ブックタイトル日本シティジャーナル vol.171
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日本シティジャーナル vol.171
2016年(平成28年)3月31日発行第171刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 171Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~19:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部建国に貢献した船木氏の真相卓越した造船技術を駆使して国家安泰に尽力した一族崇神天皇から垂仁天皇の時代にかけて執り行われた元伊勢の御巡幸において、海上交通と港の要所を仕切り、倭姫命御一行の船旅だけでなく、神宝の遷座についても重要な責NCJ109日本とユダヤのハーモニーから続く登場し、東方の征伐に向かおう東アジア史を塗り替えたイスラエル民族大移動の潮流務を負っていた船木氏の働きは、極めて重要です。船木氏こそ、元伊勢の御巡幸を成功に導いた陰の立役者でした。そして歴史の重要な接点においては、天皇家と密に関わりを持ちながら、国家の発展に貢献を成し遂げました。船木氏の働きに伴う一族の動向に注視し、歴史の背景を探ることにより、卓越した海洋技術を携えていた船木氏の果たした軍事的な役割や、神宝との関わり、そして一族が拠点を移動しなければならなかった理由まで、少しずつ古代の謎が紐解かれてきます。船木氏の優れた造船や海洋技術に支えられて完結した御巡幸の船旅は、倭姫命が伊勢の五十鈴河上に到達し、そこで天照大神を祀った後も続きます。事実、倭姫命は伊勢から更に紀伊半島を南下して伊雑宮がある志摩周辺にも出向き、そこで神々に捧げる御饌(ミケ)を収穫しました。その後、倭姫命の御一行は伊勢へ戻りましたが、船木一族は紀伊半島の最南端から西側を北上して淡路島の方へと向かったのです。船木氏の足取りを理解することは、直後に台頭する邪馬台国だけでなく、神宝の行方にも深く関係していることから重要です。鹿児島県船木山のレイライン伊平屋島ヤヘー岩城山伊江島鹿児島県日置市吹上町船木山出雲大社石鎚山元伊勢の御巡幸が終焉した直後の景行天皇の御代では、纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)と呼ばれた今日の奈良に皇居がありました。その後、日本武尊(ヤマトタケル)が歴史の主役としてとされた際、倭姫命は伊勢にて草薙剣を献上します。そして次の成務天皇の時代では、日本武尊の父である景行天皇が晩年に行幸された船木氏の一大拠点である近江、今日の大津周辺に、皇居が遷都されました。大陸との抗争が迫っていたこともあり、船木氏の擁する巨富と海軍力のノウハウを駆使して、国家戦略を練ることが重要な時代だったからこそ、船木氏のお膝元に都を遷す必要があったのでしょう。その後、日本武尊の子である仲哀天皇が即位します。その皇后は、史書にはオキナガタラシヒメとも記載されている神功皇后です。船木氏は国家戦略に沿い、海外との交戦に不可欠であった軍船を神功皇后に献上したことでも知られています。つまり、元伊勢の時代から2世紀近く経った神功皇后の時代においても、船木氏は国家を支える海洋豪族として、不動の軍事力を誇示していたのです。その間、船木氏は一族の拠点を伊勢から北西方向の播磨へ向けて、徐々に移していたことにも注視する必要があります。その動線から、船木一族が抱えていた重責を、垣間見ることができます。剣山室戸岬諏訪大社伊雑宮伊勢から播磨へ移動する船木氏元伊勢御巡幸の際、船木氏は倭姫命の御一行の海上交通を一手に担い、伊久良河宮から伊勢湾まで川を下り、海沿いを航海しながら御一行を護衛しただけでなく、倭姫命に複数の船を献上し、皇族の繁栄に大きく貢献しました。その後、天照大神が伊勢にて祀られ、元伊勢の御巡幸が終焉を遂げた頃には、船木一族は伊勢国の多気郡を本拠地としていました。多気郡には伊勢湾から宮川を介して川を上ることができるだけでなく、近隣には元伊勢御巡幸地のひとつでもある瀧原宮が存在し、更に古代レイラインの視点からも極めて重要な立地条件を有していたことから、船木氏の拠点としては絶好の環境が整っていたのです。ところが海人豪族として名を馳せた船木氏は、御巡幸の責務を完了して伊勢国にしばらく滞在した後、主力部隊は紀伊半島の西海岸を北上し、紀の国の丹生川上や淡路、摂津へと移動を最終編続けたのです。その船木氏の足取りを掴む手掛かりが「住吉大社神代記」に記されています。そこには、住吉大神の宮が所在した最も古い9社のひとつとして、今日の和歌山にある「天手力男意気続々流住吉大神」の名称が含まれています。伊勢の多気郡勢和村が丹沙の産地だったように、丹生川上にも造船に使われる塗料に不可欠な丹沙と呼ばれる硫化水銀からなる鉱物が存在しました。