雷命(武甕槌神)が大国主神より広矛を受出雲大社八雲山石上布都御魂神社石鎚山伊勢神社剣山真名井神社籠神社天橋立蛭子神社石上神宮伊弉諾神宮三輪神籬石山日前神宮熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社神倉山紀伊大島け取り、国を平定したことや、天照大神に纏わる八尺瓊の曲玉、八咫鏡、草薙剣と呼ばれる三種の神器に関する内容に移ります。特に八咫鏡については、記紀に記されている「この宝の鏡を視ることまさに吾を視るが如くすべし、ともに同床共殿する斎鏡とすべし。」という天照大神の宣託が詳細まで引用されていることから、「世記」の根底にある重大なテー最終編-1-Part.IIマが天照大神と神宝であることを察することができます。また、筑紫の日向、高千穂の串触の峯に天降り到った記述も含まれ、高千穂が重要な聖地として考えられていたことがわかります。それ故、元伊勢の御巡幸地を見定める際、高千穂もレイラインの指標となる聖地のひとつとして取り上げられることになります。導入部分の最後には神武天皇の記述も含まれています。元年、神武天皇は日本国に向かって諸皇子の船を率いて東征され、8年の正月には橿原にて都の帝宅を経営し、天つ璽の剣と鏡を捧げ持ち賜いて祀りました。それ故、天皇家にとって「剣」と「鏡」は最も大切な神宝となったのです。「世記」によると神武天皇より開化天皇までに9帝あり、その「6 3 0余年の間、帝と神の際(境)は未だ遠からず、同殿共床を以て常と為す。」と記されています。また、導入部分を締めくくる最後の文章として、「故に神物と官物ともまた、未だ分別されず。」と書かれていることにも注目です。短い導入部分の中でも、神宝の存在が重要視されていたことがわかります。9帝630年については、その尾張(熱田神宮)斎宮伊勢神宮伊雑宮諏訪大社守屋山阿久遺跡29°27′富士山信憑性を疑問視する向きもあるようです。神武天皇から開化天皇の御代は、その即位年数を合計すると563年になり、東征の年から数えても570年です。しかし神武天皇は52歳で即位されたことから、神武天皇がお生まれになった時から開化天皇の没年までは、およそ615年となります。つまり、神武天皇の誕生から数えると9帝の期間は大きく異なることはなく、15年という差異は、およそ誤差の範疇と考えることもできるでしょう。その後、「世記」では、元伊勢御巡幸に関する記述へと進みます。そこにはまず、崇神天皇の時代における御巡幸の歴史が綴られています。崇神天皇6年、笠縫邑から始まった御巡幸は大和国から丹波国、紀伊国、吉備国へと続き、再び大和国の御室嶺上宮へと戻ってきた後、崇神天皇58年、豊鋤入姫命から倭姫命へと行幸の責務が引き継がれたのです。大和国を中心としておよそ6か国を御巡幸された豊鋤入姫命の尊い働きについては、338文字を用いて簡潔に書き記されています。豊鋤入姫命から任務を引き継いだ倭姫命は、次に大和国の宇陀秋宮へと旅立ち、そこから伊賀国へ御巡幸されます。崇神天皇68年、天皇が崩御された後、垂仁天皇の御代においても御巡幸は継続し、近江国、美濃国、尾張国へと倭姫命の旅は続きます。美濃国の伊久良河宮からは移動手段として主に船を用いることになり、そこから最終目的地である伊勢国へ向かって南へと旅が続けられました。宇陀秋宮から伊勢国における最初の御巡幸地である桑名野代宮まで、およそ10か所を巡り渡る行程について、「世記」では6 3 1文字を用いて詳細を綴っています。特に桑名野代宮では、「神風の伊勢国」から来られた国造建日方命や、天日別命の子孫で渡会氏の祖神、後に伊勢神宮の初代神主となられた国造との出会いについても記載されており、歴史が新しくなるにつれて、より記述内容が濃くなってくることがわかります。「世記」の編纂には五十鈴宮と呼ばれる皇太神宮から発展した伊勢神宮全体の造営と管理において多大なる影響力を持っておられた渡会氏が関わっていたに違いなく、よって、その租先神に関する記述が含まれていることも、「世記」の内容が充実する理由のひとつと考えられます。垂仁天皇18年、倭姫命御一行は伊勢国の阿佐加藤方片樋宮へと向かいます。「世記」では、この一つの御巡幸地だけでも、豊鋤入姫命による御巡幸の記述に匹敵する513文字を用いています。これは単に歴史が新しくなり、情報がより詳細まで記録されていたということだけでなく、最終目的地である五十鈴河上に近づいてきたことにより、史実として書き留めておかなければならない重要事項も増えてきたからに他なりません。ここでも以前、桑名能代宮にて倭姫命の前に現れた大若子命が、天皇の詔により再度遣わされ、荒振神を退治して地域を平定することとなり、その働きについての詳細が記されています。この大若子命こそ倭姫命と行動を共にし、最終目的地に至るまでの間、各地に神坐や神戸を定め、五十鈴河上へと御一行を導きながら御巡幸を完結させた陰の立役者だったのです。阿佐加藤方片樋宮の次に訪れた御巡幸地が飯野高宮です。そこに4年間滞在している間、倭姫命は伊勢国の五十鈴河上に神宝の御鎮座地となる敷地が存在することを確信するに至ります。飯野高宮に関する記述は、阿佐加藤方片樋宮と同等の約500文字です。ところが、倭姫命は飯野高宮を旅立った後、伊蘇宮、瀧原宮、二見国、矢田宮、奈尾之根宮など、複数の御巡幸地を矢継ぎ早に訪れ、目的地の五十鈴河上に到達するまで合わせて1年前後しか経ていないにも関わらず、それらの経緯については1,500文字以上が用いられています。御巡幸の最終段において多くの有力者との出会いがある中、複数の宮が造営され、五十鈴河上の聖地がピンポイントで定められていく過程を記すためには、必要な文章量であったとも考えられます。飯野高宮を離れた後も、船による御巡幸の旅路が続きました。「世記」は繰り返しその船旅について言及し、飯野高宮から伊蘇宮、瀧原宮、久求社、二見国、矢田宮、奈尾之根宮を巡り、一同を五十鈴河上の地に導いた大田命と出会うまでの記述の中に、「船」という文字は12回も出てきます。倭姫命は天照大神の八咫鏡と共に多くの神宝を携えながら、河川や伊勢湾沿岸を船で移動し続けていたのです。それは、大切な神宝が陸地を離れ、水上にて海人豪族により守られ次頁に続く