ブックタイトル日本シティジャーナル vol.168

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日本シティジャーナル vol.168

2015年(平成27年)11月22日発行第168刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 168Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~19:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部元伊勢と「太陽の道」のレイライン御巡幸の完結を示唆する北緯34度32分の緯度線1980年2月11日の建国記念日、「知られざる古代-謎の北緯3 4度32分をゆく」と題した特別番組がNHKで放映されました。番組の原点には、複数の聖地が一直線に並ぶレイラインの存在に焦点をあてた小川NCJ109日本とユダヤのハーモニーから続く東アジア史を塗り替がえたイスラエル世間に知らしめられるように民族大移動の潮流光三氏の著書、「大和の原像-古代祭祀と崇神王朝」(1973年)があります。小川氏は奈良県桜井市の箸墓を基点として、同緯度線上に数々の遺跡や著名な神社が並び、天照大神に関連していることに注目しました。そして、その緯度線を「太陽の道」と命名したのです。その緯度線は北緯3 4度32分であり、そこには斎宮、天満社裏山遺跡、春日宮天皇妃陵、天神山山頂、桧原神社、国津神社、箸墓、須賀神社、菅原神社、日大御神社、稲荷社などが並びます。「太陽の道」の基点となる箸墓は、第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の墓ではないかと言われています。すると箸墓が造成されてからおよそ2世紀後、倭国の将来を担った倭姫命が元伊勢御巡幸の重責を全うされ、箸墓と同緯度線上に斎宮を造成し、そこに住まわれたことになります。倭国の頂点に立つ2姫が絡む箸墓と斎宮の遺跡が同緯度線上に並ぶことは、偶然の一致とは言えないようです。それ故、これら2つの遺跡を結ぶ緯度線上に存在する複数の遺跡にスポットが当てられ、斎宮の東方では神島が、そして西方の淡路島では舟木の石上神社まで、東西20 0 k m近くにも渡るレイラインの存在が脚光を浴びることになりました。小川氏の著書内容に感銘を受けたのが、NHKの元プロデューサー、水谷慶一氏です。そして瞬く間に「太陽の道」のとりこになってしまった結果、遂にテレビで特別番組を企画し、放映するに至りました。水谷氏は「知られざる古代-謎の北緯34度32分をゆく」も執筆され、N H Kによるテレビ放映もあったことから、結果としてレイラインの不思議なりました。水谷氏は「太陽の道」に限らず、日本国内には他にも多くのレイラインが存在することに注目しました。例えば、奈良県にある「益田の岩舟」と三輪山を結ぶと、その線上に香久山が並ぶことから、益田の奇岩は人為的に運ばれて一直線上になるように移動されたと推定しています。また、二上山から見て夏至の日の沈む位置に益田の岩舟が存在することから、古代では日の出と日の入りの方角も重要視されたと考えたのです。水谷氏の背景にはNHKの存在があり、一般社会に対する影響力は多大であることから、いつしか「太陽の道」の存在とその不思議を証する伝道師的な役割を果たしたとも言えます。そして番組を見た視聴者の中には著書に記されている関連の神社や磐座を実際に訪れる人も多く、三輪山と同じ緯度線上に複数の聖地が一直線上に並んでいることに感動を覚えたことでしょう。その「太陽の道」と呼ばれるレイラインの実態を理解するためにも、まず、水谷氏の著書、「知られざる古代」に記載されているメッセージの中から、大切なポイントを解説します。「知られざる古代」のメッセージ伊勢から三輪山を抜けて淡路島にまで至る北緯34度32分の東西軸には、多くの遺跡が並んでいます。同緯度線に並ぶということは、春分の日と秋分の日に、日の出と日の入りが緯度線に沿っ「太陽の道」のレイラインー北緯34度32分ー石上神社大日鳥置神荘社(堺市)二子山天三神輪山山頂箸墓長春室谷日生寺宮寺天皇妃陵倶留尊山堀坂山て一直線になることを意味します。その緯度線の存在に目を止めた小川氏は、1973年出版の著書で、それを「太陽の道」と呼びました。何故なら、同緯度線上で繋がっているということは、太陽が崇拝され、その日差しを見極めながら数々の聖地が特定された結果と考えたからです。水谷氏の著書では、「太陽の最終編-1-Part.II道」に並ぶ遺跡や聖地のリストが若干ながら修正されています。北緯34度32分に並ぶ遺跡として、水谷氏は、斎宮、堀坂山、三坪山、蔵王堂、倶留尊仏、室生寺、春日宮天皇妃陵、長谷寺、三輪山、桧原神社、国津神社、箸墓、須賀神社、菅原神社、日大御社、稲荷社、萩原天神、大鳥大社、石上神社などを挙げています。これら由緒ある聖地が同緯度線上に並ぶことは、もはや偶然の一致ではありません。