ブックタイトル日本シティジャーナル vol.167

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日本シティジャーナル vol.167

2015年(平成27年)9月30日発行第167刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 167Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~19:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部元伊勢と三輪山のレイラインVol. XII神宝の秘蔵場所を示唆する元伊勢の暗号メッセージとは元伊勢の御巡幸に携えられた神宝とは三輪山より始まった元伊勢の御巡幸という特異な歴史の背景には、崇神朝時代の国内外の政情不安と動乱の噂だけでなく、悪疫の流行がありました。時に神威NCJ109日本とユダヤのハーモニーから続く東アジア史を塗り替リカのえたイスラエル存在が注目された可能性民族大移動の潮流を畏れた天皇は、宮中にて代々祀られてきた神宝を、笠縫邑に遷すことを決断したのです。その際、本物の神宝に代わる鏡や剣が新たに鋳造され、それらレプリカは護身用として、宮中で祀られるようになりました。レプリカが造られた目的は、単に本物と置き換えて祀るためだけでなく、複数の類似した神宝を混在させることにより、本物の宝蔵場所がどこにあるか分からないようにして、盗難の危険から守ることであったと考えられます。こうして世紀のイベントへの道筋が整えられ、神宝と運命を共にする元伊勢の御巡幸が決行され、最終的に神宝は、伊勢の五十鈴宮に鎮座することになったとされています。元伊勢の御巡幸で遷座された神宝とは何でしょうか。「日本書紀」、「古事記」や「倭姫命世記」(世記)には、天照大神としても知られる八咫鏡についての記述しか見られないことから、その対象となる神宝は八咫鏡であると、一般的に考えられています。実際には八咫鏡だけでなく、スサノオ命が大蛇の尾より発見したと伝えられる草薙剣も宮中より同時に遷されていたことが、「古語拾遺」に記されています。草薙剣はその後、伊勢にて倭姫命から日本武尊に授けられたことからしても、歴史の辻褄は合います。つまり、豊鋤入姫命から始まる御巡幸史の原点には、少なくとも八三輪山と剣山のレイライン海神神社和多都美神社宗像大社高千穂神社咫鏡と草薙剣という2種の神宝が存在したことになります。また、それらの神宝に加えて、新たに鋳造されたレプリカも一緒に運ばれたのではないでしょうか。外敵から神宝を守るための秘策として、本物と区別のつかないレプがあります。結果として、元伊勢御巡幸の際には、多くの神宝が携えられたと考えられます。国家が幾つもの艱難に直面していただけに、神秘的な力の象徴となる神宝を堅持することは最重要課題であり、その行く末が、とかく注目される時代の幕開けでした。歴史のベールに包まれた神宝の行方ところが御巡幸の旅路の最中に、それらの神宝がどのように運ばれ、いつ、誰が、どこに宝蔵したかというような、神宝の取り扱いに関する記述がどこにも見当たらないのです。草薙剣に関しては、天孫降臨の際に、八尺の勾玉や鏡と共に瓊瓊杵尊に授けられた話から、倭姫命が日本武尊にお渡しになるまでの情報が、「記紀」では空白であり、神武天皇の即位に関する記述にも言及されていません。また、「古語拾遺」においても前述した内容以外は参考となる記述が見当たらないのです。「世記」でも三種の神器については天照大神と称される八咫鏡に関する記述が散見される程度です。「世記」によると、五十鈴宮が建立されて元伊勢の御巡幸が完結した頃と時期を同じくして、新しく神宝が造られたことがわかります。そこには「采女忍比売(うねめのおしひめ)は天平瓮(ひらか)80枚を、天富命孫(あめのとみ出雲大社石鎚山足摺岬伊弉諾神宮剣山のみことのまご)は神宝鏡、大刀(おほとし)、小刀(をとし)、矛楯、弓箭、木綿(ゆふ)などを造り、神宝と大幣(おおみてくら)を備えた」と記されています。また、饗を奉る場所には、伊弉諾命と伊弉冉命が捧げた白銅鏡二面と日神月神の化れる鏡が置かれ、水火二神の霊物として崇められたことも記録に残されています。「古語拾遺」も含め、これら史書最終編-1-Part.IIの記述から理解できることは、およそ1世紀を経た御巡幸の初めと終わりの時期には、レプリカの鏡や剣を含め、多くの神宝が鋳造されたということです。ところが、新たに鋳造された神宝については詳細が記録されていても、御巡幸において遷座された神宝についての情報がほとんど存在しないのは何故でしょうか。元伊勢の御巡幸とは、神宝を守り、天照大神の鎮座地を探し求めるための長旅であっただけに、その取り扱いに関する記述が御巡幸の最終段になっても史書に含まれていないことに、何か不自然さを感じないではいられません。