ブックタイトル日本シティジャーナル vol.170

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概要

日本シティジャーナル vol.170

2016年(平成28年)2月20日発行第170刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 170Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00? 19:00[土曜]12:00? 17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部「かごめかごめ」の真相に迫る四国の剣山が「かごめの歌」の舞台である理由「かごめかごめ」の歌詞をヘブライ語で読むと、そこには神宝が取り出された後、地域一帯が焼かれたことが記されていました。その歌詞から伝わる恐ろしいほどリアルなメッセージは、フィクションのようなおとぎ話ではなく、実際に起こった出来事を、そのような歴史的背景の中で、存在したのでしょうか。元伊勢東アジア史を塗り替えたイスラエル民族大移動の潮流後世に伝承するために書かれているようなニュアンスが込められています。もし、「かごめかごめ」が過去の史実を証していたとするならば、その場所が日本のどこかに存在したはずです。神宝を証する「かごめの歌」「かごめかごめ」の舞台となった場所を探る前に、まず、そのテーマとなる神宝について考えてみましょう。日本書紀や古事記の記述に見られるとおり、皇室の権威を象徴するかけがえのない神宝の存在は、古代の日本社会においても極めて重要な意味を持っていました。国家の創始から隣国との戦い、皇居での祀りごと、そして地域の平和と民の祝福などに絡み、いつの時代でも神宝は、人々の生活と密接に結び付いていたのです。よって、神宝を外敵から守り、安全な場所に秘蔵することは、国家が担う重大な責務でした。その事例として歴史に名を残す国家レベルの施策が、元伊勢の御巡幸です。大陸からの不穏なニュースが飛び交い、国内の治安が不安定になる最中、1世紀近くの年月をかけて各地を転々と移動した御巡幸の目的は、神宝を護衛しながらその遷座地を探し続け、最終的に安全な場所にて祀ることでした。その結果、多くの元伊勢の地が誕生し、それら御巡幸地では皇族や役人だけでなく、多くの一般庶民が神宝の存在を肌で感じることができたことでしょう。そして最終的に伊勢の皇大神宮にて神の象徴である鏡が祀られて、御巡幸の旅路は終結します。しかしながら、外敵の侵入や攻撃に対してほぼ無防備な伊勢の地において、果たして本物の神宝が安置され続けたかどうかは定かではありません。特に、元伊勢の御巡幸が完結した直後、国家体制は更に不安定になり、大陸からの渡来者の波も押し寄せ続ける最中、内乱の噂が飛び交うほど治安が大きく乱れたという国内情勢がありました。それ故、レプリカとすり替えられ、本物の神宝は伊勢から遷されて、どこか人の手の届かない安全な場所に保管されたと考えるのが自然でしょう。いつしか邪馬台国が産声を上げ、元伊勢御巡幸が終焉した2世紀後には、海外にまで名が知れ渡る大きな統治国家となっていたのです。そのような歴史の流れから察するに、天皇家の権威を象徴する神宝は、邪馬台国の舞台となる新天地に遷されていた可能性が見えてきます。神宝の存在があったからこそ、その権威を誇示しつつ、女王なる卑弥呼が邪馬台国で頭角を現したのではないでしょうか。大切な神宝を守るためには、いかなる手段も問わなかった時代でした。それ故、元伊勢御巡幸のような一見、訳のわからない奇想天外な策略がめぐらされ、奇跡のミッションとも言えるほど綿密に仕組まれた遷座プロジェクトによって、神宝は外敵から守られたのです。元伊勢御巡幸の結果、安全な場所に一旦は秘蔵された神宝ですが、それも長続きはしなかったようです。その神宝の行く末に絡む話が、「かごめかごめ」の歌詞の中に潜んでいたのです。「かごめかごめ」をヘブライ語で読むと、以下の意味になります。何が守られているのか?誰が守られているのか?守護されて封印し、安置して閉ざされた神宝を取り出せ!そして火を付けろ!燃やせ!神の社を根絶せよ!水が湧く岩のお守りを造り、荒れ地に水を引いて支配せよここで守護されている神宝とは、元伊勢の御巡幸後、密かに邪馬台国の舞台となる聖地にて安置されたものであるという前提で読み直すと、わかりやすく解釈できます。ある時、神宝を収蔵されていた場所から「取り出せ」、という命令が突如として下りました。神宝の収蔵場所には火が付けられ、あたり一帯は火の海と化してしまうのです。同時にその神宝を祀っていた神社も炎上したのです。そして直前に取り出された神宝は、水が湧き最終編-1-Part.II出でる磐座に囲まれた新たな遷座地へと遷されたことを、ヘブNCJ109日本とユダヤのハーモニーから続くライ語で読む「かごめかごめ」は証していたのです。では、焼かれた神宝の収蔵場所は、どこにあったのでしょうか?その神宝を祀る社はどこに御巡幸が終結した直後の時代でもあり、その後に台頭する邪馬台国の存在を振り返るならば、神宝は邪馬台国にまで持ち運ばれたと考えるのが自然です。魏志倭人伝などの中国の史書に記載されている数々の証言や、それに伴う地勢や文化に関わる数々の状況証拠から察するに、「かごめかごめ」の歌詞の内容に適うだけでなく、元伊勢御巡幸の歴史の流れにも合致する要素を兼ね備えている場所が、国内でただひとつ存在します。