ブックタイトル日本シティジャーナル vol.171
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日本シティジャーナル vol.171
vol. 171のの発音であることから、古代より船が神の象徴として祀られていたことがわかります。伊作郷の船木という地名の由来は、イスラエルに絡んでいる可能性が極めて高いと言えます。日置郡吹上町の船木が鹿児島沿岸に特定された理由は、レイラインの存在からも説明することができます。古代、大陸より日本列島に到来したイスラエルの民の多くは、琉球諸島を経由して、船で北上してきました。台湾を経由して琉球諸島に渡った後、その中心となる拠点として栄えたのが今日の沖縄、那覇です。そして地域に浮かぶ多くの島々の指標として定められたのが、「神の岩」を意味する伊平屋島のヤへー岩と、沖縄本島に隣接する伊江島の城山です。2つの指標を結ぶ北方の先には日本海側に出雲大社が存在するだけでなく、その一直線上に、吹上町の船木神社が並びます。また、この船木神社と四国の剣山を結ぶと、北東方向の延長線上には諏訪大社が存在することも見逃せません。諏訪大社周辺には縄文時代から集落が築かれていました。また、国生み神話においては大国主神の御子神である建御名方神(たけみなかたのかみ)と、武甕槌命(たけみかづちのみこと)との争いにおいて、建御名方神が逃亡した舞台にもなった聖地です。諏訪湖の周辺は、日本列島を分岐する巨大なプレートが折り重なることから、地勢的にも極めて重要な場所です。古代の民は、そのような列島の地の環境までも知り得ていたのでしょうか。さらに船木神社と室戸岬を結ぶと、その一直線上に伊雑宮が建立されているのも、単なる偶然ではないようです。鹿児島に到着した後、周辺の島々を巡りながら探索した船木氏をはじめ古代の識者は、すぐに室戸岬と足摺岬を結ぶ線が、夏至の太陽が昇るおよそ30度の角度となることに目を留めたことでしょう。鹿児島県の吹上町船木山から見て、夏至の日に太陽が昇る北緯29度38分の方向には室戸岬があり、その先には、伊雑宮が存在したのです。その夏至の日の出線上に拠点を定めれば、四国の岬を指標にして容易に行先を探すことができるのです。そこで、夏至の日の出方向に室戸岬が並ぶ線と、沖縄の基点となるヤヘー岩と出雲を結ぶレイラインが交差する地点を、鹿児島の拠点とすべく、船木山として定めたのでしょう。その結果、船木山の船木神社から夏至の日の出方向にまっすぐ進み、足摺岬と室戸岬を越えて更に直進すると、古代の聖地、伊雑宮に必ず到達することができたのです。古代聖地の多くは、こうしてレイラインによって相互に結び付けられながら特定されたのです。これらの船木山を通り抜けるレイラインの検証から、猿田彦命に纏わる伝承はあながちおとぎ話ではなく、船木神社が古代海上交通の要所として位置付けられ、その港から船木氏が船出したことを証していたものである可能性を否定できません。また、鹿児島の南岸から船木氏が船出して列島の島々を東方に向けて航海したということは、船木氏が古代、大陸から台湾、琉球諸島を経由して船で北上し、まず、鹿児島の最南端に到達したことを示唆しているようです。優れた航海技術を既に携えていた船木氏だけに、古代、鹿児島から瓊瓊杵尊御一行を護衛することも厭わなかったのです。琉球から南西諸島を経由して鹿児島に着岸した船木氏らは、その後、瓊瓊杵尊御一行を護衛して瀬戸内へと向かうかたわら、周辺の島々を探索しながら、大陸からの玄関となり、列島の最西端に位置する対馬を重要視したようです。大陸から日本列島に渡航する際には、琉球諸島経由だけでなく、朝鮮半島からも渡来者の流入が考えられたからです。対馬では最南端にある湾内に拠点が見いだされ、そこはいつしか豆酘(つつ)と呼ばれるようになりました。「つつ」と言えば、住吉三神、または筒男三神(つつのお)とも呼ばれる表筒男、中筒男、底筒男が思い起されます。