ブックタイトル日本シティジャーナル vol.168

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概要

日本シティジャーナル vol.168

vol. 168御神体石の左側に見られる支え石に、イスラエルの存在があることを解説しています。仁井は中国語でjin-weiとも発音し、発音がジウィと極似していることから、仁井もジウィ、ジンウィ、という発音の言葉にあてられた漢字と考えられます。船木氏は高度な造船技術と天文学を駆使して大海を行き来していたことから、西アジアから渡来したイスラエル系の豪族と推定できるのではないでしょうか。船木氏は元伊勢の御巡幸における海上航海を取り仕切っただけでなく、その後の時代においても天皇家と密着した関わり合いを持ち、日本武尊の孫にあたる仲哀天皇の皇后の為にも、国家戦略に沿う軍船を造ったことで知られています。成務天皇の時代には大陸との抗争が迫っていたこともあり、皇居は船木氏の本拠地がある近江に遷都されたほど、国家の政治や軍政に影響力を持っていたと考えられます。船木氏は歴史の中で一貫して皇族にお仕えし、国家を守るために尽力された豪族だったのです。それ故、元伊勢の御巡幸が決行された時代、天皇家の神宝を遷しながら旅する間、船木氏が倭姫命御一行を護衛し、神宝を守られたことに何ら不思議はありません。船木氏は倭姫命の御一行の海上交通を一手に担い、伊久良河宮から伊勢まで川を下り、海を航海しながら御一行を護衛しただけでなく、複数の船を造って献上し、皇族の繁栄に大きく貢献しました。そして元伊勢御巡幸が終焉を遂げ、天照大神が伊勢にて祀られた際、船木氏は一族の本拠地を伊勢国の多気郡に定めました。ところが船木氏の主力部隊は、その直後、紀伊半島の西方へと向かい、まず吉野川や丹生川の上流にて船の塗料に不可欠な朱砂の鉱石に恵まれる地域を拠点としました。「住吉大社神代記」には、船木氏が紀の国で天手力男意気続々流住吉大神を祀ったことが記載されています。船木氏は、そこから更に淡路島、摂津、そして播磨国へと移動を続けたのです。元伊勢御巡幸の旅を成功させた立役者であった船木氏が、伊勢に落ち着くことなく淡路島から播磨国へと移住したことには、重大な意味が秘められているようです。そして、伊勢から紀伊を経て淡路島へ向かった際、そこに一族の拠点となる石上神社を造成したと考えられます。その場所が淡路島の仁井に隣接する舟木の地です。石上神社周辺の地域は舟木と呼ばれていることから、この御神体石を中心とする祭祀活動の拠点は、古代海洋豪族である船木氏が造成したものと考えて間違いないでしょう。船木氏は何故、元伊勢御巡幸が終了した後、今日「太陽の道」として知られる北緯34度32分の緯度線上にある舟木の地に、巨石を御神体石として奉じる祭祀場を造営したのでしょうか。何故、伊勢を後にして、早々に拠点を移動しながら、淡路島の舟木に拠点を設けたのでしょうか。何故、そこから北方にあたる播磨の地を最終の本拠地として移住を続けたのでしょうか。その理由を探りながら船木氏の動向に注視することにより、古代の謎が紐解かれてきます。御巡幸完結の証となる御神体石御巡幸に纏わる古代史の謎を紐解く鍵が、船木氏が建立したとされる淡路島舟木の石上神社です。海岸線や河川沿いに集落を築くことを常とした古代の海洋豪族の船木氏が、平地から少なくとも2kmは山道を上り、歩くのにも不便な遠く離れた雑木林の茂る高台の一角に石上神社の聖地を見定め、そこに集落を造成した背景には、それなりの重大な理由があったに違いありません。舟木周辺は人の居住に相応しい地勢に恵まれているとは言えず、周辺には目ぼしい指標もありません。更に、石上神社の建立にあたっては、その中心地に重さ20トンとも言われる巨石を据え置いただけでなく、多くの岩石を共に移動しなければならず、その重労働は計り知れないものがあります。何故、船木氏は何の変哲もない、一見無益に見える場所をわざわざ選別し、そこに巨石を移動してまで祭祀場所を造営し、その周辺に集落を築いたのでしょうか。その答えをレイラインの検証から得ることができます。元伊勢御巡幸の本来の目的は、国内外の治安が不安定になる最中、大切な神宝を外敵から守り、安全な場所に秘蔵することでした。そして神宝の行く末を占うかのごとく、長い年月をかけて多くの御巡幸地が定められたと考えられます。その結果、元伊勢の御巡幸地には一つの共通点が生まれました。それ剣山は全ての御巡幸地が、神宝の秘蔵場所と地理的な相互関係において明確に結び付くということです。その結果、元伊勢の御巡幸地はすべて、神宝が最終的に収蔵される秘蔵場所と、列島内の遺跡や霊峰を結び付けた仮想線の延長線、すわなち、レイライン上に見出されていたのです。その御巡幸地を特定する基点となる神宝秘蔵の聖なる山こそ、西日本で第2の標高1955mを誇る四国の剣山だったのです。御巡幸地が剣山と各地の聖地と地理的に一直線上に並ぶということは今日でも地図上で確認できることから、にわかに信憑性が増します。よって船木氏に与えられた責務とは、三輪山の地から始まる御巡幸を続けながら、その最終段にて神宝を四国の剣山に遷してしまうことだったと推定されます。船木氏こそ、元伊勢御巡幸の船旅を成功させた立役者でした。