船木氏の足取りを辿ると、そこには必ずと言ってよいほど鉱物の存在があったのです。丹生川上の地域周辺には住吉大神にちなんだ上筒香、中筒香、下筒香という地名も見られ、近郊には神功皇后が丹生都比売を祀るために建立したと伝えられる丹生都比売神社もあることから、これらの背景には住吉三神と造船技術に絡む船木氏の存在があったと考えられます。その後、元伊勢の御巡幸から1世紀少々を経た成務天皇の御代においては、船木氏の拠点は琵琶湖の南岸、近江の周辺にも広がりをみせ、そこに皇居が遷されることになります。琵琶湖界隈は、古くから船木氏が海上-1-交通の要所として目を留めていた地域です。それ故、元伊勢を巡る際には、御巡幸地のひとつである坂田宮の地も琵琶湖の沿岸に特定され、その東方には元伊勢御巡幸の船旅が始まる伊久良河宮の場所も見出されたのです。水上交通の便に恵まれた琵琶湖周辺は、船木氏の拠点として発展するに必要な格好の条件が揃っていました。元伊勢の御巡幸が完結して2世紀ほど経た仲哀天皇の時代、船木氏は一族の主たる拠点を播磨国周辺へと移動させ、そこを一族の中心拠点としました。播磨国の川上は、砂鉄が豊富に採取できるだけでなく、朝鮮半島と都を行き来する上での交通の要所であり、更にその真南には、元伊勢の御巡幸直後に移動して祀った淡路島舟木の巨石も存在することから、重要視されました。播磨国にて船木氏の拠点が広がる様子については、複数の記述が「住吉大社神代記」に含まれています。明石郡の船木村、黒田村、辟田村においては、船木連が封戸や田を献上したと記され、播磨国においては、その川の上流に向かって船木氏の最終拠点が広がったことが読み取れます。そして神功皇后の時代には、賀茂郡にて住吉酒見社が建立され、船木氏の拠点は今日の小野市や加西市の周辺にまで発展したのです。「船木等本記」が証する歴史の真相「住吉大社神代記」は、「胆駒神奈備山の本記」や「船木等本記」など、特定の題名に関する記述を主体とした複数の章により構成されています。船木氏については、例えば「胆駒神奈備山の本記」に、「大八嶋国の天の下に日神を出し奉るは船木の遠祖、大田田神なり」という記録が残されています。そして船木氏の遠祖である大田田神は、木製と石製の船を2隻造り、後世に証として残すために、「胆駒山の長屋墓に石船を、白木坂の三枝墓に木船」を納めたことも記載されています。「船木等本記」にも、船木氏による造船関連の貢献について詳細が記されています。そこには神功皇后が新羅国へ討伐に向かった際に、大田田命と神田田命の所領から木材が伐り出され、船が3隻造られたと書かれています。当時、倭国は新羅国と戦争状態にあり、造船技術に長けた船木氏は、国政の中核となる存在として、船を造る責務を授かっていました。そして船木氏の遠祖が領有した杣山は住吉大社へ寄進され、そこから造船に相応しい良質の木材が伐り出されたのです。住吉大社の神領地となった杣山は、椅鹿山と呼ばれることもありました。造船技術だけでなく、多くの資産を保有していた船木氏は、国政においても重要な役割を担うようになり、住吉大社においては神官などの役職も務めながら、全国各地で船司、津司を任じられるようになります。船木氏が単に船舶の技術に特化した職業一族でないことは明らかです。優れた船を造るだけの技術と資産、しいては軍事力も携えていた船木氏が、元伊勢の御巡幸だけでなく、神功皇后の時代でも皇族と密接に関わり合いを持ち、政治に直接絡む数多くの働きを成し遂げた理由は、船木氏の家系にあったのです。「船木等本記」には船木氏の家系について、詳細が記されています。注目すべきは、彦太忍信命の名前です。その系譜によると、彦太忍信命の父は崇神天皇の一代前、第9代開化天皇です。また、日本書紀に準じるならば、更に一代前の孝元天皇が彦太忍信命の父であり、武内宿禰の祖父にあたります。よって、彦太忍信命の娘として系譜に記載されている忍海部乃刀自は竹内宿禰の近親となります。つまり、船木氏は、天皇家と血縁関係にある渡来系の海洋豪族だったのです。だからこそ、元伊勢の御巡幸という世紀のイベントが執り行われた際に、船木氏は天皇家のガード役として、皇族の御一行と一緒に携えられていた神宝をお守りする重責を授かったのです。そして神宝の安置をより確実なものにするために、神宝の運搬に関わる対策についても、船木氏に一任されたのです。天皇家より深い信任を得て、神宝を守るという重責までも与えられ、古代史における重要イベントの随所に船木氏の存在が浮かび上がってくることは、決して偶然ではなかったのです。天皇家と親戚関係にある渡来系の海洋豪族船木氏にとって、国家安泰のために尽力することは当然の責務だったのです。「船木」の由来とヘブライルーツ今日、日本列島各地に船木の地名は存在し、古代から船木部、または船木仰、船城仰と呼ばれている地域があります。ごく一般次頁に続く