ブックタイトル日本シティジャーナル vol.170
- ページ
- 2/4
このページは 日本シティジャーナル vol.170 の電子ブックに掲載されている2ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 日本シティジャーナル vol.170 の電子ブックに掲載されている2ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
日本シティジャーナル vol.170
2016年(平成28年)2月20日発行第170刊毎月第3土曜日発行購読無料宗像大社(辺津宮)れているとおり、古代では偶像礼拝や不信仰などの罪が深い町々は、神の裁きによって敵国から攻め入られ、焼かれてしまうという事例が少なくありません。同様に、神宝の遷座と共に発展した邪馬台国も周辺国の攻撃を受けて国家が壊滅し、その後、周辺一帯は罪から清めるために焼き打ちにあったと考えられます。結果、邪馬台国は跡形もなく消え去ってしまったのです。その際、天皇の権威を象徴する大切な神宝は、未然に取り出されたことでしょう。神宝の到来により始まった邪馬台国の歴史であるだけに、その終焉は、神宝が取り去られることをも意味していたのです。邪馬台国の発展と荒廃には、神宝の遷座と守護に関わる重要な歴史が含まれています。聖なる神宝だけに、邪馬台国に安置されていた神宝は、国家が崩壊した後、安全な場所に再び遷されたのではないでしょうか。その史実を「かごめかごめ」の歌は、ヘブライ語で証していたと考えられます。邪馬台国の比定地である四国の剣山に神宝が遷座したと想定することにより、元伊勢の御巡幸から邪馬台国へと繋がる歴史の流れが明確になり、ヘブライ語で読む「かごめかごめ」の歌詞の内容が、より一層、現実味を帯びてきます。「かごめかごめ」の歌詞は、邪馬台国が崩壊した後の時代、秘蔵されていた神宝が取り出され、周辺一帯は焼かれて清められたことを、如実に物語っていたのです。2.元伊勢のレイラインは剣山が起点元伊勢御巡幸により守護されていた神宝が、最終的には邪馬台国へ遷されたとするならば、その新しい秘蔵場所は、伊勢からさほど離れていない地域に存在したはずです。その場所を特定するには、邪馬台国の比定地を中国史書の記述を基に検証するだけでなく、元伊勢の御巡幸地に絡む数々のレイラインと、それらの繋がりを調べることも重要です。一見、不規則に散在しているように見える御巡幸地ではありますが、それらの場所には一つの共通点が存在します。全ての御巡幸地は、四国剣山とレイライン上で繋がっていたのです。剣山と元伊勢に関わる御巡幸地を剣山と絡む元伊勢のレイライン1714高千穂神社日向(宮崎)出雲大社高越山剣山杖立山石鎚山杖立山高城山石立山虚空蔵山(高知)6室戸岬通るレイラインを地図にプロットすると、どの御巡幸地も剣山と直結するレイラインが存在していることがわかります。それは、四国の剣山を起点として、他の聖地や霊峰、地の指標を結ぶ線上に、それぞれの御巡幸地が見出されたことを意味しています。それ故、これらレイラインの起点となる剣山の意味は重要であり、神宝と何かしらの繋がりを持っていた可能性が見えてきます。元伊勢御巡幸の目的は神宝の守護であり、人の手の届かぬ安全な場所に神宝を秘蔵することでした。その結果、御巡幸の最終目的地として選ばれた場所が、西日本で2番目の標高を誇る剣山であったと想定すれば、レイラインの起点として特別視された理由が明確になります。しかしながら、例え断崖絶壁が連なる剣山への道のりとて、その場所を公言してしまえば、いつ何どき、盗賊がやってくるかわかりません。神宝の収蔵場所は、隠ぺいするしかなかったのです。それ故、誰もわからない場所に密かに秘蔵することが目論まれ、元伊勢の御巡幸という謎めいた長旅が計画されたのです。そして神宝の秘蔵場所となる最終目的地を剣山と定め、他の聖地と剣山を結ぶレイライン上に並ぶ場所を、御巡幸地の条件としたのです。こうして全ての御巡幸地は1か所ずつ念入りにロケーションが精査され、剣山という起点をレイライン上で共有することができたのです。その結果、それぞれの御巡幸地から剣山の方向を見ると、その御巡幸地と霊峰を結ぶ一直線上の間には、大切な聖地が必ず並ぶようになったのです。