古事記には、「朝日のたださす国、夕日の日照る国」とも記されているように、太陽は日本の国にとって古代から、かけがえのない存在でした。古代の識者らは、太陽を観測しながら同緯度線に一筋の直線を描き、そこに大切な場所や拠点、聖地を見出したことでしょう。そして太陽の方角や日差しの角度を観測しながら、地理情報を収集し、各地に神事や祀りごとを執り行う大切な拠点を定めたのです。太陽を追いながら地勢を見極めた古代の民だからこそ、結果として大切な聖地がレイライン上に一直線上に並ぶこととなり、それが古代の不思議として、現代社会においても改めてスポットを浴びるようになったのです。例えば、三輪山と同緯度線上に箸墓が並ぶということは、山頂から見て太陽が沈む場所に、箸墓と命名されたお墓が造られたことを意味します。よって、そ斎宮神島の墓地となる場所は意図的に三輪山と同緯度線上に見出されたと考えられます。その築造年代には諸説があるものの、墳丘からは3世紀まで遡る特殊器台形埴輪が発掘されたことから、昨今では邪馬台国の時代と並ぶ可能性も指摘され、それを卑弥呼の墓とする説もあります。また、北緯34度32分の緯度線上の東方には、元伊勢の御巡幸地に数えられている長谷寺と與喜天満神社、そして斎宮も一列に並んでいます。それ故、「太陽の道」とは、天照大神の信仰に繋がる元伊勢の御巡幸とも深く結び付いています。三輪山の西方には淡路島の石上神社の磐座もピタリと並んでいます。そこには人為的に並べられたと考えられる巨石の数々が散見されます。石上神社の地も意図的に、三輪山と同緯度線上に並ぶ場所に位置付けられた可能性があります。さらに、石上神社の磐座とその周辺地域は、元伊勢御巡幸における船旅の原動力として海上交通を取り仕切った船木氏の拠点であることから、「太陽の道」の最西端である石上神社も、元伊勢の御巡幸と関わっていた可能性が見えてきます。水谷氏は、これら複数の聖地が地理的に一直線上に結び付いているレイラインの実態に焦点を当てるだけでなく、そこから更に踏み込んで、レイラインの調査から浮かび上がってくる様々な氏族の名前から、レイラインの構築に関わった可能性のある氏族の存在を指摘しています。「太陽の道」の緯度線上には遺跡や聖地だけでなく、日置や比企、辟田(ひきた)、引野、戸木(へき)など、日置と同じ語源と考えられる地名が多数並んでいます。そこで水谷氏は、太陽の動きを検証しながらレイラインの線引きを見定めた中心的氏族の中に、日置氏、もしくは比企(ひき)氏の存在があると推測したのです。そして、大和王権下では古代氏族の日置氏が、日の神を奉ずる氏族として、同緯度線上に重要拠点を見出すことに重きを置いたのではないかと大胆に想定したのです。例えば、淡路島において「太陽の道」が海岸線と交差する地点には引野という地名が今日まで残されていることから、「日置」が訛った可能性が指摘されています。日置部や日祀部など日置と呼ばれる一族が、もし太陽の位置を計測しながら、季節の巡行や地理的な相関を計測することができる地勢学のエキスパート,測量師の集団であったとするならば、三輪山と同緯度線上に同族が居住する集落が並んで造成されていることに不思議はないでしょう。それは三輪山と太陽を大切にした古代人の知恵の結果とも言えます。さらに水谷氏は、大和の地名である都祁(つげ)が、和名抄にある武蔵国比企郡の都家(つげ)と関係していることに注視しました。そして古代朝鮮語では日の出を意味する「トキ」という言葉を都祁と書くことから、太陽の観測を得意とする比企氏の拠点が、「つげ」、すなわち日の出とも結び付いている可能性を見出したのです。よって、日の出を意味する都祁と、太陽をガイドとして地勢を見極めた比企、もしくは日置という名称は、太陽祭祀と言う観点から深く結び付いていたと考えたのです。これらリサーチの最終段で水谷氏が辿り着いた場所が、「太陽の道」の最西端、淡路島の北淡町仁井に隣接する舟木の石上神社でした。そこでは巨石が御神体として祀られ、女人禁制の地として、地元の人々は古代からの風習を守り抜いています。その舟木という地名から、「住吉大社神代記」に記されている船木氏一族との関わりが明らかになってきます。船木氏の祖神は大田田神であり、造船技術に長けていた一族の流れを継いだ船木氏の祭祀場が、石上神社であったと考えられるのです。「住吉大社神代記」の「船木等の本記」には、船木氏の貢献についての記述が含まれています。そこには、オキナガタラシヒメ、またの名を神功皇后の時代、船木氏が熊襲2国と新羅征伐の為に船を3隻造ったことが記載されています。また、「胆駒神奈備山の本記」によると、船木氏は後世への証拠として残すため、船を2隻,地に納め置いて埋めたことも記されています。「古事記」によると、オキナガタラシヒメは口寄せする霊能力者であり、西方の国を奪取し、皇后の子が国を治めることが天照大神の御旨と信じられていました。その結果、軍備の増強が不可欠となり、その要請に応えるべく船木氏は、海上交通や軍事戦略においても、皇族と深い関わり合いを保ち続けたのです。次頁に続く