ブックタイトル日本シティジャーナル vol.166
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日本シティジャーナル vol.166
vol. 166伊雑宮のレイライン和多都美神社4日向(宮崎)れます。いずれにしても、皇太神の食を提供する地域の象徴として、伊雑宮は五十鈴宮にとって不可欠な存在であり、正にそれが伊勢神宮の別宮、そして皇太神の摂社、遙宮(トオノミヤ)として今日まで親しまれてきた所以です。皇太神宮儀式帳には「天照太神遙宮、御鏡坐」とも記載されています。五十鈴宮を伊勢神宮のファサード、すなわち歴史上の表立った形とするならば、伊雑宮はその裏方に潜む、古き土台と言えそうです。それだけに、伊雑宮の重要性には注視する必要があります。五十鈴宮の後に続く、伊雑宮へと向かう志摩国での旅路については「世記」の中で、およそ5 0 0文字が費やされています。五十鈴宮は皇太神御自身が認知された御鎮座地として神宝が祀られたにも関わらず、倭姫命の滞在期間が短かったこともあり、五十鈴宮に関わる記述は712文字でまとめられているに過ぎません。その文章量は、およそ500文字を用いて詳細が記されている阿佐加藤方片樋宮や、飯野高宮とさほど変わらないのです。これらの文字数を比較してみても、伊雑宮は「世記」の中で重要な位置付けを占めていたことがわかります。何故、それほどまでに伊雑宮が重要視されたかは、伊雑宮を中心点とするレイライン図が物語っています。古代レイラインの中心となる伊雑宮伊雑宮が重要視された理由については、史書の記述だけでなく、地域の地勢やレイラインの21佐多岬7出雲大社5329°37′八雲山石鎚山石上布都御魂神社伊勢神社足摺岬剣山伊弉諾神宮神籬石真名井神社小松島(日峰)六甲山石宝殿麻耶山検証を通して推測することができます。伊雑ノ浦に面する地域は水上の便に優れ、そこは紀伊半島最南端から伊勢湾に向かって航海する際の中間地点にあたることから、古代より中継地点となる港として重要視されていました。その背景には前述したとおり、海と山の幸に恵まれた「御食国」と呼ばれる優れた自然環境が存在していました。伊雑宮の聖地が貴重な存在であったことは、レイライン図を一見するだけでわかります。日本列島の隅々にわたり、伊雑宮と地理的に紐付けられている霊峰や岬、神社は少なくありません。そして複数のレイラインが重なるだけでなく、伊雑宮を中心地として交差しているのです。これほどまでに多くの地の指標と結び付き、しかもそれらの中心に位置する神の宮は、他に類を見ません。それは伊雑宮を基点として神社を建立するための聖地が列島各地に見出されたことを意味しています。それ故、伊雑宮は古代聖地の中でも最も歴史の古い、由緒ある宮のひとつとして知られるようになりました。伊雑宮にレイライン上で直結する聖地は多く、霊峰では富士山、石鎚山、六甲山、摩耶山、大宝寺山が、島では神島と竹生島が、そして岬では佐田岬、足摺岬、室戸岬が含まれています。また、神を祀る聖地としては、熊野本宮大社、和多都美神社、石上神宮、出雲大社を筆頭に、真名井神社、伊勢神社、阿紀神社、若宮神社、68室戸岬9竹生島大宝寺山中嶋宮(酒見神社)矢若宮神社田熱田神宮(尾張)宮(12神布気皇館太神社・宮忍山神社神田石上神宮神島三輪山斎宮)大神神社宇多秋宮伊勢神宮(阿紀神社)伊雑宮熊野本宮大社大斎原10神倉山紀伊大島11布気皇館太神社、そして斎宮、矢田宮など、元伊勢御巡幸の比定地も多数含まれています。これら指標同士を結ぶレイラインは、主に3つのカテゴリーに分けて考えることができます。まず、伊雑宮に隣接し、その原点に存在する古代の港を特定するために用いられたレイラインが存在します。それらの線上には富士山、九州・四国の岬、紀伊大島など、自然の地勢に代表される指標が並びます。最初に注目したいのが、岬のレイラインです。国生みの神々は南西諸島の方面から船で渡来してきたと考えられ、九州の日向、今日の宮崎周辺にて拠点となる港を特定する際、夏至の日の出方向に四国の足摺岬を見渡せる場所に船を着岸させたのではないでしょうか。そこから日の出の方角に進むと、足摺岬の先には室戸岬が見えてくるだけでなく、2つの岬が一直線上に並んでいたのです。それら岬を結ぶレイラインは、九州では日向と、そしてその延長線上にある志摩では伊雑宮とも繋がっていたのです。その岬のレイラインに交差する線中でも一際目立つ存在が、東は富士山、西は九州最南端の佐多岬を結ぶレイラインです。このレイライン上には、熊野本宮大社の大斎原が造営されることになり、富士山に直結する線上ということからしても、重要な意味を持っています。また、紀伊半島最南端の紀伊大島と神島も、半島の東側を航海する際に必ず目富士山12鹿島神宮鹿島1佐多岬ー熊野本宮大社大斎原ー伊雑宮ー富士山2日向ー足摺岬ー室戸岬ー伊雑宮3石鎚山ー小松島(日峰)4和多都美神社-伊雑宮(同緯度)5伊勢神社ー阿紀神社ー伊雑宮6麻耶山ー石上神宮ー伊雑宮7出雲大社ー六甲山石宝殿ー伊雑宮8真名井神社ー斎宮ー伊勢神宮9大宝寺山ー若宮神社ー布気皇館太神社・忍山神社ー伊雑宮10竹生島ー矢田宮(神宮神田)-伊雑宮11中嶋宮(酒見神社)ー伊雑宮(同経度)12神島ー伊雑宮ー紀伊大島に留まる指標として重要な存在です。