それらの聖地と一直線上にぴたりと並ぶ剣山の存在は、例え目にすることはできなくても、人々の心に徐々に根付いたことでしょう。元伊勢の御巡幸は、神宝が秘蔵された場所の謎を解くための鍵を後世にも伝えることも、その目的のひとつとしていました。それ故、ひとつひとつの御巡幸地に絡むレイラインは剣山を含むものとし、剣山が共通の起点として示されるように工夫されただけでなく、そこが御巡幸の最終目的地であることも分かるように、最終的に淡路島の伊弉諾1516諏訪大社守屋山11214 1516富士山17熱田神宮13御在所岳1218三輪山1910二上山11 7 320 21 1 9228天香具山瀧原宮45熊野本宮大社(大斎宮)鹿島神宮香取神宮4 , 81笠縫邑(檜原神社/大神神社摂社)[高千穂神社ー剣山ー笠縫邑ー三輪山]12敢都美恵宮(都美恵神社)[剣山ー敢都美恵宮ー熱田神宮]2吉佐宮(真名井神社)[石立山ー剣山ー高越山ー吉佐宮]13甲賀日雲宮(若宮神社、垂水頓宮址)[剣山ー甲賀日雲宮ー御在所岳]3伊豆加志本宮[剣山ー三輪山ー与喜天満神社]14坂田宮(坂田宮)[日向(宮崎)ー剣山ー坂田宮]4奈久佐浜宮(日前神宮)[剣山ー奈久佐浜宮ー富士山]15伊久良河宮(宇波刀神社)[剣山ー伊久良河宮ー諏訪大社]5奈久佐浜宮(濱宮)[剣山ー奈久佐浜宮(濱宮)ー斎宮]16中嶋宮(酒見神社)[剣山ー中嶋宮ー守屋山)6名方浜宮(伊勢神社)[室戸岬ー剣山ー名方浜宮]17桑名野代宮(野志里神社)[虚空蔵山(高知)ー剣山ー桑名野代宮]7御室嶺上宮[三輪山、高宮神社(大神神社摂社)]18奈其波志忍山宮(布気皇館太神社)[剣山ー二上山ー布気皇館太神社]8宇多秋宮(阿紀神社)[剣山ー阿紀神社ー富士山ー香取神宮]19藤方片樋宮(加良比乃神社)[剣山ー藤方片樋宮ー鹿島神宮]9佐々波多宮(篠畑神社)[剣山ー天香久山ー佐々波多宮]20飯野高宮(神山神社)[剣山ー濱宮ー飯野高宮]10市守宮(蛭子神社)[剣山ー三輪山ー市守宮]佐佐牟江宮(竹佐々夫江神社)[剣山ー濱宮ー佐佐牟江宮]11穴穂宮(神戸神社)[剣山ー沼島(上立神岩)穴穂宮]伊蘓宮(磯宮)[杖立山ー剣山ー高城山ー杖立山ー伊蘓宮]101 , 3 , 719神宮と剣山を結ぶレイラインと三輪山の緯度線が交差する場所に磐座を置き、そこで神を祀ったのです。これが淡路島の舟木にある石上神社創始の背景です(後述参照)。こうして古代の識者を含め、後世の民でも、元伊勢の御巡幸地と剣山を交えたレイラインの存在に気づくことにより、神宝の秘蔵地となった剣山の重要性を理解することができたのです。3.神宝の秘蔵が伝承される剣山西日本で2番目に高い剣山の周辺地域では、ユダヤの秘宝が隠されているという噂が遠い昔から村々で語り告がれています。剣山の麓は「日本のチベット」と呼ばれるほどの交通の難所であり、そこには今もってなかなか開発が進まない東祖谷山村(ひがしいややまそん/現・三好市)が存在します。四国の真ん中に位置する人口2,600人余りの小さい村で、その地域は高山に道を阻まれており、まさに秘境。その東祖谷村でも、ソロモンの秘宝と言われる契約の箱が、この剣山下に隠されていると言い伝えられてきました。村の観光案内でも公式に認知されていることもあり、単なる伝説ではすまされないようです。剣山の麓にある祖谷地方には、古代から伝承されている民謡があり、その歌詞は、神宝や、イスラエルの契約の箱に関して歌っているという説もあります。祖谷の谷から何がきた。恵比寿大黒、積みや降ろした。伊勢の御宝、積みや降ろした。三つの宝は、庭にある。祖谷の空から、御龍車が三つ降る。(中略)伊勢の宝も、積みや降ろした、積みや降ろした。(中略)三つの御龍車が降った祖谷。伊勢の宝が罪おろされた祖谷。この歌の背景について詳細は不透明なものの、剣山に向けて、伊勢から神宝が運ばれてきたことが語られているように読み取れます。祖谷地方の民謡に、神宝の移動を証する歌が残されていることは極めて重要であり、その背景は「かごめかごめ」のものと同じであったと考えられるのです。剣山に神宝が秘蔵されている、ということを最初に公言したのは、神奈川県出身の元小学校校長である高根正教氏です。高根氏は昭和11年から3年にわたり、剣山の頂上周辺にて発掘調査を行いました。発掘した全長は485尺、すなわち150~160mにも及び、その結果、多くの玉石や鏡石などの遺物が見出され、同氏は剣山を「人工の山」と称したほどでした。