御巡幸の旅路が陸路から海上交通に変わる美濃国伊久良河宮の地点からは、神宝と倭姫命御一行を護衛するという重責を一手に担い、一世紀近く続いた御巡幸を終焉へと導いただけでなく、密かに神宝を剣山へ遷すという偉業を達成するためにあらゆる手段を講じたと考えられます。船木氏は、元伊勢の御巡幸が終わった後、神功皇后の時代においても国家を支え続けた海洋豪族でした。よって、神宝を守るだけの軍事力と経済力、さらには皇族に繋がる人脈が船木氏にはありました。それ故、天皇家の神宝を遷しながら旅する元伊勢御巡幸の背景に船木氏が存在することに何ら不思議はなく、一貫して皇族にお仕えし、神宝を守る務めを全うした一族であることを、歴史的イベントの随所三輪山と石上神社のレイライン住吉酒見社播磨石上神社伊弉諾神宮淡路住吉神社六甲山摩耶山再度山相賀八幡神社丹日前宮生都比売神社に垣間見ることができるのです。そして、その偉業を完結した証として、元伊勢の原点となる三輪山と、その最終目的となる剣山に絡むレイラインが交差する地点をピンポイントで選別し、そこに御神体石となる巨石を置き、歴史を封印したと考えられます。元伊勢の御巡幸地は、それぞれが独自のレイラインをもって剣山と結び付いているだけでなく、最終的に御巡幸の原点となる聖地三輪山と剣山が、地の力を結集するべくレイライン上でしっかりと繋がっていることを示すために、それら2つの霊峰を通り抜ける国内屈指のレイラインが交差する場所をピンポイントで見定め、そこに巨石を置いたのです。石上神社の御神体石が、その歴史の流れを今日も証しています。御神体石の背後に広がる巨石群三輪山と石上神社のレイライン日本列島屈指の霊峰である三輪山を通り抜ける東西線は、春分と秋分の日に太陽が、その緯度線上を上り下りすることから、神を心から崇拝する古代の民にとって、特別な意味がありました。それ故、元伊勢の御巡幸が終焉した際、既に伊勢神宮内宮の地が定められていたにも関わらず、そこから14km近く離れた三輪山と同緯度の場所に、倭姫命が住まわれる斎宮が造営されました。三輪山と同緯度線上に存在することは、太陽の動線も同じことから場所も見出しやすいだけでなく、三輪山の地の力を継檜原三神輪社山橿原神宮大宝寺山伊勢瀧原宮耳常神社斎宮伊勢神宮承することに繋がると考えられた時代だけに、大変重要な意味がありました。その三輪山と、神宝が秘蔵される剣山を紐付けるために、三輪山と同緯度のレイラインに交差するもう1本のレイラインが考察されたのです。そして元伊勢の御巡幸を完結する証として、三輪山の緯度線と交差する地点に岩なる神を象徴する御神体石を置くことが目論まれました。そこで剣山の頂上と古代聖地のひとつである伊弉諾神宮を結ぶレイラインに目が留められました。その線は、淡路島を超えると神戸の北、弘法大師が愛してやまなかった再度山の頂上に結び付き、更にその先には摩耶山、六甲山、そして琵琶湖西岸にある大宝寺山に繋がっているのです。これだけの霊峰が結び付くレイラインは数少なく、古代社会において重要視されたに違いありません。これら2本のレイラインは国内屈指の遺跡や霊峰を結び付けるものであり、その交差点に集結する地の力に目を留めた船木氏は、歴史の証として、そこに石上神社を建立して、神を祀ったのです。剣山のレイラインと三輪山のレイラインが交差する場所は、双方の地の利を引き継ぐ象徴の場所とも言えるでしょう。それ故、御巡幸が完結し、神宝が無事に剣山にて収蔵されたことを証するために、その交差点に巨石を置き、神宝の秘蔵場所についての証を後世へ残したのです。船木一族が祭祀活動の責務を一手に担ったことから周辺地域は舟木とよばれ、船木氏の流れを汲む大田氏らと共に、その後、一時、同族の拠点として栄えました。(文・中島尚彦)WEBサイト案内日本シティジャーナルをご覧いただきありがとうございます。本紙のバックナンバーはWEBサイトにてすべてご覧頂けます。連載中の歴史に関するコラムは最新情報に随時更新してスペシャルサイト「日本とユダヤのハーモニー」にまとめてあります。ご意見・ご要望等をお待ちしております、FAXやホームページからお寄せ下さい。日本シティジャーナル:http://www.nihoncity.com/日本とユダヤのハーモニー:http://www.historyjp.com/編集後記-3-NCJを創刊して以来、14年の月日が経ちましたが、先月、初めて1カ月の休刊という事態に陥り、大変ご迷惑をおかけいたしました。珍しく体調をくずしてしまい、思い描いていた原稿の執筆が困難になってしまいました。メインの記事として1年以上執筆してきたレイラインのシリーズは、来月で完結となります。この連載を通して元伊勢に対する理解が一層深まり、歴史に対する認識が新たにされることを期待してやみません。年明けは心機一転、日本のユダヤルーツについて書きまくる予定です。NCJ編集長中島尚彦1957年東京生まれ。14歳で米国に単身テニス留学。ウォートンビジネススクール卒業後、ロスアンジェルスにて不動産デベロッパーとして起業、ビジネス最前線で活躍する。1990年に帰国後、成田にサウンドハウスを立ち上げる。現在ハウスホールディングス代表、日本シティジャーナル編集長を兼務。趣味はアイスホッケーと読書、ここ数年は「日本とユダヤのハーモニー」の執筆に勤しむ。