ブックタイトル日本シティジャーナル vol.168

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概要

日本シティジャーナル vol.168

2015年(平成27年)11月22日発行第168刊毎月第3土曜日発行購読無料また、皇族が祀る天照大神は、同じ伊耶那岐命の子として、住吉三神と血縁関係により結び付いています。よって「知られざる古代」では、船木氏の背景に絡む住吉三神と天照大神、双方の存在にも注視し、和多都美の神、住吉大神を奉祀した古代海洋豪族こそ、船木一族であったと断定しています。石上神社が淡路島の仁井に隣接する舟木に建立されていること、古代海洋豪族の拠点であった対馬の和多都美神社も仁井に存在すること、石上神社の緯度線は天照大神と関連する聖地が複数並ぶ34度32分であること、三輪山や檜原神社には三ツ鳥居が、和多都美神社には三本柱の鳥居が存在すること、船木氏は古代から和多都美神社と関わっていたと考えられることからしても、古代海洋豪族である船木氏が住吉三神を奉祀したという説の信憑性は高そうです。こうして「知られざる古代」では、緯度線上に見出された数々の遺跡にスポットが当てられ、それらが一直線に並ぶレイラインの不思議について解説しています。そして聖地が一直線に並ぶことを太陽崇拝と関連付け、古代の謎に迫ろうとしています。しかしながら、三輪山を通る北緯34度32分のレイラインが何故、重要であったのか、なぜその最東端には斎宮と神島が、西方端には淡路島の石上神社が建立されなければならなかったのか、なぜ、これら遺跡の背景には船木氏の存在が見え隠れするのかなど、様々な疑問を解明するまでには至らず、最終的には古代の謎として終始しています。太陽の道と元伊勢御巡幸の関係「太陽の道」として知られる北緯34度32分のレイラインは、実は、元伊勢の御巡幸と密接に絡んでいたのです。御巡幸の主目的は、天皇家の象徴である大切な神宝を外敵から守り、安全な場所に宝蔵することでした。当時、国内外の政治情勢が不安定であり、各地で動乱の兆しが見られたことから、神宝の取り扱いが最重要視されたのです。その結果、神宝を祀り外敵から守り続けるための秘策が講じられ、元伊勢の御巡幸という前代未聞の長旅が目論まれたのです。そして神宝は各地に遷されながらも、最終的に安全な地に秘蔵され、御巡幸の旅路は終焉します。御巡幸が完結し、神宝が秘蔵されて封印された璽が、北緯34度32分のレイラインだったのです。そして船旅を主導した船木氏は、その証として三輪山と同緯度線上に、石上神社を建立したと考えられるのです。果たして伊勢神宮の基となる元伊勢の御巡幸は、石上神社とどのように関わっていたのでしょうか。最終的に神宝はどこに収蔵されたのでしょうか。そこは伊勢ではなく、全く別の場所に存在するのでしょうか。それらの謎を解明し、古代の実態に迫るために、まず、石上神社と、その背景に存在する船木氏について解説します。淡路島舟木の石上神社淡路島北部、旧北淡町の仁井に隣接する舟木地区の高台、標高163mの場所に、巨石を御神体として祀る石上神社があります。淡路の最高峰は島の南方に位置する諭鶴羽山の607.9mであり、それに比べると、舟木地区一帯の標高は決して高くありません。しかしながら、島の北方は全体的に標高が低いことから、石上神社は淡路島北部の高台に存在します。石上神社は正式には「いわがみ」神社と読みますが、「いしがみ」と呼ばれることもあります。石上神社の創始については情報が殆どありません。神社の正面に立てられた看板には、その由緒として以下の内容が記されています。「舟木石神座と女人禁制」★日の神の信仰北緯34度32分の線上、伊勢、神島、堀崎山、倶留尊(三重県)→室生寺、長谷寺、三輪山、二上山(奈良県)→日置荘、大鳥神社(大阪府)→伊勢久留麻神社、当石神座(淡路島)の各地で古くから日の神信仰していたことが明らかになった(昭和5 5年2月N H Kテレビ放映)★祭もともと日の神は、太陽神の本体として天照皇大神と大日如来が想定され、所によってそのどちらかを祭っている地もあり、両者を合祭している所もある。この石神座は両者を勧請して祭ったものである。★日を迎える座と日を追う座これら太陽を信仰する地に「日を迎える座」(朝日に向かって祭事を行う)と「日を追う座」(夕日に向かって祭事を行う)とがある。そのうち前者は男性が祭事をつかさどり後者は女性が祭事をつかさどってきた。したがって女人禁制はここからきたものである。現在この制度がくずれているなかで当地は今なお里人の間で固く守られ、民族学上からも貴重な存在である。由緒に記されているとおり、石上神社は女人禁制であり、鳥居の外には「女人禁制」と記す立石が置かれ、古くから地元の人は、その伝統を大切に守っています。女性は境内に入ることが許されないため、参拝する際は、鳥居右側の小道を通って石上神社に隣接する稲荷社を参拝し、そこから御神体石を拝することになっています。淡路島の北部にある石上神社にて「女人禁制」の風習が今日まで残されているということは、由緒が証しているとおり、貴重な文化遺産であると考えられます。石上神社境内入口の鳥居石上神社の祭神については明確な伝承がありません。鳥居横に立てられている看板の由緒には、「日の神は、太陽神の本体として天照皇大神と大日如来」と記載されていることから、祭神は天照皇大神、大日如來であると理解できます。また、「津名郡神社誌」には素盞嗚尊とも記されています。よって、素盞嗚尊、天照皇大神、大日如来を祭神とするのが通説になりつつあります。