そして高根氏は聖書や古事記を比較研究した結果、剣山にはイスラエルの契約の箱が隠されているのでないか、とい-2-う結論に達したのです。その真相は定かではないものの、高根氏の働きは、剣山の存在を世間に知らしめることになります。その後、同氏の剣山に纏わる働きは、御子息である高根三教氏に引き継がれ、筆者も生前、色々な話を高根氏の自宅にて伺うことができました。高根氏の見解には極論が多く見られたものの、剣山に関する洞察力は抜きんでており、周辺の遺跡に纏わる貴重な話を聞くことができたことは収穫でした。4.金の鶏が秘蔵されたと語り継がれる石尾神社高根氏から教わったことで、最も感銘を受けたのが、徳島県穴吹にある石尾神社の存在です。今となっては、荒廃した岩場のようにしか見えませんが、そこには剣山の謎を解く多くの鍵が残されています。最も大切なことは、古代、人々が剣山を参拝する際にはこの石尾神社にて、まず祈りを捧げ、それから杖立峠という難所を通り抜けて、剣山の山頂へと向かったのです。よって、石尾神社は何故かしら重要な位置づけにあり、剣山と深い絆で結ばれていたことがわかります。その石尾神社は、空海こと弘法大師も愛してやまない聖地でした。それ故、空海が高野山に拠点を設け、紀伊の吉野川上流にて人生の最後の日々を過ごした際も、高野山周辺にしか見られない「こうやまき」という木を、わざわざ石尾神社まで持ち運び、御神体として佇む巨大な磐座の頂上に植えたのです。それほどまでに何故、空海は石尾神社を大切に取り扱ったのでしょうか。その理由を解明することが、「かごめかごめ」の謎を紐解くことになります。岩間を通り抜ける石尾神社の参道石尾神社の御神体である巨大な磐座には、古代より、金の鶏が埋蔵されていると伝えられています。それ故、今日では巨石の真横に、「金鶏の風穴」と大きく記された標識が立てられ、その下には小さく、「この穴は清水があり、さらに進むと金鶏の像があると伝えられる」と書かれています。火のない所には煙は立たぬ。何かしらの理由があり、金の鶏に見えるような物体が古代、石尾神社に持ち運ばれ、巨石の下に埋められたのではないでしょうか。このような伝承が2千年以上の時を経てまで語り継がれていることに驚きを隠せません。もしかして金の鶏とは、イスラエルから運ばれてきた契約の箱の上に取り付けられていた、ケルビムと呼ばれる1対の鶏のことかもしれません。それ故、剣山界隈、祖谷の地域では、古くからイスラエルの契約の箱に纏わる伝承が残されてきたのではないでしょうか。石尾神社の御神体となる巨石石尾神社の磐座は特筆すべき価値のある、見事なものです。その御神体である結晶片岩の路頭は、100mx50mというとてつもない大きさを誇示しています。その磐座を空海も大切にしていた形跡が残されていることからしても、石尾神社が神宝と絡んでいた可能性は高いと考えられます。5.鶴石と亀石を崇める剣山剣山の頂上近くには宝蔵石と呼ばれる巨石があり、そこから200mほど離れた所には、鶴石、亀石と呼ばれてきた大きな岩石が存在します。これらの巨石は古くから、剣山を登頂する多くの人から崇められてきました。鶴と亀、と言えば、「かごめかごめ」の歌詞に登場する2匹の「すべった」動物が、思い起こされます。剣山は山自体が「鶴亀山」とも呼ばれることもあり、「かごめかごめ」のテーマと一致します。これはもはや単なる偶然とは言えないでしょう。剣山の鶴石と亀石の存在は、剣山に纏わる数多くの伝承の中に「かごめかごめ」の歌も含まれていたことに起因しているのではないでしょうか。剣山の鶴石6.剣山周辺が焼かれた痕跡とは四国では瀬戸内側に高地性集落の遺跡が多数見つかっています。古代社会の不思議とも言われる謎めいた高地性集落は、剣山を中心とする周辺の山々でも存在しました。実際、祖谷地区の周辺には近年までは大きな牧場が存在したほど、剣山周辺でも、人々が居住することができる程度のなだらかな斜面と地勢を有する山麓が少なくありません。四国の山上に高地性集落を造営することは決して難しいことではなく、邪馬台国が存在していた可能性も見えてきます。標高1,955mを誇る剣山の頂上周辺は、ササ原やコメツツジの野原が広がっています。樹木が全くなく、野原が尾根に沿って広がっていることから、その景観は「馬の背」、とも呼ばれています。このように、ササ原に囲まれた