更に不思議なことは、天照大神の御鎮座地である五十鈴宮に到達した後も、倭姫命は御巡幸の旅を続けられ、供え物となる御饗を定めるための田を探しながら、志摩の伊雑宮へと向かったことです。御巡幸地の中でも最南端の地であり、しかも最後に訪ねられた伊雑宮ついては「世記」に詳細が記されていることから、伊雑宮が何かしら特別視されていたことがわかります。前述したとおり、伊雑宮が建立された場所は、多くのレイラインが交差する中心地として極めて重要な位置付けにあり、地域の歴史は石上神宮日前神宮三方五湖三輪山紀伊大島伊神勢島伊神雑宮宮大変古いことがわかります。伊雑宮が建立される以前から伊雑ノ浦の沿岸では港と古代集落が発展し、その歴史は伊耶那岐命の時代まで遡る可能性さえ否定できません。そしていつしか、国内の聖地を結ぶ基点として認知された伊雑宮は、五十鈴宮の創始にあたり、その元宮、遙宮として紐付けられたのでしょう。その後、倭姫命は伊勢まで戻られ、御巡幸の歴史は締め括られます。五十鈴宮は神宝の鎮座地として極めて重要ではあるものの、元伊勢御巡幸の全体像からすれば、伊雑宮への通過点として考えられていたのかもしれません。元伊勢の御巡幸における海上交通の原動力となった船木氏を中心とする海人豪族は、一族の拠点となっていた美濃国の本巣郡を離れ、伊勢国へと倭姫命御一行を海上で護衛しました。その際、伊勢国の渡会では船木氏の集落が設けられています。そして倭姫命らと共に志摩国の伊雑宮へ向かった後、少なくとも船団の一部は熊野灘を紀伊半島に沿って南西方向に航海を続け、紀伊大島から淡路島へと北上したようです。そして最終的には播磨国周辺に船木氏の拠点が広がっていくことになります。この船木氏の動向を検証することにより、神宝の行方に絡む最終的な結末が見えてきます。古代国家の統治を担うリーダーにとって、建国の歴史に結び付く神々を篤く信仰し、天皇家の象徴でもある神宝を守護することは、国家が繁栄するための最重要課題でした。そして神宝を携えながら元伊勢を御巡幸するという一見、危険な秘策を実現し、歴史を大きく動かすためには、それなりの周到な準備が不可欠だったのです。特に神宝を外敵から確実に守る手段については、事前に十分な検討がなされたことでしょう。その結果、神宝の取り扱いについての言及は避けられ、史書に記されることなく、歴史のベールに包まれる結果になったと推測されます。神宝の安置を脅かす倭国の内乱元伊勢の御巡幸という歴史的イベントが始まる崇神天皇即位6年、前1世紀のはじめ、大陸では漢時代の栄華を極めた武帝による統治が崩壊し、各地で反乱や盗賊の横行が発生して民衆は困窮を極めていました。一方、日本国内においても当時、不穏な空気が立ち始め、歴史が大きく変わろうとしていました。前206年に秦王朝が崩壊した直後から、大陸より朝鮮半島を経由して日本に渡来する民が徐々に増加し、国内各地で様々な衝突が生じ始めていたのです。そして朝廷に敵対する勢力も各地で台頭し始め、政治情勢が不安定になってきました。さらに大陸からの渡来者の数は何万、何十万という膨大な数に膨れ上がり、中には大陸系の豪族も存在したことから、いつしか朝廷の統治が及ばない地域勢力が、列島各地に散在するようになったのです。実際、元伊勢御巡幸の直後から国内の動乱は激しさを増し、特に東方の反乱は際立っていました。そのため、日本武尊は2世記初頭、東方の征伐に向かい、命を落とすことになります。倭国にて長期間にわたり騒乱が起きたことは、三国志を含む複数の中国史書に記されています。それらの記述によると、倭国は元来、男王により治められていましたが、ちょうど日本武尊が死去した頃と同時期の2世紀初頭から70~80年間という長期間にわたり騒乱が起き、その後、邪馬台国と呼ばれる国家が台頭し、女王が君臨して国中が服することになります。そして邪馬台国と狗奴国との戦いが生じ、卑弥呼が死去する248年頃まで、女王の治世は続きました。「後漢書」や「隋書」には、邪馬台国の成立時期は桓帝と霊帝の治世の間と記載され、それは146年から189年頃であることから、元伊勢の御巡幸後の時代と一致します。「梁書」や「北史」でも同様に、後漢の霊帝の治世、光和年間において倭国が乱れ、その後、卑弥呼という女王が君臨することによって混乱が収まり、邪馬台国が勢力を増し加えたことが記されています。つまり、元伊勢の御巡幸が終わった直後の2世紀初頭から、倭国の大乱が始まり、国内が大混乱に陥る最中、邪馬台国が息吹いたのです。そして2世紀後半に邪馬台国は、遂に統治国家として台頭するまでに至りました。そのような時代の激変を、元伊勢の御巡幸が始まる前から古代の識者らは察知したのではないでしょうか。そして治安が徐々に悪化する最中、天皇家の象徴である神宝が、標高467mしかない、およそ無防備な倭国の三輪山に安置されていることが危惧されたのです。それ故、国内の動乱が悪化する前に、大切な神宝を外敵による略奪から守護するこ次頁に続く