ブックタイトル日本シティジャーナル vol.166

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概要

日本シティジャーナル vol.166

2015年(平成27年)8月22日発行第166刊毎月第3土曜日発行購読無料ていたことをも意味しています。倭姫命に五十鈴河上を紹介した大田命との運命の出会いも重要です。猿田彦神を租とする大田命は、倭姫命御一行を五十鈴河上へと導きましたが、ちょうどそれは、大田命の祖である猿田彦神が天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊を先導するためにお迎えに来られた史実に類似しています。世代を経ても同じ家系の偉人が、国家のために祖神と同様の働きを惜しまなかったことがわかります。こうして多くの人々の協力を得て、倭姫命は度会の五十鈴河上に遂に到達することができたのです。垂仁天皇26年、天照大神は度会の五十鈴河上に遷され、その最終鎮座地にて宮が建立されることになりました。伊勢の荒野が整地され、天御柱、心御柱をはじめ、斎柱とも呼ばれる社の支柱が建てられ、地域一体は見事に開発されたのです。それから暫くして皇太神が再び、夢の中で倭姫命に現れ、「国の宮処は、この処にある也。鎮まり定まり給え」と語られました。皇太神の御旨を聞いた倭姫命は早速一同を集め、その夢の内容を「つぶさに教え知らしめ」ると、一同の喜びは頂点に達し、一晩中、神楽を舞い歌って、「五十鈴の河上に鎮り定まり坐す皇太神」をお祝いしたのです。倭姫命が皇太神の夢を見たというニュースは早速、天皇の耳にも入り、これまで倭姫命御一行を導き助けてきた大若子命は、大幡主命として国造兼大神主に、そして中臣の祖と言われる大鹿嶋命は祭官に定められました。そして周辺には建物が建築され、そこに物部八十友諸人などが率いられ、神事が執り行なわれるようになります。また、五十鈴河上の大宮近くには斎宮も造営されました。こうして長年にわたる倭姫命の御苦労は、五十鈴宮と呼ばれる伊勢神宮の内宮という形となって現れ、多くの民が祝福を受けることになったのです。五十鈴宮(伊勢神宮内宮)のレイライン五十鈴河上に神の宮を建立する場所を定める際にも、レイラインの手法が導入され、宮を建てる地点がピンポイントに見出されたと考えられます。その詳細については、「伊勢神宮のレイライン」で解説していることから、ここでは概略だけにとどめておきます。新たなる神の宮を造営する場所を探し求める際、古代の識者はまず、その場所が列島各地の聖地と地理的に繋がっている場所にあることを望んだことでしょう。五十鈴宮もその例に漏れず、複数の聖地と結び付けられるレイラインの交差点に位置しています。まず、国生みの祖である伊耶那岐尊が眠る淡路島の伊弉諾神宮と同じ緯度線上に五十鈴宮が建てられたことに注目です。重要な聖地と同緯度に宮を建立するということは、その聖地との繋がりを象徴することから、伊弉諾神宮と同じ緯度線上に、伊耶那岐尊の娘である天照大神が祀られる五十鈴宮を並べることが重要視されたに違いありません。その緯度線と交差するレイラインを、もう1本特定すれば、五十鈴宮を建立する場所を見出すことができます。そこで霊峰の指標として比類なき富士山頂に結び付くレイラインが検討されたと想定されます。古代では、夏至、冬至の日の出、日の入りの場所と方角が、地域の信仰や他の聖地との関係に絡むことは、ごく当たり前のことでした。五十鈴宮の場合も例に漏れず、夏至の日の出や日の入りの方角が重要視され、そこから見て夏至の日の出が上る方角が、日本列島最高峰である富士山の頂上と一致することが望まれたのです。宮を建立する場所が伊弉諾神宮と同緯度線上にあることを前提とするならば、その線上から夏至の朝、日の出が富士山頂上から上るのを拝めることができる地点は一か所しかありません。よって、これら2本のレイラインを用いるだけで、五十鈴宮の建立地をピンポイントで定めることができたのです。神体とする伝承も残されています。