この2点を結ぶレイラインも伊雑宮を通ります。更には西日本最高峰の石鎚山と、徳島小松島にある阿波三峰のひとつとして知られる日峰山を結ぶ線も伊雑宮に結び付くことに注目です。これら4本のレイラインは全て伊雑宮にて交差します。ちょうどそこは伊雑ノ浦の沿岸にあたり、港の拠点としても適していました。レイラインの交差点は地の力が交わる重要な中心地となることから、その伊雑の方上の一角が見初められ、そこに港が造られて集落が発展し、後に伊雑宮が建立されることになります。2つ目のカテゴリーは、伊雑宮を基点として他の指標と結び付けながら、新たなる神社や指標の場所を特定するレイラインです。伊雑宮とスサノオ命の拠点となる出雲の霊峰、八雲山を結ぶ線上には六甲山石宝殿が、摩耶山とを結ぶ線上には石上神宮が、そして竹生島とを結ぶ線上には矢田宮が建立されました。また、元伊勢御巡幸地に含まれる真名井神社や伊勢神社を伊雑宮と結ぶ線上には、新たなる御巡幸地や斎宮が造営されています。若宮神社や布気皇館太神社と伊雑宮を結ぶ線上に、大宝寺山のような後世において重要な役割を果たす霊峰を見出したケースもあります。これらの聖地が定められる以前から、伊雑宮の地はレイラインの指標として存在していたことになります。3つ目のカテゴリーは、伊雑宮と同緯度、もしくは同経度上に新たる拠点や指標を見出したケースです。その同緯度線上には、対馬の和多都美神社が建立され、そして南北にわたる同経度線上には、中嶋宮(酒見神社)が建立されました。これらの聖地も同様に、古代から知れ渡っていたと考えられる伊雑宮の地を指標として定められたのではないでしょうか。伊雑宮を指標としてレイライン上に見出された拠点は多く、しかも、それらのレイラインは全て、伊雑宮の地点を交差していることが、列島内でも最も古い指標であることの証です。古代、国生みの神々が海を航海しながら紀伊半島に見出した伊雑の方上こそ、神から祝福され、そして神を祀るに相応しい多くの恵みに満ちた場所であることを、伊雑宮のレイラインから知ることができます。元伊勢御巡幸の完結「世記」には、倭姫命が伊雑宮の地を訪ねられた後についての記述も含まれています。伊雑宮を訪ねられたその翌年、倭姫命の前に再び葦原の中を行き来する鶴が現れ、御巡幸地として訪れた佐々牟江宮へと向かうことを示されます。その導きに従った倭姫命は、そこでも稲1本、初穂の大切さをはじめ、御饗を供える大切さに感動を覚え、新たに八握穂社が造営されました。その後、天皇の代が変わり、景行天皇20年、倭姫命は「年既に老いて、仕えること能わず。吾れ足りぬ」と語られ、引退を表明されたのです。そして皇女に多気宮を造らせ、伊勢斎宮群行が始まることとなります。倭姫命が引退してから8年が過ぎた景行天皇28年、国内の政情は悪化し、東方では暴動が頻繁に起きていたことから、叔母にあたる倭姫命のもとを訪れ、その後、東征に向かいました。その際、倭姫命より日本武尊に草薙剣が授けられた話はあまりに有名です。ところが日本武尊は東征を無事に終えるも、伊吹山にて死去し、草薙剣は尾張熱田社にて収蔵されることになりました。こうして倭姫命は国家に多大なる功績を残し、波乱万丈の生涯を終えて、お隠れになります。(文・中島尚彦)引き続き、他の元伊勢御巡幸地のレイラインについても、http://www.historyjp.com/で紹介しています。是非、ご覧下さい。WEBサイト案内日本シティジャーナルをご覧いただきありがとうございます。本紙のバックナンバーはWEBサイトにてすべてご覧頂けます。連載中の歴史に関するコラムは最新情報に随時更新してスペシャルサイト「日本とユダヤのハーモニー」にまとめてあります。ご意見・ご要望等をお待ちしております、FAXやホームページからお寄せ下さい。日本シティジャーナル:http://www.nihoncity.com/日本とユダヤのハーモニー:http://www.historyjp.com/編集後記8月12日から4日間、徳島では阿波おどりが開催されました。国内最大級の祭りとして、その人出は120万人とも言われていますが、今年は例年よりも人の数が少ないと街中ではうわさが…そんなことはさておき、連日、昼は「選抜阿波おどり大会」、夕方からは演舞場での壮大なパフォーマンス、そして夜は歩行者天国さながら、路上いたる所で「阿波おどり」を楽しむことができます。全員参加型のお祭りとして「やる気」さえあれば、一緒に踊ることができる阿波おどりを、来年は一緒に楽しみませんか!NCJ編集長中島尚彦1957年東京生まれ。14歳で米国に単身テニス留学。ウォートンビジネススクール卒業後、ロスアンジェルスにて不動産デベロッパーとして起業、ビジネス最前線で活躍する。1990年に帰国後、成田にサウンドハウスを立ち上げる。現在ハウスホールディングス代表、日本シティジャーナル編集長を兼務。趣味はアイスホッケーと読書、ここ数年は「日本とユダヤのハーモニー」の執筆に勤しむ。-3-