それが四国の剣山です。「かごめかごめ」の舞台を剣山と想定することにより、元伊勢御巡幸の終結から神宝の秘蔵とその後の行く末まで、古代史の流れを一貫して見据えることができるようになります。「かごめかごめ」の歌により、その歴史の謎が紐解かれるのです。四国の剣山が歌の舞台である理由1.元伊勢御巡幸と結び付く邪馬台国の存在「かごめかごめ」は神宝の行く末について、ヘブライ語で証しています。その内容は、神宝が突如として持ち出され、その後、秘蔵されていた場所が焼き払われてしまうというものです。果たして、このような歌詞の背景となった場所が、どこかに存在していたのでしょうか。古来より日本では、神宝の存在が大切に取り扱われてきたことから、「かごめかごめ」が、どの時代について歌っているかは、わかるはずがないように思われがちです。しかしながら、ヘブライ語で読む歌詞の中に含まれる「神宝」、「遷座」、「焼」というテーマに焦点を当てて古代史を振り返ると、そこには「元伊勢御巡幸」と「邪馬台国」という、ふたつの重大な歴史的イベントが浮かび上がってきます。そして、元伊勢の御巡幸に絡む神宝が、「かごめかごめ」の歌が証する神宝と同一であるという前提で、ふたつの時代の繋がりを検証し直すと、元伊勢から邪馬台国へと発展するきっかけだけでなく、邪馬台国が崩壊した後の神宝の行く末まで見えてきます。元伊勢御巡幸の年代は、崇神天皇から垂仁天皇の時代、紀元前1世紀から元年の頃にあたります。それからおよそ200年隔てた3世紀の初め、日本国の歴史に邪馬台国が登場します。中国の史書には、邪馬台国が台頭する直前、倭国では70~80年間、男王が国家を統治していたものの、戦乱があり、その結果、女王卑弥呼が治めるようになったと記載されています。よって、元伊勢の御巡幸が完結した後、徐々に内政が乱れていく最中、邪馬台国の種は播かれて育ち始め、その国家形成におよそ2世紀の時間を要した後、大きな産声を上げたのです。その背景には、元伊勢の御巡幸によって遷座された神宝が存在し、それが邪馬台国の創始と関わっていたと想定されます。その神宝が、最終的には邪馬台国の原点となる山上の聖地へ遷され、周辺一帯に集落が造られ、時が満ちるとともに国家体制が整うまでに成長したとするならば、正にそのタイミングはぴたりと合っています。元伊勢御巡幸の本来の目的は、外敵から神宝を守護し、安全な場所に秘蔵することでした。そのために各地を転々とし、神宝のレプリカも鋳造しながら、本物の神宝がどこに収められているか、わからないように周囲の目をくらますことが目論まれたようです。そして表向きには神宝は伊勢の皇大神宮に祀られて、御巡幸が完結したという形をとりながらも、実際には、全く違う場所に遷されていたという、奇想天外な構想が実現した可能性を否定できません。本物の神宝は伊勢の聖地ではなく、最終的には邪馬台国となる新天地にて秘蔵されたと想定することにより、歴史の流れが見えてきます。神宝が最終的に遷座した邪馬台国は、外敵の侵入から守られる地勢を有する場所であったに違いありません。魏志倭人伝の記述内容に基づき、邪馬台国の道のりを辿ると、その到達点は意外にも、四国の剣山周辺であったことがわかります(詳細については「邪馬台国への道のり」参照)。魏志倭人伝を含む史書の記述には、様々な地域における距離の詳細までもが記され、それらを日本列島の地勢と照らし合わせて読みながら地図を辿ると、その終点が四国の山奥、剣山の頂上周辺であることに気が付きます。つまり、元伊勢御巡幸のゴール地点は実は伊勢ではなく、人里から離れた四国剣山の頂上であり、そこに神宝は秘蔵されることになったのです。安易に足を運ぶことができない、遠い山奥の新しい聖地にて、天皇の権威を象徴する神宝が遷座して祀られたからこそ、神宝は安全に守られ続け、時が経つにつれて邪馬台国は倭国を制する統治力を、国々に対して誇示するようになったのです。さらに邪馬台国には不思議な霊力が存在していたことも、史書には記されています。神宝の存在と共に霊力を増し加えた女王となる卑弥呼は、鬼道とも呼ばれた不思議な力をもって大衆を惑わし、国家を導いたのです。元伊勢御巡幸の後、邪馬台国に神宝が秘蔵されて祀られた結果、祭祀活動が積極的に執り行われたことでしょう。そしていつしか女王は霊力を身に纏うようになり、国家体制の権威が誇示されるとともに邪馬台国は脚光を浴び、歴史に名を連ねることになったのです。その一大国家の台頭を陰で支えていたのは、不思議な霊力に勝る神宝の存在に他なりません。しかしながら、邪馬台国の歴史は短命に終わりました。女王卑弥呼が死去した後、崩壊の一途をたどり、3世紀の半ば、266年に卑弥呼の娘である倭の女王の使者が朝貢したことを最後に歴史から消え去ります。そして日本は「空白の4世紀」と呼ばれる時代に突入し、5世紀初頭まで何ら史料が残されてないという、正に歴史の空白に突入するのです。いったい邪馬台国に何が起こったのでしょうか。何故、いとも簡単に邪馬台国は崩壊してしまったのでしょうか。そこに秘蔵されていた神宝は、どうなってしまったのでしょうか。女王国とも呼ばれた邪馬台国では、多くの偶像礼拝が執り行われ、自らを神とした暴君の高慢な罪は、目に余るものがあったようです。また、邪馬台国の在り方そのものは天皇を君主とする従来の国家体制とはそぐわないものであり、国生みの時代から続く神々への信仰を否定するものでもありました。その結末が周辺国からの攻撃と、火による裁きです。旧約聖書にも記さ次頁に続く