守屋山の名称は、聖書にも登場するイスラエルのモリヤ山に由来する説が有力視され、アブラハムの子、イサクに関連するイスラエルルーツも噂されている由緒ある神社だけに、その諏訪大社と紀伊大島を結ぶ線が、ぴたりと五十鈴宮を通ることは、単なる偶然とは考えにくいのです。さらに五十鈴宮のレイラインの中には、元伊勢の御巡幸地を含むレイラインが少なくとも3本、存在します。まず、元伊勢として最も著名な丹波国一の宮、籠神社の奥宮として知られる真名井神社と伊雑宮を結ぶレイラインに注目してみましょう。古代よりイスラエルのダビデの星を紋章として掲げてきた真名井神社と伊雑宮を結ぶ線上に、五十鈴宮と斎宮が並んでいます。「世記」によれば、五十鈴宮が造営された直後、志摩へと向かった倭姫命御一行の働きにより、伊雑の方上にて伊雑宮が建立されました。その宮が建てられる以前から伊雑の方上の地には沿岸に古代集落が発展し、農耕の環境に恵まれた地域一帯には稲作が普及していたのです。「伊雑」という地名は、国生みの神として知られる初代の渡来者、伊耶那岐尊に由来している可能性があります。それ故、伊耶那岐尊の頭文字である「イザ」または例え富士山までの距離が遠く、「イザヤ」をとって、「イザワ」とい直接その日の出を見ることができう地名が生まれたのではないでなかったとしても、レイライン上しょうか。すると伊雑の方上の地にて潜在的に繋がっていることがは、伊耶那岐尊が船で本州に到重要視された時代であり、天空を来した際に見出した、最も古い上洞察しながら地勢を見極める古陸地点のひとつとなり、皇族にとっ代の識者にとって、距離は問題視て伊勢神宮の歴史を遡る先祖ゆされなかったことでしょう。伊弉かりの地であった可能性が見えて諾神宮と同緯度線上にある五十きます。それ故、「世記」を締めく鈴宮、今日の伊勢神宮内宮からくる元伊勢御巡幸の最終段ではみて夏至の日の出は、そこから北伊雑宮にスポットがあてられ、詳東へ、およそ60度20分の方角細が記されているのではないでになります。内宮から富士山の頂しょうか。この伊雑の方上と真名上へ線を引くと、その角度は頂上井神社を結ぶレイライン上に五十の中心点で60度30分です。そ鈴宮が存在するということは、太して頂上の北側は60度4分、南平洋と日本海に面する南北2か側は60度55分であることから、所の由緒ある地の力を五十鈴宮日の出の方角が確かに、頂上とが継承することに繋がり、重要な一致することがわかります。意味を持つことになります。もう1本の重要なレイラインが、御巡幸地に関わる2本目のレ古代の指標として多用されていイラインは、吉備国の名方浜宮、る紀伊半島最南端の紀伊大島と、今日の伊勢神社と三輪山を結ぶ列島最古の集落とも言われる阿線です。元伊勢は三輪山を起点久遺跡近郊にある諏訪大社前宮として始まったことから、そこをを結ぶレイラインです。紀伊大通るレイラインにも、御巡幸に島は、その東端にある樫野埼灯関わる大切な意味が込められる台の周辺が古代の指標ポイントことになります。その三輪山と伊となります。そこから北東方向に勢神社を結ぶ線も五十鈴宮を通およそ350km向かうと、守屋り抜けることから、伊勢の聖地山の麓に諏訪大社前宮がありまを特定するための指標として用す。諏訪大社は神剣に纏わる由いられた可能性があります。そ緒が記紀にも記載されている由れ故、この吉備国の社は、伊勢緒ある神社であり、諏訪祭祀の神社と呼ばれるようになったの発祥地として、今日でも多くの参かもしれません。3本目のレイ拝者が訪れています。諏訪大社ラインは、伊賀国の御巡幸地でには本殿が存在しないことから、ある市守宮の比定地である蛭子その背後に聳え立つ守屋山を御神社と絡んでいます。その蛭子-2-神社と、古代聖地として名高い出雲大社をレイラインで結ぶと、その線上に五十鈴宮が存在することがわかります。元伊勢御巡幸の歴史から察するならば、五十鈴宮よりも蛭子神社の創始が先となることから、伊勢の聖地を特定するための指標として、蛭子神社のレイラインも用いられたのではないでしょうか。五十鈴宮を通るこれらのレイラインは、その数は5本と多くはないものの、そのレイライン上には霊峰や聖地が名を連ね、どれもが正確に五十鈴宮の地を通り抜けることから、すべて重要な意味を持っていると考えられます。