住吉三神は国生みの時代、天照大神やスサノオ命に先立ち、対馬界隈を航海した先人です。そして周辺の島々にて海人族の文化を土着させ、地域の発展に貢献した結果、対馬では古代の祭祀遺跡が多数残っているだけでなく、今日、島内にある式内社だけでも29座も存在するのです。よって、筒男三神にちなんだ「つつ」という地名が対馬にて古くから定められたのは、ごく自然の流れと言えます。豆酘の拠点を住吉三神が大切にされただけに、同じ海人豪族である船木氏にとっても、対馬は古代の重要な拠点となりました。日本全土に広がる船木の地名と由緒大陸から沖縄を経由し、南西諸島を北上して鹿児島まで到達した船木氏は、その後、瓊瓊杵尊を護衛しながら列島を東方に向かいました。その途中、対馬を経由して、日本海側は出雲を越えてまで探索し、太平洋側の沿岸も、そのほとんどを網羅したことでしょう。こうして日本列島の全体像をおよそ把握した船木氏の一行は、瀬戸内からは摂津を経由して内陸の琵琶湖へと向かい、列島の各地に船木の拠点を造成していきます。その結果、船木の拠点は一部東北と北海道を除く全国に広がることになります。別章の「大八島国の領域」に記載したとおり、西アジアのイスラエルから到来した民は、現地での彼らの行動範囲である最南端のベエルシェバ(北緯3 1度1 4分)から、最北端のハラン(北緯3 7度1 2分)の間において、長年の天体観測に基づく地勢の調査が行われてきたことから、日本列島においても、同じ南北の緯度線の間を探索することが、中心的な働きとなりました。その結果、南は鹿児島の最南端、北は、北陸から福島周辺が限界となり、それよりも北方に移動することは、ごくまれなことでした。また、船木氏は主に沿岸に集落を形成する傾向がありましたが、時には鉱山の採取や、レイラインの調査から聖地が特定されたことにより、内陸にも拠点を設けました。その際でも、できるだけ海や大河に繋がり、水上交通に恵まれた川上に拠点を持つことを常としたようです。船木氏が内陸に特定した拠点のすべては、レイラインの考察から、なぜ、その場所が重要であったかを知ることができます。和名抄によると、船木郷は、下総国海上郡、遠江国蓁原郡、尾張国山田郡、美濃国本巣郡、近江国蒲生郡、安芸国安芸郡と沼田郡が列記され、相模国愛甲郡船田郷も船木田の略称と言われています。安芸国安芸郡は今日の呉市の周辺にあたり、これらの地域は古代から海上交通の要海沿いに現在も残る舟木の地名1秋田県由利本荘市東由利宿船木2茨城県鉾田市舟木3千葉県銚子市船木4千葉県長生郡長柄町船木5静岡県島田市船木6静岡県浜松市天竜区春野町堀之内字船木7岐阜県瑞穂市(本巣郡巣南町船木)8三重県四日市市耳常神社(舟木明神)9三重県度会郡大紀町船木10滋賀県近江八幡市船木町11滋賀県高島市安曇川町北船木12大阪府茨木市舟木町13和歌山県丹生都比売神社(船木氏拠点)14京都府京丹後市弥栄町船木15兵庫県丹波市春日町(船城地区)25272829242616兵庫県小野市船木町17兵庫県淡路市舟木18鳥取県鳥取市船木19徳島県美馬市脇町舟木20愛媛県新居浜市船木21広島県三原市本郷町船木22広島県安芸高田市高宮町船木23広島県呉市西三津田町(庄山田村船木)24山口県宇部市船木25長崎県平戸市船木町26大分県豊後大野市千歳町船田(船木村)27鹿児島県薩摩郡さつま町船木28鹿児島県日置市吹上町田尻(船木神社)29鹿児島県肝属郡南大隅町根占辺田舟木所として、造船も盛んに行われた地域です。和名抄で高田郡船木郷に当たる近郊の安芸国高田郡高宮町には船木、下船木の大字があり、その江ノ川上流では船が造られていました。呉とは主に朝鮮半島の百済国を経由して渡来してきた大陸系の民族の名称でもあり、時には百済人と重なって解釈されることもあります。古代、呉人は多くの技術を携えて日本に渡来してきたことから、呉人の文字に伎人とあてて読むこともありました。伎楽(呉楽)、呉服、呉織、呉竹など、呉人は多くの優れた文化を大陸から日本にもたらしました。