よって石上神社は、巨石を御神体として、それら祭神を奉じる古代祭祀の聖地と考えられます。石上神社の祭祀活動にあたっては、古くは太田氏と日置氏が執り行っていたと伝えられています。それ故、舟木の周辺には太田という姓が、今日でも多くみられます。石上神社が属する今日の淡路市、電話帳ランキングを見ると、2015年11月の時点で太田という姓は、21位にランキングされ、他の地域に比べても明らかに高いことがわかります。史書の記述内容が間違いではなく、古代人の貢献が、今日まで脈づいているのです。女人禁制を記す立石を見届けた後、鳥居を通ると、参道の20m先には巨石が見えてきます。参道は南北に位置しており、祠は南に向いています。よって参拝者は北に向かって御神体石を拝することになります。境内周辺は「石上の森」とも呼ばれ、およそ30m四方の広さになります。そこには大小様々な石が50個以上も置かれています。それら一部は環状列石のように並んでいるようにも見えます。参道の正面にある祠の真上には、石上神社の御神体石が祀られています。高さ2 m少々、横幅は約3m、奥行は約2.5m、そして周囲が10m以上もある御神体石は、重さ約20トンはあると推定され、舟木石神座ともいわれています。御神体石の周辺に残されている紐状のような跡は、巨石が他の岩石に長年にわたり入り込んだ際に形成された、貫入痕跡と考えられます。御神体石の下部にはそれを支える岩が東西に分かれて左右に支-2-石として置かれ、古代遺跡に多く見られる支石墓とも言われるドルメン状の様相を呈しています。御神体石は天井石として支石の上に載せられていることから、これらが意図的に巨石を組み合わせて構築されたものであることがわかります。御神体石の根底部、前方には大きな空間が生まれ、そこで祠が祀られ、北に向って拝するように図られています。御神体石の裏側には、更に3体の巨石が並んでいます。そして御神体石と合わせて4体の巨石を囲むように、花崗岩の石群が半径10mほど広がっています。また、拝殿の後方、右側には20個ほど石組みが東方に向けて並んでいることから、そこも古代祭祀の跡であった可能性があります。さらに御神体石に向かって左、境内の西側には、3連に並ぶ列石状の石が置かれているだけでなく、すぐそばには2体の石と、地元の人が荒神と呼ぶ祭祀跡が、今日まで残されています。石上の森は巨大な御神体石を中心として、その周辺には大小様々な石が群がっており、その位置付けからして環状列石の様相になっている部分もあります。これらの石は、その中心となる巨大な磐座も含めて、元来その場所には存在せず、他から移設されたものであると考えらます。古代、これだけの大きな巨石を一か所に密集させるには、高度な土木技術が不可欠であり、難易度が大変高いプロジェクトであったに違いありません。よって、どのように巨石を動かしたのか、それらをどこから持ち運んだかは全く不明であり、古代の謎に包まれています。石上神社の御神体石と正面の祠舟木遺跡が証する海人豪族の存在石上神社のある淡路島の北部、舟木地区は、北淡路最大の弥生時代後期の遺跡である「舟木遺跡」が存在します。平成2年から始まった発掘調査は平成5年まで9回繰り返し行われ、多岐にわたる遺構と遺物が出土しました。竪穴住居跡や環状状大溝、土杭、ピットなどなどの遺構が出土しただけでなく、その他、多くの弥生土器や石鏃が発掘されました。よって、古代から舟木周辺には人が居住し、巨石群を石上神社(舟木)の概略図拝殿女人禁制立石御神体石由緒の説明板稲荷社中心とした祭祀活動が営まれていたと推定されます。弥生土器の年代は紀元1~2世紀と推定され、元伊勢の御巡幸から邪馬台国の歴史へと繋がる時代の節目において、舟木の集落が発展したことがわかります。注目すべきは、竪穴住居跡から、通常は海岸付近の遺跡から出土する製塩土器が56個体も見つかったことです。海人豪族である船木氏が造成した集落という想定が、これら弥生後期の遺物の出土からも支持されます。海上交通を取り仕切る船木氏の拠点となった舟木だけに、標高120mを超える丘陵の上にあっても海岸部との行き来が多く、舟木でも塩が作られていたのです。また、舟木から南西方向に5km少々離れた場所には、同じく弥生時代後期にあたる国内最大級の鉄器工房跡、「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」が存在します。つまり、邪馬台国が出現する直前の時代、舟木と五斗長は共に発展を遂げていたのです。それ故、弥生時代後期の社会の流れを解明する上でも「舟木遺跡」の発掘から得られる情報が重要視されるようになりました。平成27~28年には「淡路市国生み研究プロジェクト」の中で、約40haにも及ぶ本格的な発掘調査が予定されています。淡路島の歴史的役割を解明する手がかりが更に多く出土することが期待されています。石上神社の創始に関わった船木氏とは船木氏は古代、日本列島周辺の海原を自由に行き来した海洋豪族です。大陸より日本列島へ渡来した当初、船木氏は日本列島西端の玄関となる対馬の和多都美神社の建立にも関わっていたと考えられます。その地域は仁井と呼ばれ、和多都美神社には磯良蛭子(いそらえびす)と呼ばれる磐座が存在し、3本足の鳥居も建てられています。和多都美の神は海人豪族とも呼ばれる古代の海洋民の神であり、その神を船木氏は崇拝しました。仁井という名前は古代のイスラエル系の渡来者と関連している可能性があります。本稿の「東夷伝が証する東の島への民族移動」では、九夷(jiu-yi、ジウィ)とも呼ばれる東夷9部族の背景