伊勢神宮内宮となる五十鈴宮は、複数のレイラインが綿密に検証され、それらが交差する一つの地点が特定された結果、建立されたと考えても、何ら不思議はないのです。古代英知の奥深さに感銘を受けないではいられません。伊雑宮にて終わる元伊勢の旅路天照大神が五十鈴河上にて祀られた後、伊勢の地は祝賀ムード一色に染まり、大勢の人々が倭姫命のもとへお祝いをするために集まりました。そして一同は神楽を舞い踊り、姫も皆のものと共に歌ったのです。倭姫命の30余年にわたる長旅の終焉を告げるに相応しい最高のシーンではないでしょうか。そして、倭姫命は祝福された余生を過ごし、「世記」の幕が無事、下りたと考えたいものです。ところが現実は異なっていました。倭姫命は、ほんのひと時、五十鈴宮にて休息を得ると、1年も経たぬ内に天照大神に捧げる神饌(しんせん)を調達するための御贄処(みにえどころ)を定めるため、再び船に乗り、五十鈴河を下り始めたのです。そして伊勢湾の沿岸を南方へと向かい、紀伊半島の最東端にあたる国崎嶋を目指して行幸されました。五十鈴河上からは、およそ30kmの水上の旅となりましたが、その度重なる労苦さえも倭姫命は厭わなかったのです。「世記」には、倭姫命が伊勢にて祀られている天照大神へ捧げるため、海の幸や山の幸など、地域の特産物を探し求め、神に捧げるための領域を定めるために尽力したことが記されています。そのためには伊勢国の南に隣接し、万葉集でも「御食国志麻」と呼ばれるほど食の幸に恵まれている志摩国においても、天皇が支配する領域を拡張することが不可欠だったのです。倭姫命はまず国崎嶋にて、朝と夕方2回に分けて捧げられる神饌のために、湯貴潜女(ゆきのかづきめ)と呼ばれる聖なる潜女を選りすぐり、そこに神聖な領域を定められました。そして航海を続けながら海の幸を見出しては御贄処を定め、時には潮の流れや地勢までも検証しながら、浦や島の名前が命名されたのです。また、協力を惜しまず、供えの食物を提供して多大なる貢献をした者には社を定め、その功績を祝したのです。垂仁天皇27年、志摩国の方から聞こえる鳥の鳴き声を聞いた倭姫命は、使者を送って、その地域を調査することにしました。これまでの御巡幸では、主に地域の有力者から情報を得ながら行き先を探し求めることが多かったのですが、今度は鳥の声という不思議な力の働きによって新天地を見出すことになりました。ちょうど神武天皇が八咫烏により橿原まで導かれた出来事を彷彿させます。これは倭姫命御自身が五十鈴宮に到達した後、それまで以上に神ご自身の導きを強く受けたことの証とも考えられます。その後、倭姫命は使者を伊雑の方上の葦原へ送り、そこで発見された大きく茂る稲一基や、その豊かな大自然の様子が、すぐに倭姫命に報告されました。伊雑の地域一帯が米を生産するのに優れた地であり、既に農作物が豊富に収穫されていることを知った倭姫命は、早速、「皇太神に奉れる物を」と詔し、その穂から清酒が作られ、神にお供えする御餞(ぎょせん、みけ)の米として奉られることになります。天照大神のルーツである高天原では稲作が行われていたこともあり、五十鈴宮の皇太神へ献上する御餞を供えるための最良の稲作地を確保することは、倭姫命に託された重要な使命のひとつでした。そして注目されたのが、志摩国の中でも陸海双方の自然に恵まれた伊雑の方上だったのです。「御食国志麻」と呼ばれた志摩国の中でも特に伊雑の方上では、稲作に適した土壌と優れた地勢故に、遥か遠い昔から古代集落が造成され、農耕作が行われてきました。そして良質のお米をもって御饗を捧げることができるだけでなく、海と山の幸にも恵まれていたことから、神に捧げるための食産物を収穫する聖なる地として、倭姫命の目に留まったのです。その伊雑の方上の中心地に伊雑宮が建立されました。伊雑宮は神に捧げる御餞や祝福された農産物の象徴であり、それ故、古代からその宮では農民の豊作だけでなく、漁民の豊漁、そして国家の平穏のために日々祈りが捧げられてきたのです。その流れを引き継いで、今日でも日本三大御田植祭のひとつである御田植祭が例年催されています。伊雑宮の「伊雑」という地名は、国生みの神である伊耶那岐尊の名を継承している可能性があります。すると、周辺地域の歴史は国生みの時代まで遡り、古代聖地のひとつであったとも考えら