そして和船とも呼ばれる日本特有の造船においても、呉人は重要な技術を提供した一族であると考えられています。それ故、呉人が得意とする古代の職の中には、船子、船長、船作などが含まれています。呉人は百済人と共に古代から、海上交通に関する重要な役割を果たし、その結果、今日でも呉市では造船が続いているのでしょう。その他、船木、舟木の名称が残されている地域は、丹後竹野県弥生町、近江国高島郡安曇川町、淡路国津名郡仁井村、備前国赤磐郡吉井町、伊余、因幡国岩見郡津之井村、長門国厚狭郡楠町、肥前国東松浦郡には船木山などがあり、更に古書を見ると、武蔵国船木本庄、摂津の島上郡野身郷船木刀自女、讃岐国大内郡「船木小則女(美濃の船木家)など、今日の所在地は不明ではあるものの、古代では存在していた船木事例が文献に記されています。これらのほとんどは海岸沿いか、河川の流域に存在します。し23222120191815161714121311109船来山7865かし中には、内陸に位置する船木の地も存在します。播磨国加東郡小野市大字船名(旧船木)が、その一例です。神宮皇后の時代、船木連の遠祖、大田田命と神田田命がこの地に居住し、杣山の木を用いて船3隻を作り、皇后に献上した場所でもあります。当時、戦いに使用される官船は、川上でもかなり奥まった山中で造船されることがあったことが確認されています。大陸でも即晋書幸霊伝などに、山中にて官船が造られた記録が残されています。その他、吉井川の上流にある備前国赤磐郡吉井町字舟木、江ノ川の上流にある安芸郡高田郡高宮町大字船木、伊勢国度会郡大宮町舟木、美濃国本巣郡船木などは、いずれも内陸に存在する船木ではあるが、どれも川沿い近くに存在し、造船に携わっていた歴史的背景を持っています。このように、全国に広がる船木の地名は、その多くが海岸線沿いに存在するものの、中には内陸の川上、山中に存在する町もあります。船木、もしくは舟木とも記される地名の共通点は、そこに船木氏が居住して古代、集落を造成したことです。そして、これらの船木の集落は、造船に使われる船材を産出する山や鉱山に関わる土地の意味を持つ場合と、それらの船材を採取して、実際に船を造る船木部の人々の集落を指している場合とに分かれながらも、船を造りながら船木郷、船木村は船木の拠点として栄えていったのです。(文・中島尚彦)引き続き、船木氏の拠点について、http://www.historyjp.com/で紹介します。是非、ご覧下さい。1423WEBサイト案内日本シティジャーナルをご覧いただきありがとうございます。本紙のバックナンバーはWEBサイトにてすべてご覧頂けます。連載中の歴史に関するコラムは最新情報に随時更新してスペシャルサイト「日本とユダヤのハーモニー」にまとめてあります。ご意見・ご要望等をお待ちしております、FAXやホームページからお寄せ下さい。日本シティジャーナル:http://www.nihoncity.com/日本とユダヤのハーモニー:http://www.historyjp.com/編集後記-3-めまぐるしく天候が変わる中、ふと気が付くと春が訪れ、桜の季節となりました。ヘブライ語で桜は「隠す」を意味することから「八重桜」は「神隠し」となります。その神隠しに纏わる童謡、「かごめかごめ」のヘブライ語による解釈を連載にて解説してきました。近日中には、実際にヘブライ語で朗読したものを録音し、WEB上にて掲載する予定です。ぜひ、一度聞いてみてください。著名な日本の童謡が、実際にはヘブライ語で書かれていたという可能性が、より明確に見えてくるかもしれません。NCJ編集長中島尚彦1957年東京生まれ。14歳で米国に単身テニス留学。ウォートンビジネススクール卒業後、ロスアンジェルスにて不動産デベロッパーとして起業、ビジネス最前線で活躍する。1990年に帰国後、成田にサウンドハウスを立ち上げる。現在ハウスホールディングス代表、日本シティジャーナル編集長を兼務。趣味はアイスホッケーと読書、ここ数年は「日本とユダヤのハーモニー」の執筆に勤しむ。